晴れのち曇り、時々パリ

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15世紀『ブルゴーニュ公国』の社会保障に見る<老人介護>/オスピス・ド・ボーヌ【日曜フォトの旅】

2012-02-05 22:19:35 | 歴史と文化
パリから南へ300キロ。


秋になると、<黄金の斜面>との名に相応しく、『コート・ドール』の丘陵地帯には、名だたるブルゴーニュの酩醸酒の葡萄畑の、黄色く紅葉した葡萄の葉っぱが正しく『黄金』の煌めきに彩られる。

豊かなるブルゴーニュは、中央ヨーロッパの歴史に重用な役割を果たして来た。


もともとは、旧西ローマ帝国を滅ぼしてしまった<ゲルマン諸族>の『ブルグンド族』が住み着いた土地であり、当初は「ブルグンド公国」となる。

フランク族の旧帝国再統一の後、『フランク王国』の分割を経て、「中フランク」の一諸公として、9世紀に『ブルゴーニュ公爵家』が成立する。

フランス王家『カペー朝』成立後は、フランス王領となり、その後「カペー家」の分家として『ブルゴーニュ家』が公爵位を続け、14世紀前半のカペー家の断絶後成立した『ヴァロワ家』が相続し、百年戦争の時期を通じて四代の『ブルゴーニュ大公』が発展させた。

時のブルゴーニュは、ドイツ国境まで広がる大侯爵領であった。

フィリップ2世 (1363 - 1404年)  Philippe le Hardi  (豪胆公)
ジャン1世   (1404年 - 1419年) Jean sans peur   (無畏公)
フィリップ3世 (1419年 - 1467年) Philippe le Bon   (善良公)
シャルル1世  (1467年 - 1477年) Charles le Téméraire(勇胆公)

初代フィリップは、時のフランス国王ヴァロワ朝シャルル5世の弟で、1363年にブルゴーニュ公に封ぜられた。

つまり、フランス王家の筆頭親族である。

独立して<宮廷>を営む権利を認められた。

通常の「公爵=デューク」の上位に来る「大公=プリンス」の位で君臨するので、ブルゴーニュ大公国と呼ばれる。


ちなみに英語で<prince>と言えば、通常王の親王達を差し、「王子」と訳されるが、本来は独立主権領主の『王=King』以外の最高位を意味する。

他に「大公」と言えば、『ハプスブルク家』オーストリア、ザクセン大公家、ロレーヌ大公家、メディチ家後半の『フィレンツェ大公家』などが名高い。

現在も続く「イングランド皇太子」の相続する<Prince of Wales>もウェールズ大公であり、あと『モナコ』や『アンドーラ』『リュクセンブルク』『リヒテンシュタイン』等が、大公である。


このフィリップは、1384年にフランドル女伯マルグリットと結婚し、フランドル伯領をも支配した。

つまり、パリの南方300キロから、東はドイツ・スイス国境、北はライン川に沿ってベルギー・オランダまでを包括する「大帝国」であった。

もともと『ネーデルラント(低地ドイツ)』はフランドル伯の領地で、ハンザ同盟都市を擁する良港に恵まれ、フランク時代以降「ラシャ」の生産を一手に握って、西欧随一の豊かな土地であり、お金がうなっていると文化が振興する事で、ルネッサンスを産む北イタリアと並ぶ先進文化の土地であった。

そこが、ブルゴーニュと合体した訳である。

このフィリップ2世が、ブルゴーニュのワイン生産のシステム化に務め、作付けする葡萄の品種を勅令により限定して、生産改良に務めさせた結果、今日の「ワイン王国」の起訴が築かれた。


その『ブルゴーニュ大公』は、百年戦争当時イングランド王の側に付き、実家である「ヴァロア王朝」を滅亡させかねない程の勢力を誇った。

その三代目の大公『フィリップ三世』の時代に築かれた「ホスピス=施療院」が、ブルゴーニュを代表する文化財として、ボーヌの町に今日まで残されている。



     
     オスピス・ド・ボーヌ


元来キリスト教(カトリック)のシステムで西ヨーロッパは成立している。

社会構造、支配体制、経済基盤などに限らず、人間の知識や価値観も総て『聖書』に基づいていた。

人は、生を受けて後、人間生活の節目節目は、総てにキリスト教の儀式に依って営なまれて行った。

『洗礼』を受ける事で「人間」としての存在が認められる。
洗礼を受けなければ、ただ生きているだけで、イヌ畜生と何ら変わらない。

その後も、あらゆる人生の節目にカトリックの儀式があり、最後臨終の席に聖職者に枕元に来てもらい、生まれで以来「その日」までに「犯したであろう罪」を洗いざらい告白し「贖罪」を受け、香油を唇に塗布してもらって、あの世に旅立つ。

この『臨終の秘跡』を受けずに死んで行くと、所謂「地縛霊」と同じ状態になり、『最後の審判』の時が来ても、その審判に望めない。

永遠に「宙の一角」に浮かんだままで、天国に行ける可能性が閉ざされてしまう。


中世において、貧富の差は激しく、社会福祉や高齢者医療、年金や保険等という発想は無かった時代に有って、貧しい一人暮らしのお年寄りは、一度病気になれば人生は終わりであった。

路端に「のたれ死に」の遺体が転がっている事すら、別に珍しい時代では無かった。

そのような時代に有って、「臨終の秘跡」を受けられずに死んで行く事は、人間の尊厳を犯される、あまりに恐ろしく哀しいい事であると言う訳で、王侯貴族や財を成した裕福な市民が、私費で「病気の老人達」を収容する施設を積極的に作った時代が有った。

このような施設を『hospice』と呼ぶ。
日本語では、歴史用語では<施療院>と訳される事が多い。


今の様な、「医療介護付き有料老人ホーム」ではない。
あくまで、キリスト教精神から出て来た発想で、身寄りの無い年寄りの病人やけが人を収用し、雨露をしのげる屋根、温かい寝台、三度の食事を提供し、必要な治療看護を行い、最後には「臨終の秘跡」を施して送り出す、そのような施設の事であった。

北ドイツやベルギー・オランダには、結構残っている。
「棟割り長屋」の如き、平屋建てのドアが幾つか並んだ質素な建物である事が多い。

ただ、アウグスブルグのそれは、銀行業で財を成した『フッガー家』がたてた大規模な物が残っている。
これは、高層の建物では無い物の、一区画全体に集まって、ちょっとした団地の様な規模の施設である。


ブルゴーニュ公国の首都は、ディジョン。
その後、現在のベルギーの「ブルッへ(ブリュッセル)」や「ヘント(ガン)」にも移された事も有る。

フランドルから名高い芸術家をディジョンに招き、宮廷の造作や芸術家活動に当たらせた事により、当時のディジョンはフィレツェと並ぶ、文化的先進都市であった。

画家の『ロヒール・ファン・デル・ヴァイデン』と、彫刻家の『クラウス・シュルター』は特に名高い。


その大公三代目フィリップ三世の時代、大公の宰相「ニコラ・ローラン」が、その妃「ギゴーニュ・ド・サラン」の献策に依て私財を投げ打って建造し、寄進したのが名高い『オスピス・ド・ボーヌ』である。

当時は<HOTEL DIEU(神の館)>と呼ばれ、今なおその名でも通って居る。


外の通りからの眺めは、かなり質実剛健一点張りの様な外観であるが、一旦中庭に入るや、光景は一変する。


     
     中庭からの光景


屋根の瓦が「ブルゴーニュ様式」のカラータイルで、伝統的な文様が描かれており、本来はブルゴーニュの城館や教会等にしか遣われない、贅沢な物である。

病人達の沈んだ気分を晴らせる様な気配りが見て取れる。


     
     屋根のアップ


この屋根瓦は、オーストリアにも伝わって居り、ウイーンの『サン・シュテファン大聖堂』の屋根に見る事が出来る。


     
     当時のオリジナルの瓦



病人達の「大部屋」で有った建物に入ると、感動的な光景が広がって居る。


     
     大部屋の内部


教会や城館では無いので、天井は石のアーチでは無く「木造」の天井では有るが、要所要所には彩色が施され、両側の壁にベッドがずらりと並んでいる。


     
     左右の壁際に並ぶベッド


一応各ベッドは「カーテン」で被える様になっている。
何しろ「暖房」完備の時代では無いので、このカーテンは病気のお年寄りには有り難かっただろう事は、想像に難く無い。


     
     ベッドの近景


     
     ベッドのディテール


各ベッドの枕元には、小さなサイドテーブルが有り、錫性のカップと皿等のセットがある。

ベッドの上に枕の下においてあるのは、一種の「こたつ」で、木枠がソリの様な形をして居り、炭火を入れた火元が中心部にある。

ソリの先端のような両側の腕を前後から捧げて、看護に当たった修道尼が運んで来たのだろう。


     
     ポータブルこたつ



ここに「入院」で来る条件は只一つ「貧しい」事。

宰相が私費で造った事の意気に感じた大公フィリップは、運営資金の源として、所有の葡萄畑の一部を寄進し、それに倣って多くのブルゴーニュ公の家臣の貴族達が葡萄畑を寄進した。

運営は修道院に託され、オスピス所有の畑から作られるワインの売り上げで、運営された。

修道女達が看護婦として、献身的に業人達の世話をした。


当時の医療器具その他も、展示してある。


     
     薬局

美しい陶器の壷や、ガラスのフラスコに、多くの薬草やハーブ、薬品の類いが入れられている。


     
     薬を調合する「薬研」


各種薬草やハーブを薬研で潰し、練り合わせて薬を造っていた訳である。


     
     蒸留かまど


薬研ですり潰した薬草類を、アルコールと共に煮沸し、蒸気を回収して冷やすと、液体の薬が得られる。

それを、ガラスのフラスコで保存した。



     
     当時の施療器具


中央部は「浣腸器」であり、当時の主立った治療は「悪い血」を抜く『瀉血』と、浣腸であった。


     
     外科手術器具


頭蓋骨を開くドリルまで、残っていた。


     
     浣腸器各種


     
     大公の宰相ニコラ・ローラン


創建者夫妻の肖像も各種残されている。


     
     妃ギゴーニュ・ド・サラン


よりデザイン化された、愛らしい彫像も有った。


     
     ニコラ・ローラン


     
     ギゴーニュ・ド・サラン



この「オスピス・ド・ボーヌ」の所有の畑の葡萄から造られるワインは、毎年11月第三週末の三日間の「ブルゴーニュ・ワイン祭り」の、中日土曜日の日に競売にかけられ、まだ熟成途中であるのも拘らず、「ご祝儀価格」で落札され、その値段がその年のブルゴーニュ・ワインの価格の動向を決める指標となる。


     
     テースティング用の『タートヴァン』


ブルゴーニュ独特の試飲用カップが『タートヴァン』と呼ばれ、銀か錫で出来た凹凸の有る平たい皿状のカップである。

このカップにワインを注ぐと、でこぼこに反射する光で、ワインの光沢や透明度が判別しやすい。

ブルゴーニュ地方のレストランのソムリエさんは、この形の「タートヴァン」を、銀の鎖で誇らしげに首からぶら下げている人が多い。


このオスピスの特別展示室に、時の大公が招いてディジョンの宮廷で働かせた大画家『ロヒール・ファン・デル・ヴァイデン』の名作『最後の審判』の祭壇画画展示されている。


     
     R.V.D.WAIDEN作『最後の審判』


幾重にも折り畳める形式の、天地2メートル半、左右5メートル程の祭壇画は、細部に至っては犬の尻尾の毛一本の筆で描かれた細密な物で、係が大型のレンズを絵の前で上げ下げして細部を見せてくれるが、神であるイエスの足下に「審判用の天秤秤」を持っている大天使「ミカエル」の胸に下がるペンダントの縁取りの、真珠に反射する光点まで描き込まれている事が見て取れる。

恐れ入って見守るヨハネの髪の毛一本一本の縮れ具合までが、真迫の表現で足掻かれている。

かっては、ブリュッセルの市庁舎の壁画で名高かったが、それらはナポレオン戦争の際に火災で焼失し、ファン・デル・ヴァイデンの真筆は余り多くは残って居らず、ここの「最後の審判」が最も出来の良い、かつ最も保存状態が良い作品として、広く世界に諸られて居る。

国宝の絵画であるが、世界各地から「この絵」を観る為に集う人々も居る程の名作である。


ちなみに、このブルゴーニュ家は、四代目が百年戦争終結時に戦死し、大公領のうちフランス部分は、王家に接収されたものの、忘れ形見の姫『マリー・ド・ブルゴーニュ』がフランドルだけは独立国として維持。

その後、ハプスブルクで最初に皇帝に選出されたフリップの息子「マキシミリアン」と結婚して、その二人の間に出来た息子、祖父と同名のフィリップが誕生する。
そのフィリップは、イスラムを最終的にイベリア半島全体から駆逐し、スペインをキリスト教徒に取り返した『フェルナンド』と『イザベラ』の間に出来た娘「フアーナ」と結婚して息子「カルロス」を設ける。

カルロスは、母親からスペイン王位を受け継いで「カルロス1世」となり、父親の母方から「フランドル伯」を受け継ぎ、父親の父方からハプスブルクを相続して大公となる。
かつその血筋から曾祖父に次いで皇帝に選出されて、ドイツ皇帝『カール5世』となった。
その皇帝の権利で「イタリア王」のタイトルも有すると言う、とんでもない事になってしまうのであります。

恐らく、だから「ブルゴーニュ様式」の色タイルの瓦が、オーストリアにももたらされたのでは無いだろうか。


皆さん、ブルゴーニュは「ワインだけ」では有りませんぞ。

それから、名だたる名シェフの素晴らしいレストランが数件有り、旅の喜びを満喫出来る事を、請け合います。



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2 コメント

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臨終の秘跡を平等に施して頂ける場所・・・ (Himbeere)
2012-02-06 12:33:26
パリさま、

今回は大変興味のある事ばかり・・・。始めに何処か懐かしいものを、と思いましたら、あの屋根ですね。懐かしいと思うのですから・・・心境の変化かしら。^^しかし、素晴らしい屋根ですね・・・。

この大部屋のベッドが何とも外国らしい、と思いました。大部屋なのに、個室の様に確立していて凄いですね。それに、ポータブルコタツ、何と愛情のあふれた気遣いでしょう・・・、とその下の【「入院」出来る条件は只一つ「貧しい」事。
】という分を読んだ途端、涙がこぼれてしまいました。貧しい人も、平等に愛情を掛けて頂ける・・・、本当に胸が熱くなりました。そして、典型的なヨーロッパの薬局、今も昔も変わりませんね!勿論今はモダンになって、ロボットを使い薬を持って来させる、という薬局もありますが。でも、この様に整然と棚が並んでいるのですよね。それから、医療器具・・・ちょっと怖かったです・・・。^^; 妃ギゴーニュ・ド・サラン
のお顔、誰かに似ているな、とよくよく考えましたら、山本太郎さま・・・(笑)失礼かしら?そう思いませんか? そして、テースティング用の『タートヴァン』初めて、見ました。小さなグラスでするのかと思っておりました・・・。最後に、「最後の審判」ここにあったのですね。そんなに細部にわたって描かれているのですか、拝見したい物です。

ワインの産地でしたら、当然上質のレストランもあるでしょうね・・・。

今週も興味のある、素晴らしい世界に誘って下さり、有難うございました。この様な世界を見ておりますと、何と自分が小さい事、と思いました。
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Himbeereさま。 (時々パリ)
2012-02-07 08:08:17
コメントありがとう御座いました。
>何か懐かしく…
聖シュテファン大聖堂だけに限らず、あの色タイルレンガは、目になじんでいらっしゃる事でしょう。
ベッドは素晴らしいです。
ただ、記事本体に書き忘れたのですが、伝染病の流行等で、収容者が増えると最大一つのベッドに4人割り当てたそうです!
頭足頭足と、オイルサーディンみたいに。
えっ、と思うでしょうが、でも掘っておかれると道ばたでのたれ死にする事が確実な人々に取って、屋根と寝床と三度の食事と看病とを与えられる事は、天国に居るのと同じ事でした。
ギゴーニュ・ド・サランの彫刻の方は、太郎サンより『ヤッシー』に似てませんか(^^*;)
このボーヌの施療院は25年程前まで、ボーヌ市立病院の一部として遣われていました。
勿論、歴史的文化財の部分は遣いませんが、敷地の奥に現代の病棟が有って、かっての薬草の菜園等も維持管理され、文化財の建物の、数世紀前の厨房は病院食を造る為に使われてわれていました。
午後見学に行くと、厨房には食事を作った残り香がただよていました ^^
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