後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
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日本正教会、伝教師、金田一豊、著「ローマカトリック教会と正教会との教義の3つの違い」

2009年11月23日 | うんちく・小ネタ

はじめに:先日、短時間お会いした日本正教会の伝教師の金田一豊さんへ教義の内容を書いて送って下さるようにお願い致しました。あまり細かなことまで書いて頂くと一般の方々にはお分かり難いと思い、カトリックと比較して大きな相違を3つだけお教え下さいと頼みました。お忙しい中にも関わらず、下記のような明快な文章を頂きましたので感謝しつつ、ご紹介致します。

======金田一豊師から頂いた文章です============

「ローマカトリック教会と正教会との教義の3つの違い」

(1)まず、神様理解が違います。もちろん殆ど変わらないのですが、微妙な差です。正教会は表現として父なる神がハリストスを遣わしたといいますが、ハリストス自身を父なる神と見ています。つまり神自身が人となってこの世に降りてこられたと強く表現します。それゆえにモーゼに十戒を与えたのはハリストス、燃える芝でモーゼに語りかけたのもハリストスであると言います。モーゼもダビデも皆正教徒であるといいます。

この点が明らかに表されているのがニケア・コンスタンティノプール信経です。「聖神(聖霊)は父より出る」といいます。ローマ教会の理解は知っていますが、「聖霊は父と子より出る」と言うと二つの神から出るというような意味合いにもなりかねないので、二元論を避けるために古来のニケア・コンスタンティノプール信経を用います。

そして神様の説明を比喩的に表すときに、父なる神は太陽、子なる神・ハリストスは注がれる光、聖神゜(聖霊)は太陽から注がれる熱、全てのエッセンスは太陽から来るように神も唯一である。といいます。


(2)正教会は御聖体となるパンは酵母の入った膨らんだパンを用います。ローマ教会も7世紀まで同じであったことは歴史的事実ですがその後に変わりました。

最後の晩餐でハリストスが弟子たちに渡したパンはギリシャ語で「アルトス」と書かれており、これは酵母が入り膨らんでいます。無酵母のパンを用いるのは過ぎ越し祭を迎えてからなので、それより前の最後の晩餐の時は酵母が入っていました。モーゼが無酵母のパンを用いたのは過ぎ越しの祭り以降で、このパンをギリシャ語で「アジモン」といいます。

このように聖書と歴史的事実の内容を正教会は変わらずに、そして変えずに守っています。そして主の死と復活はたった一度の出来事なので、正教会では聖体礼儀(ミサ)のために1つの宝座(祭壇)は一日に一回しか使用することができません。

(3)最後に、マリアの被昇天や無原罪というものは正教会にはありません。特に無原罪と教皇様の無謬性は18世紀に制定されえていますので、正教会はそれ以前の理解を保持しています。なぜ無原罪がないかというと、正教会には原罪がなからです。逆に言うと原罪という教理は全宗教のなかでローマカトリックとプロテスタントにしかない教えですので、正教会は本来のままの教えを残しているということです。正教会の教えは罪は内在するものではなく犯してしまった結果残るものなので「定罪」、つまり自らを罪に定めてしまうという状態であるとします。それゆえに人となったハリストスも、ハリストスを産んだ母マリアも、そして私たちも生まれてくるときには罪を持っていません。罪は犯した結果によるものだからです。そのために母マリアの無原罪という教理も必要がないのです。それから、マリアの被昇天もなく、マリアは人間としての最高の人物であるけれども、通常の人間として死んで眠りにつき、現在は神のもとで私たちのために執り成しをしているとします。

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あとがき:(1)では、正教会ではキリスト(ハリストス)は神自身が天から人の形で降りてきた。すなわちキリストは初めから神であると理解します。カトリックでは人の子としてマリアから生まれたキリストが磔の刑で死んだあとに神の右の座に着きます。

正教会での神の比的な表現は分かりやすい表現です:「父なる神は太陽、子なる神・ハリストスは注がれる光、聖神゜(聖霊)は太陽から注がれる熱、全てのエッセンスは太陽から来るように神も唯一である」

(2)最後の晩餐の時、イエスはパンを取り、割いて弟子へ分け与えます。「これを私の肉として受けよ」と言います。赤い葡萄酒はキリストの血として弟子へ与えます。それを記念して礼拝式(正教会では聖体礼儀と言い、カトリックではミサと言います)の一番重要な部分として聖職者は信者一人一人へ小さなパンを与えます。正教会では史実に忠実に酵母入りパンを用い、カトリックでは酵母の入らない小さな円形のパンを与えます。

(3)正教会には人間には原罪は無いと言います。ですから私たちも生まれてくるときには罪を持っていません。罪は犯した結果によるものだからです。ところがカトリックでは人間はもともと罪を持って生まれてくる。これを原罪といいます。この点が正教とカトリックは違います。

上の教義の違いはキリスト教の諸宗派によって少しずつ違いがあります。しかしイエス・キリストの教えは福音書に書いてある通り皆同じです。その教えを信じ、実行するのがキリスト教の信者であります。宗派による教義の違いをあまり強調するとイエス様の教えを忘れ、神学論争にあけくれする事になります。皆様は如何お思いでしょうか?(続く)


ブログへ夫婦のことを書く時は独身の人々の事を考えながら書く

2009年11月23日 | 日記・エッセイ・コラム

ブログへ時々夫婦のことを書きます。その度に色々な事情で独身で暮している方々の心を傷付けないように祈りながら書いています。ブログは不特定多数の方々が読みます。何方が読んでも不快感を持たないような書き方をするのがネット社会の礼儀だと信じています。

独身にもいろいろな方がいらっしゃいます。まだ結婚前の若い方。種々な事情で離婚した方。まだ若いのに病気や事故で夫や妻を亡くされた方。高齢になって夫や妻が旅立ってしまった方。結婚するのが面倒臭いと独身を通している方々。一生独身を通うすシスターや修道者、そして神父さん。佛教のお坊さんや尼さん。

そのような方々へ対して、「こんな馬鹿なことを書いて、済みません」と謝りながら書くこともあります。しかし夫婦の間の愛や生活の実態は人類共通な普遍性を持っているのです。ですから人間の深い問題を描きだそうとすると夫婦の関係を描くと便利なこともあります。例えば若夫婦、中年の夫婦、高齢期の夫婦の関係は年齢とともに変わって行きます。若夫婦は「有頂天になった愛し合い方」をする時期です。中年夫婦は冷めてきて協同生活者の関係が色濃くなり、子供の教育に苦労します。高齢期になると、又夫婦2人きりになり夫婦であることの重要性が増大します。静かな深い愛情関係が育つ時期です。

しかしこのように書く間にも私の心は痛むのです。中年で離婚したり、死に別かれた方々の深い悲しみを思うと手放しで夫婦の関係は素晴らしいなどと書けないのです。

しかし、人間の他人を愛する心は夫婦関係と母子関係などを見るとなにか崇高な部分を感じます。

母親が無限の慈しみを子供へ与えている光景は、結婚をし子供が出来ると日常的に見ることが出来ます。自分が食べる前にまず食べ物を子供の口へ運んでいます。どんな場合でも子供の味方になって夫へ向かってきます。無限の愛なのです。

論理も宗教も関係の無いこの愛は男性にとっては驚きです。女性は凄いと感心します。

このように書けば独身の方々にも少し参考になると信じています。即ち、夫婦の関係を書く時はその善い側面だけを建設的に書くように努力するのです。すると普遍的な意味も出て来るし、誰が読んでも不快感は持たないと思っています。

夫婦関係の悪い事例や破局を書くのは絶対に避けるべきです。そんなことを書かなくても人生にはあまりにも悲しい事が多いのですから。悲しさを乗り越えて、希望を持ってまた明るく一日を過ごしましょう。

今日もご皆様のご健康と平和をお祈り致します。  藤山杜人