後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

北京ダックと周栄章さんの思い出

2009年06月04日 | インポート

筆者を1980年から何度も北京へ招待してくれたのは北京鋼鉄学院の周教授でありました。もう故人になってしまいましたが友情の深い、年上の男でした。1945年頃には既に天津の北洋大学の学生だったそうです。学生共産党員として天津を国民党の軍隊から解放する作戦へ参加し、解放後は天津市の行政に参加した時期もあったと話していました。善い共産党員の見本のような人で、何時も北京の貧しい人々への同情を話していました。

よく私を庶民的な北京ダック専門店へ招待してくれました。

そして北京ダックの美味しい店は少し汚くて、観光客の来ない所です、と教えてくれます。彼は北京鴨が自慢なのです。縦長の白い顔は眉が太く、昔の中国の大人の風貌です。いつも静かな微笑みを浮かべ、ゆっくりした英語で話し合いました。

以下は1980年代の終わりころ、残留孤児が日本へ帰国し始めた頃の北京鴨店で交わした会話です。

「日本の新聞には残留孤児帰国の記事が多いそうですが、どう思いますか?」と聞くので、私が答えます、「大変結構なことではないですか」。

ところが彼が思いもしなかったことを言うのです、「それが中国では困るのです。中国人に大切に育てられた日本人の子供は帰る決心がつかないのです。生みの親より育ての親というでしょう。日本に帰れば経済的に助かる。それが分かっていても、名乗らない孤児の方が多いと思いますよ。私の知り合いにも名乗らない人がいます。帰らないで中国に骨を埋める決心をしている残留孤児を中国人は尊敬しています」

日本の新聞はニセの残留孤児も名乗り出たと報じています。しかし、名乗り出ない残留孤児も多くいることを、なぜ報道しないのだろうか?報道のバランスとは両方の事実を報じることではないか、と酷くショックを受けました。周さんはいつも中国人の本音を優しく分かりやすく話してくれます。

ああ、友情というものはこういうものなのだ!と、幾度も感動したことがあります。

また別の事情で中国へ残留した日本人も多かったようです。自分の残留事情を日本の本屋から出版した人もいます。岩波新書の「北京生活三十年」を書いた市川氏です。満州にいた市川氏が残留技術者として北京市へ移り、三十年間、同市重工業部で機械技術の仕事をしてきた体験記です。

市川氏は東北大学の私と同じ研究室の先輩であったため、M教授から中国で消息不明になった市川さんの安否を調べてくれと頼まれました。1983年のことです。北京へ行った折に中国政府の金属工業省に調査を頼んでくれたのも周教授でした。4、5日後、人民大会堂で開催された日本鉄鋼技術使節団の歓迎会の折、市川氏が突然現れました。隣の席に着いた市川氏へM教授が心配していることを伝えました。

「恩師のご恩は忘れたことはありません。しかし、中国に骨を埋めることにしたとお伝えください」と言って、並んでご馳走を食べてます。あまり話さず、ニコニコして食べるだけです。帰国後、岩波新書「北京生活三十年」を購入し、M教授へお届けし、市川さんの元気な様子を報告しました。

彼は帰ろうと思えばいつでも帰れる立場にあったはずです。そうしなかったのは余人にうかがい知れない事情があったに違いありません。これも日本の敗戦が関係して中国に骨を埋めることになった日本人の一例です。

市川さんは私より20歳くらい年上でした。北京で現在もお元気で暮らしていると信じています。一方、市川さんと私の共通の恩師のM教授はずいぶん前に亡くなりました。温和な善い先生でした。

中華料理店の看板に北京ダックとよく書いてあります。その文字を見る度に周教授のこと、そして北京で会った市川さんのこと、M教授のことなどを思い出します。

年老いた今思い返すと、周さんは友情厚い中国人だったなあ、と頭の下がる思いです。中国や中国人が好きになってしまったのは彼の友情のお陰です。皆様はそのような中国人にお会いになったことが御座いますでしょうか?(終わり)