誤解を恐れず、敢えて言う。
四流・五流大学などもう要らない。
これまでに、繰り返してきた。
大学とは「最高度の学問を修める」学問の最高府である。
そして。
百人の同じ年の子供達のうち、「高度の学問」を修める可能性と能力の有る子供が、何人居ると言うのか。
知能指数80の子供にも、120の子供でも、夫々大学が与えられている日本の社会は、異常である。
日本の現状はと言えば、マクドナルドやスターバックスの数と、競い合っているかの如き大学の数がある。
NOVAじゃ有るまいし。
各「駅前」にそれぞれの大学は、不要である。
それに付けて。
親父のハイテク・ブルドーザーから「制御コンピューター」だけ取り除いた様な娘が、また騒ぎを起こしてくれた。
▶<田中文科相>3大学の新設認めず…審議会の答申覆す(毎日/見出し)
>田中真紀子文部科学相は2日、閣議後の記者会見で「大学設置認可の在り方を抜本的に見直す」と述べ、認可を厳格化する方針を示した。
>また、大学設置・学校法人審議会が1日に来春の開学認可を答申していた秋田公立美術大、札幌保健医療大、岡崎女子大(愛知県)の3件の4年制大学を不認可とした。
>文科相が審議会答申を覆したのは、省内に資料が残る30年間で初めてで、極めて異例の判断。
>学校法人が大学を開校したり学部を新増設したりする場合、文科相は審議会にその可否を諮問し、答申を受けて決定する。
>田中文科相は全国に4年制大学が780(国公立181、私立599)校あることに触れ「大学教育の質が低下している。そのために就職できないことにもつながっている」とし、当面は新設を認めない方針を示した。
>今後、検討会を設け、メンバーの多くが大学の学長や教授で占められている審議会の在り方を見直す。
【毎日新聞/11月2日(金)12時37分配信】
例に依って、大騒ぎを引き起こした事は、真紀子サンの期待通りなのだろう。
学長は「撤回を求める」と息巻く。
法的手段も辞さないとの意気込みであるらしい。
マスコミは、困惑と怒りの「町の声」を、挙って並べ立てる。
「寝耳に水」
「大臣の考え方一つで方針が変えられるのは行政の継続性を逸脱している。到底承服できない」
「出はなをくじかれた思いだ」
「驚いた。開校の準備が整いつつあったのに。理由の詳細が知りたい。編入や入学を希望している生徒への対応はどうなるのか」
「大学になると聞き、学習面で頑張らなければと意欲が高まっていた。残念というよりも、驚きが大きい」
「不認可にした理由の詳細が知りたい。編入や入学を希望している生徒への対応はどうなるのか」
「生徒の意欲がそがれる。進路の選択肢がいきなり減らされるのは大きな損失だ」
「問題はこれから出てくる」
「就任したばかりなのに急な路線変更」
「正論だがそれはこれからやるべきこと。前の大臣のままだったら認可されていたのでは」
「一番迷惑を被ったのは進学しようと準備していた高校生と短大から編入しようと思っていた学生では」
「大学の数が多すぎ、質が低下している」(田中大臣)vs 「エリート主義のあらわれで、極めて問題がある」
申請した学校法人側も、進学予定だった生徒達も、自治体も、更には文科省の官僚達まで、右往左往の大騒ぎの態で有る。
▶大学新設不認可:文科省幹部、頭抱え 学生への影響危惧(毎日/見出し)
>大学設置・学校法人審議会が来春の開学認可を答申していた秋田公立美術大(秋田市)▽札幌保健医療大(札幌市)▽岡崎女子大(愛知県岡崎市)の3大学を不認可とした。
>田中文科相は、10月26日と同30日の閣議後に開かれた記者会見でも「大学の認可が多すぎる」と持論を述べていたが省内の驚きは大きかった。
>ある幹部は「認可を想定し大学に進学する予定で就職活動していない短大生がいる」とあまりの影響の大きさを危惧。
>別の幹部は「法人や学生のサポートなどできることをこれから最大限考えるしかない」と頭を抱える。
>また、批判の的とされた審議会委員は、慎重な対応に終始。ある委員は「委員としては設置審査を粛々と行った。認可か不認可かは、文科相の判断だと思っている」とコメント。また、別の委員も「お答えできる立場にないのでコメントは控える」とした。
【毎日新聞/11月03日00時29分配信】
ここまでは、真紀子サンの単なる突出だと思えた。
最近、とみに存在感のなくなった田中眞紀子としては、このまま消え去る訳にはいきません。
徹底的に自分勝手で、とことん人迷惑な真紀子サンの面目躍如として、しっかり「マーキング」したのだと思った。
しかし。
どうも、おかしな点も有るようだ。
この措置が、田中眞紀子の独断専横ではなく、事前に野田佳彦には話が通っていた、という。
そして、文科省サイドは火消しに躍起となる。
「不認可の処分を出した訳ではなく、見送りだ」
▶<大学新設不認可>文科相と首相官邸 認識食い違いが表面化(毎日/見出し)
>田中真紀子文部科学相が3大学の新設を不認可とした問題で、首相官邸はこれまで「文科相が最終的に判断することだ」(藤村修官房長官)と静観してきた。
>しかし、田中氏は6日、野田佳彦首相らから事前に了承を得ていたと「暴露」し、藤村氏が記者会見で否定するなど、認識の食い違いが表面化。野党は7日の衆院文部科学委員会で田中氏を追及する構えで、野田政権はまたも閣僚をめぐる火種を抱え込んだ。
>「官房長官からは『大変結構だ』、首相からは『進めてください』という言葉を頂いている」
>田中氏は6日の記者会見で、3大学の不認可について首相と官房長官とのやりとりを明らかにした。藤村氏は同日の会見で「大きな考え方の報告を受けたことは事実」としながらも、「了承する立場ではない」と強調。記者団から首相の任命責任を問われると、「どこに、どう責任があるのか」と気色ばんだ。
>大学設置を認可する権限は文科相が持ち、首相が判断することは通常ない。しかし、首相周辺によると、文科省の事務方から発表前日に「不認可にすれば訴訟のリスクがある」との警告が官邸にあったという。
>それでも官邸サイドが介入しなかったのは、言動が注目される田中氏への遠慮も一因とみられ、首相周辺は「閣僚人事の失敗だ」と嘆いた。
>岡田克也副総理は6日の会見で「方向性は田中氏の言う通り。ある意味で(認可の)審議が形骸化していた」と理解を示し、建設的な解決を求めた。
>しかし、3大学の地元は不認可の撤回を求めて猛反発。教育問題は有権者の関心が高く、民主党内からは「田中氏が突っ走ったこと。面倒を見切れない」と冷ややかな声が上がる。
【毎日新聞/11月6日(火)20時36分配信】
「閣僚人事の失敗だ」・・・笑わせるな。
「田中氏が突っ走ったこと。面倒を見切れない」・・・笑わせるな。
旧民主党に、政権担当能力なんて、端っから無かった。
大うつけ総理大臣自体が、三代も続いた「このザマ」だ。
誰が大臣になったって、何も変わる物では無い。
そして今回の騒動も、どうせ、一騒ぎ起こせば彼女の当初の目的は果たされた訳だから、数日後には撤回の腰砕けになるだろう、と思っていた。
そして、4日後の会見で案の定。
▶肝心なこと言い忘れた…真紀子氏が3分後唐突に(讀賣/見出し)
>「私が性急にやったわけではない」「(認可が決まった段階で)既に建物が出来ているのはおかしい。誰かが事前に情報を流しているのでしょう」
>「大学の乱立に歯止めをかけ、大学の質を向上したい。それが私の真意」
>田中文科相は、秋田公立美術大(秋田市)、岡崎女子大(愛知県岡崎市)、札幌保健医療大(札幌市)の不認可決定の正当性を、とうとうと語った。
>しかし、3分後、「肝心なことを言い忘れました」と、田中文科相は再び会見室に姿を現した。
>そして出てきた言葉は、「新しい仕組みを早く立ち上げ、3大学を含めて新しい基準で改めて判断したい」。
>唐突に、3大学の「再審査」に道を開いた。説明は2分間。報道陣から続く質問を背に、「皆さんと知恵を借りながらやっていく」と言い残して退室した。
【讀賣新聞/11月6日(火)12時34分配信】
やっぱり。
想定内だよな。
ところが、当の大学側の腹の虫は納まらないらしい。
▶真紀子氏の収拾案に「話にならない」…大学怒り(讀賣新聞/11月6日(火)22時15分配信)
>3大学の不認可問題で、文科省の前川喜平官房長は6日になって、「(現在も3大学の)不認可の処分はしていない」という説明を始めた。
>不認可処分の正式決定後では、3大学は申請書類の再提出が必要で来春の開学が困難になるためとみられるが、翻弄された3大学は強く反発している。
>3校の関係者は6日夜、東京都港区のホテルに集まって会合を開き、田中文部科学相に対し、不認可の即時撤回と、これまでの手続きにのっとった認可を求めとともに、受け入れられない場合は訴訟も検討することを確認した。3校側は7日、文科省を訪れて求める要請書を提出する。
>会合後、岡崎女子大(愛知県岡崎市)の開校準備を進めてきた学校法人「清光学園」の長柄孝彦理事長は、新しい審査基準に基づき、田中文科相が認可を判断する収拾案に触れ、「話にならない。はぐらかされ、怒りを強く感じた」と話した。
【讀賣新聞/11月6日(火)22時15分配信】
しかし、何だか、様子がおかしい。
いずれにせよ、文科省の官僚の上申で真紀子サンはこの事案を知った筈である。
大臣に就任した直後に、官僚の誘導で事が為された筈である以上、官僚達に取っては「寝耳に水」ではなかった筈である。
レールは敷かれていた筈だ。
で、何の為に…。
予算削減に走る官僚が、田中眞紀子文科相をダシに使って、彼女を弾除けに使ったか。。。
大学開設の認可や設置に伴う「利権」の数々に、真紀子サン自身が絡めないのが面白く無かったか。
「設置審議会」なる外郭機関の「権力」を削ぐ事で、大臣の権限を回復したかったのか。
いずれにせよ、霞ヶ関のシロアリ共の暗躍や、民主党内部の当てこすり等には、興味は無い。
しかし。
一つだけ、はっきり言える事が有る。
日本には「大学」が多すぎる。
何度も何度も繰り返して来たが、そろそろ学歴や教育に対する考え方を、根本から変えるときではなかろうか。
『駅前大学』という言葉が語られ始めたのは、いつの事だっただろうか。
駅の数だけ大学が有る。
戦後の第一次ベビーブームの世代に、大学は「雨降りの後のタケノコ」の如くに作られて行った。
戦後の混乱期が終わって、高度経済成長期に子育てをした「戦中派」は、生活水準の向上と共に子供達の教育に意を注ぐという、社会の意識変化が高等教育への需要を増やし、学歴社会と呼ばれる精神風土をもたらした。
それと共に、競争の激化は、戦後もたらされた民主主義による平等意識の浸透と共に、最高学府のインフレを呼び起こしたのだ。
その結果もたらされた物は、敢えて大学と言う名で呼ぶ「小さな」学校の卒業生の増産で、実社会での役には一切立たない、無教養な若者の群れであった。
口の聞き方、電話の受け答えから教えなくては実戦の役に立たない若者を、企業としては沢山受け入れて無駄な投資をする余裕を失ってしまった。
結果として、正社員の割合が大きく減って、雇用形態の一大変化がもたらされた。
いまや、大学出という言葉は何の意味もなく、一部の上級大学以外の卒業生は、就職先の確保もままならない所にまで至ってしまっている。
「学位」等紙切れ同然。
その事が語っている事は明らかである。
つまり、就職活動に支障をきたさない「エリート」学生を送り出す、限られた「上級大学」だけが、本来の大学であると言う事なのだ。
日本が本当に必要としている大学の数は、それらの一部の大学だけで満たされている、と言う事だろう。
元来「最高学府」が、駅前ごとに存在する訳が無いのだから。
そして、今や駅前大学以上に劣化して細胞分裂を繰り返して増殖して来た、四流・五流の大学でやっている事は「専門学校」がやる範囲の事柄である、と言う事。
敢えて言う。
四流・五流大学等要らない。
むしろ「家政学部」やら「生活科学部」やら「何とかデザイン学部」等と言う呼称で、実生活上のテクニックを教える事を「学問」にしなくても良いという事を、声を大にして言いたい。
大学はその名の通り「最高に大きな」学問を修める機関で良いのだ。
そういう所に行くのは、そういう「最高の学問」を求める者達で、最高の学問を修める能力の備わった者立ちだけ、で良いのだ。
それ以外の、「実生活に役立つ」知識と技術とを身につけさせる機関は、専門学校なのではないのか。
先ず肝要な事は、高等学校を本来の「高等」な学校に戻す事。
引きこもりの不登校や、教室には姿を表さずに悪さを繰り返している様な生徒に、「卒業証書」を与えるべきでは無い。
元来「高校全入」なる発想自体に無理が有る。
しっかり三年間の履修を済ませて、しかるべき試験でその成果を認めた上で、高校卒業に認定するべきだ。
その、高校の過程も「純粋学問系」と「職業訓練系」とに分かれるべき。
その後は、「大学」と「専門学校」との終了の資格を同等にすれば良い。
今の「大卒」の分類を、「大学、又は高等専門学校卒」にする。
何も「高度な学問」を修める能力の無い子供が、わざわざ大学を目指さなくても、より学び易い、より学ぶ気になれる、より学ぶ価値の有る「専門分野の知識と技術」とを授ける学校に通う事で、社会人になる為の資格に認定すれば良いのだ。
駅弁の如き大学は要らない。
ましてや、高校は卒業したものの、山ほど有る大学のどれにも入れずに「仕方ない」から通う様な「専門学校」もこれまた不要である。
人間として、人生を真っ当に歩む為に必要な教養は、義務教育で身につけられる様にする。
逆に言えば、その為の「義務教育」ではなかろうか。
而して、高校以上は各生徒の付加価値を高める為に存在し、そこが競争社会となる事は、必要な事であろう。
要は、大卒でなくても引け目を感じる事等無いような、社会構造にするべきなのだ。
生徒各自の素養と性格、嗜好や性向に合わせて、各段階の教育をすれば良いだけである。
学問に興味が無ければ、普通高校に行かずとも、職業訓練の学校が有れば良いのだ。
そして、その両者の評価は同等にする。
その次の段階も、大学に進むか、高等専門学校に進むか、これまた生徒各人の能力と性格とに合わせて決まれば良い。
その様になれば、無用な競争や差別も減って行く筈である。
学問の性格の差で、教育年数が同じなら同じ扱いを受けられて、同じ待遇にする事だ。
その為に肝要な事は、教育をビジネスにしてはならない、と言う事。
つまり「私学」が多すぎる。
学校法人という隠れ蓑を着た資本主義の企業が、経営を優先し、利益を確保する事が前提となる事は当然である。
その教育産業は、少子化社会に於いて経営の悪化を招き、その対策としてやたら多くの「学部」や「学科」を新設し、学生はお客様という発想で経営競争に走る事となってしまう。
その結果が、モナコとモロッコの違いも分らず、英語で自己紹介も出来ず、自分の意見を持たず、自分の考えを言葉で相手に伝える能力も無い、ただただ遊ぶ事に長けた学生を大量生産してしまうのだ。
そんな大学は、要らない。
社会人になるのを少しでも送らせて、最後に遊ぶ所、と成り果てた大学等要らない。
更に言えば、日本独自の物差しである「偏差値」の弊害も、拙ブログで何度も語って来た通りである。
東大法学部の集まる外務省や財務省の無能ぶりを見れば、この事は一目瞭然なのだが、その事はまた別のテーマなので、今回は敢えて触れない事にする。
今回の、田中眞紀子文部化学大臣の「暴走」が、その真の原因が奈辺に有るかはさておいても、限界に達してしまった日本の教育制度の矛盾が、露呈してしまった事は避けて通れない事実である。
くだんの三大学の新設学部の認可は、一両日中にもなされるであろう。
田中眞紀子の「完敗」という形で。
あの問題女の出ばなをくじきたい「官僚達」の作戦であった可能性は大きいが、その期待は十分に達せられるであろう。
真紀子サンは、「新たな認可基準」を作って判断するとしたが、既に答申されている件に関しては、認可しましたと言う形で面子は保つのだろう。
ただ、それでも問題は残る筈だ。
監督官庁の長である文科相が、その認可不認可にタッチせず、「諮問機関」の言いなりに自動的に認可がなされる現状は、そこに当然「利権」が存在している筈だ。
その利権構造が、真紀子サンの敗北となれば、そのまま温存されると言う事である。
そして、監督官庁の長である文科相の決定に「頭から湯気を出して怒り狂い」、反対を突きつけて大臣の決定をひっくり返してしまうとすれば、そこには既に「法治国家」としての体裁もなければ、民主国家としての手続き基準も守られない、いい加減な国のママで居続けると言う事を意味する。
もっとも、これまでの警察や検察ひいては裁判所の、法律や憲法を無視しての暴走ぶりをあげるまでもなく、政府自体の強権的独裁体質を見せられて来ただけで、日本が「法治国家」等では無かったことは、とっくにバレてしまっている。
民主主義国家などという理想も、国民の利益と権利に逆らって、どこかの国に顔を向けて政治と行政とを牛耳り、司法まで支配する官僚組織を見せられれば、幻想に過ぎなかった事も衆知の事となってしまっている。
今回の田中眞紀子文科大臣の勇み足は、民主党の情けなさ、その内部の崩壊度、を国民に曝け出したと共に、日本の法治体系の形骸化と、さらには国民教育の矛盾にまで思いを集めた、病める国家日本の縮図の如き出来事であったのだ。
日本と言う国は、正に瀬戸際に居る。
立ち直らせる事が、果たして可能なのだろうか…。
四流・五流大学などもう要らない。
これまでに、繰り返してきた。
大学とは「最高度の学問を修める」学問の最高府である。
そして。
百人の同じ年の子供達のうち、「高度の学問」を修める可能性と能力の有る子供が、何人居ると言うのか。
知能指数80の子供にも、120の子供でも、夫々大学が与えられている日本の社会は、異常である。
日本の現状はと言えば、マクドナルドやスターバックスの数と、競い合っているかの如き大学の数がある。
NOVAじゃ有るまいし。
各「駅前」にそれぞれの大学は、不要である。
それに付けて。
親父のハイテク・ブルドーザーから「制御コンピューター」だけ取り除いた様な娘が、また騒ぎを起こしてくれた。
▶<田中文科相>3大学の新設認めず…審議会の答申覆す(毎日/見出し)
>田中真紀子文部科学相は2日、閣議後の記者会見で「大学設置認可の在り方を抜本的に見直す」と述べ、認可を厳格化する方針を示した。
>また、大学設置・学校法人審議会が1日に来春の開学認可を答申していた秋田公立美術大、札幌保健医療大、岡崎女子大(愛知県)の3件の4年制大学を不認可とした。
>文科相が審議会答申を覆したのは、省内に資料が残る30年間で初めてで、極めて異例の判断。
>学校法人が大学を開校したり学部を新増設したりする場合、文科相は審議会にその可否を諮問し、答申を受けて決定する。
>田中文科相は全国に4年制大学が780(国公立181、私立599)校あることに触れ「大学教育の質が低下している。そのために就職できないことにもつながっている」とし、当面は新設を認めない方針を示した。
>今後、検討会を設け、メンバーの多くが大学の学長や教授で占められている審議会の在り方を見直す。
【毎日新聞/11月2日(金)12時37分配信】
例に依って、大騒ぎを引き起こした事は、真紀子サンの期待通りなのだろう。
学長は「撤回を求める」と息巻く。
法的手段も辞さないとの意気込みであるらしい。
マスコミは、困惑と怒りの「町の声」を、挙って並べ立てる。
「寝耳に水」
「大臣の考え方一つで方針が変えられるのは行政の継続性を逸脱している。到底承服できない」
「出はなをくじかれた思いだ」
「驚いた。開校の準備が整いつつあったのに。理由の詳細が知りたい。編入や入学を希望している生徒への対応はどうなるのか」
「大学になると聞き、学習面で頑張らなければと意欲が高まっていた。残念というよりも、驚きが大きい」
「不認可にした理由の詳細が知りたい。編入や入学を希望している生徒への対応はどうなるのか」
「生徒の意欲がそがれる。進路の選択肢がいきなり減らされるのは大きな損失だ」
「問題はこれから出てくる」
「就任したばかりなのに急な路線変更」
「正論だがそれはこれからやるべきこと。前の大臣のままだったら認可されていたのでは」
「一番迷惑を被ったのは進学しようと準備していた高校生と短大から編入しようと思っていた学生では」
「大学の数が多すぎ、質が低下している」(田中大臣)vs 「エリート主義のあらわれで、極めて問題がある」
申請した学校法人側も、進学予定だった生徒達も、自治体も、更には文科省の官僚達まで、右往左往の大騒ぎの態で有る。
▶大学新設不認可:文科省幹部、頭抱え 学生への影響危惧(毎日/見出し)
>大学設置・学校法人審議会が来春の開学認可を答申していた秋田公立美術大(秋田市)▽札幌保健医療大(札幌市)▽岡崎女子大(愛知県岡崎市)の3大学を不認可とした。
>田中文科相は、10月26日と同30日の閣議後に開かれた記者会見でも「大学の認可が多すぎる」と持論を述べていたが省内の驚きは大きかった。
>ある幹部は「認可を想定し大学に進学する予定で就職活動していない短大生がいる」とあまりの影響の大きさを危惧。
>別の幹部は「法人や学生のサポートなどできることをこれから最大限考えるしかない」と頭を抱える。
>また、批判の的とされた審議会委員は、慎重な対応に終始。ある委員は「委員としては設置審査を粛々と行った。認可か不認可かは、文科相の判断だと思っている」とコメント。また、別の委員も「お答えできる立場にないのでコメントは控える」とした。
【毎日新聞/11月03日00時29分配信】
ここまでは、真紀子サンの単なる突出だと思えた。
最近、とみに存在感のなくなった田中眞紀子としては、このまま消え去る訳にはいきません。
徹底的に自分勝手で、とことん人迷惑な真紀子サンの面目躍如として、しっかり「マーキング」したのだと思った。
しかし。
どうも、おかしな点も有るようだ。
この措置が、田中眞紀子の独断専横ではなく、事前に野田佳彦には話が通っていた、という。
そして、文科省サイドは火消しに躍起となる。
「不認可の処分を出した訳ではなく、見送りだ」
▶<大学新設不認可>文科相と首相官邸 認識食い違いが表面化(毎日/見出し)
>田中真紀子文部科学相が3大学の新設を不認可とした問題で、首相官邸はこれまで「文科相が最終的に判断することだ」(藤村修官房長官)と静観してきた。
>しかし、田中氏は6日、野田佳彦首相らから事前に了承を得ていたと「暴露」し、藤村氏が記者会見で否定するなど、認識の食い違いが表面化。野党は7日の衆院文部科学委員会で田中氏を追及する構えで、野田政権はまたも閣僚をめぐる火種を抱え込んだ。
>「官房長官からは『大変結構だ』、首相からは『進めてください』という言葉を頂いている」
>田中氏は6日の記者会見で、3大学の不認可について首相と官房長官とのやりとりを明らかにした。藤村氏は同日の会見で「大きな考え方の報告を受けたことは事実」としながらも、「了承する立場ではない」と強調。記者団から首相の任命責任を問われると、「どこに、どう責任があるのか」と気色ばんだ。
>大学設置を認可する権限は文科相が持ち、首相が判断することは通常ない。しかし、首相周辺によると、文科省の事務方から発表前日に「不認可にすれば訴訟のリスクがある」との警告が官邸にあったという。
>それでも官邸サイドが介入しなかったのは、言動が注目される田中氏への遠慮も一因とみられ、首相周辺は「閣僚人事の失敗だ」と嘆いた。
>岡田克也副総理は6日の会見で「方向性は田中氏の言う通り。ある意味で(認可の)審議が形骸化していた」と理解を示し、建設的な解決を求めた。
>しかし、3大学の地元は不認可の撤回を求めて猛反発。教育問題は有権者の関心が高く、民主党内からは「田中氏が突っ走ったこと。面倒を見切れない」と冷ややかな声が上がる。
【毎日新聞/11月6日(火)20時36分配信】
「閣僚人事の失敗だ」・・・笑わせるな。
「田中氏が突っ走ったこと。面倒を見切れない」・・・笑わせるな。
旧民主党に、政権担当能力なんて、端っから無かった。
大うつけ総理大臣自体が、三代も続いた「このザマ」だ。
誰が大臣になったって、何も変わる物では無い。
そして今回の騒動も、どうせ、一騒ぎ起こせば彼女の当初の目的は果たされた訳だから、数日後には撤回の腰砕けになるだろう、と思っていた。
そして、4日後の会見で案の定。
▶肝心なこと言い忘れた…真紀子氏が3分後唐突に(讀賣/見出し)
>「私が性急にやったわけではない」「(認可が決まった段階で)既に建物が出来ているのはおかしい。誰かが事前に情報を流しているのでしょう」
>「大学の乱立に歯止めをかけ、大学の質を向上したい。それが私の真意」
>田中文科相は、秋田公立美術大(秋田市)、岡崎女子大(愛知県岡崎市)、札幌保健医療大(札幌市)の不認可決定の正当性を、とうとうと語った。
>しかし、3分後、「肝心なことを言い忘れました」と、田中文科相は再び会見室に姿を現した。
>そして出てきた言葉は、「新しい仕組みを早く立ち上げ、3大学を含めて新しい基準で改めて判断したい」。
>唐突に、3大学の「再審査」に道を開いた。説明は2分間。報道陣から続く質問を背に、「皆さんと知恵を借りながらやっていく」と言い残して退室した。
【讀賣新聞/11月6日(火)12時34分配信】
やっぱり。
想定内だよな。
ところが、当の大学側の腹の虫は納まらないらしい。
▶真紀子氏の収拾案に「話にならない」…大学怒り(讀賣新聞/11月6日(火)22時15分配信)
>3大学の不認可問題で、文科省の前川喜平官房長は6日になって、「(現在も3大学の)不認可の処分はしていない」という説明を始めた。
>不認可処分の正式決定後では、3大学は申請書類の再提出が必要で来春の開学が困難になるためとみられるが、翻弄された3大学は強く反発している。
>3校の関係者は6日夜、東京都港区のホテルに集まって会合を開き、田中文部科学相に対し、不認可の即時撤回と、これまでの手続きにのっとった認可を求めとともに、受け入れられない場合は訴訟も検討することを確認した。3校側は7日、文科省を訪れて求める要請書を提出する。
>会合後、岡崎女子大(愛知県岡崎市)の開校準備を進めてきた学校法人「清光学園」の長柄孝彦理事長は、新しい審査基準に基づき、田中文科相が認可を判断する収拾案に触れ、「話にならない。はぐらかされ、怒りを強く感じた」と話した。
【讀賣新聞/11月6日(火)22時15分配信】
しかし、何だか、様子がおかしい。
いずれにせよ、文科省の官僚の上申で真紀子サンはこの事案を知った筈である。
大臣に就任した直後に、官僚の誘導で事が為された筈である以上、官僚達に取っては「寝耳に水」ではなかった筈である。
レールは敷かれていた筈だ。
で、何の為に…。
予算削減に走る官僚が、田中眞紀子文科相をダシに使って、彼女を弾除けに使ったか。。。
大学開設の認可や設置に伴う「利権」の数々に、真紀子サン自身が絡めないのが面白く無かったか。
「設置審議会」なる外郭機関の「権力」を削ぐ事で、大臣の権限を回復したかったのか。
いずれにせよ、霞ヶ関のシロアリ共の暗躍や、民主党内部の当てこすり等には、興味は無い。
しかし。
一つだけ、はっきり言える事が有る。
日本には「大学」が多すぎる。
何度も何度も繰り返して来たが、そろそろ学歴や教育に対する考え方を、根本から変えるときではなかろうか。
『駅前大学』という言葉が語られ始めたのは、いつの事だっただろうか。
駅の数だけ大学が有る。
戦後の第一次ベビーブームの世代に、大学は「雨降りの後のタケノコ」の如くに作られて行った。
戦後の混乱期が終わって、高度経済成長期に子育てをした「戦中派」は、生活水準の向上と共に子供達の教育に意を注ぐという、社会の意識変化が高等教育への需要を増やし、学歴社会と呼ばれる精神風土をもたらした。
それと共に、競争の激化は、戦後もたらされた民主主義による平等意識の浸透と共に、最高学府のインフレを呼び起こしたのだ。
その結果もたらされた物は、敢えて大学と言う名で呼ぶ「小さな」学校の卒業生の増産で、実社会での役には一切立たない、無教養な若者の群れであった。
口の聞き方、電話の受け答えから教えなくては実戦の役に立たない若者を、企業としては沢山受け入れて無駄な投資をする余裕を失ってしまった。
結果として、正社員の割合が大きく減って、雇用形態の一大変化がもたらされた。
いまや、大学出という言葉は何の意味もなく、一部の上級大学以外の卒業生は、就職先の確保もままならない所にまで至ってしまっている。
「学位」等紙切れ同然。
その事が語っている事は明らかである。
つまり、就職活動に支障をきたさない「エリート」学生を送り出す、限られた「上級大学」だけが、本来の大学であると言う事なのだ。
日本が本当に必要としている大学の数は、それらの一部の大学だけで満たされている、と言う事だろう。
元来「最高学府」が、駅前ごとに存在する訳が無いのだから。
そして、今や駅前大学以上に劣化して細胞分裂を繰り返して増殖して来た、四流・五流の大学でやっている事は「専門学校」がやる範囲の事柄である、と言う事。
敢えて言う。
四流・五流大学等要らない。
むしろ「家政学部」やら「生活科学部」やら「何とかデザイン学部」等と言う呼称で、実生活上のテクニックを教える事を「学問」にしなくても良いという事を、声を大にして言いたい。
大学はその名の通り「最高に大きな」学問を修める機関で良いのだ。
そういう所に行くのは、そういう「最高の学問」を求める者達で、最高の学問を修める能力の備わった者立ちだけ、で良いのだ。
それ以外の、「実生活に役立つ」知識と技術とを身につけさせる機関は、専門学校なのではないのか。
先ず肝要な事は、高等学校を本来の「高等」な学校に戻す事。
引きこもりの不登校や、教室には姿を表さずに悪さを繰り返している様な生徒に、「卒業証書」を与えるべきでは無い。
元来「高校全入」なる発想自体に無理が有る。
しっかり三年間の履修を済ませて、しかるべき試験でその成果を認めた上で、高校卒業に認定するべきだ。
その、高校の過程も「純粋学問系」と「職業訓練系」とに分かれるべき。
その後は、「大学」と「専門学校」との終了の資格を同等にすれば良い。
今の「大卒」の分類を、「大学、又は高等専門学校卒」にする。
何も「高度な学問」を修める能力の無い子供が、わざわざ大学を目指さなくても、より学び易い、より学ぶ気になれる、より学ぶ価値の有る「専門分野の知識と技術」とを授ける学校に通う事で、社会人になる為の資格に認定すれば良いのだ。
駅弁の如き大学は要らない。
ましてや、高校は卒業したものの、山ほど有る大学のどれにも入れずに「仕方ない」から通う様な「専門学校」もこれまた不要である。
人間として、人生を真っ当に歩む為に必要な教養は、義務教育で身につけられる様にする。
逆に言えば、その為の「義務教育」ではなかろうか。
而して、高校以上は各生徒の付加価値を高める為に存在し、そこが競争社会となる事は、必要な事であろう。
要は、大卒でなくても引け目を感じる事等無いような、社会構造にするべきなのだ。
生徒各自の素養と性格、嗜好や性向に合わせて、各段階の教育をすれば良いだけである。
学問に興味が無ければ、普通高校に行かずとも、職業訓練の学校が有れば良いのだ。
そして、その両者の評価は同等にする。
その次の段階も、大学に進むか、高等専門学校に進むか、これまた生徒各人の能力と性格とに合わせて決まれば良い。
その様になれば、無用な競争や差別も減って行く筈である。
学問の性格の差で、教育年数が同じなら同じ扱いを受けられて、同じ待遇にする事だ。
その為に肝要な事は、教育をビジネスにしてはならない、と言う事。
つまり「私学」が多すぎる。
学校法人という隠れ蓑を着た資本主義の企業が、経営を優先し、利益を確保する事が前提となる事は当然である。
その教育産業は、少子化社会に於いて経営の悪化を招き、その対策としてやたら多くの「学部」や「学科」を新設し、学生はお客様という発想で経営競争に走る事となってしまう。
その結果が、モナコとモロッコの違いも分らず、英語で自己紹介も出来ず、自分の意見を持たず、自分の考えを言葉で相手に伝える能力も無い、ただただ遊ぶ事に長けた学生を大量生産してしまうのだ。
そんな大学は、要らない。
社会人になるのを少しでも送らせて、最後に遊ぶ所、と成り果てた大学等要らない。
更に言えば、日本独自の物差しである「偏差値」の弊害も、拙ブログで何度も語って来た通りである。
東大法学部の集まる外務省や財務省の無能ぶりを見れば、この事は一目瞭然なのだが、その事はまた別のテーマなので、今回は敢えて触れない事にする。
今回の、田中眞紀子文部化学大臣の「暴走」が、その真の原因が奈辺に有るかはさておいても、限界に達してしまった日本の教育制度の矛盾が、露呈してしまった事は避けて通れない事実である。
くだんの三大学の新設学部の認可は、一両日中にもなされるであろう。
田中眞紀子の「完敗」という形で。
あの問題女の出ばなをくじきたい「官僚達」の作戦であった可能性は大きいが、その期待は十分に達せられるであろう。
真紀子サンは、「新たな認可基準」を作って判断するとしたが、既に答申されている件に関しては、認可しましたと言う形で面子は保つのだろう。
ただ、それでも問題は残る筈だ。
監督官庁の長である文科相が、その認可不認可にタッチせず、「諮問機関」の言いなりに自動的に認可がなされる現状は、そこに当然「利権」が存在している筈だ。
その利権構造が、真紀子サンの敗北となれば、そのまま温存されると言う事である。
そして、監督官庁の長である文科相の決定に「頭から湯気を出して怒り狂い」、反対を突きつけて大臣の決定をひっくり返してしまうとすれば、そこには既に「法治国家」としての体裁もなければ、民主国家としての手続き基準も守られない、いい加減な国のママで居続けると言う事を意味する。
もっとも、これまでの警察や検察ひいては裁判所の、法律や憲法を無視しての暴走ぶりをあげるまでもなく、政府自体の強権的独裁体質を見せられて来ただけで、日本が「法治国家」等では無かったことは、とっくにバレてしまっている。
民主主義国家などという理想も、国民の利益と権利に逆らって、どこかの国に顔を向けて政治と行政とを牛耳り、司法まで支配する官僚組織を見せられれば、幻想に過ぎなかった事も衆知の事となってしまっている。
今回の田中眞紀子文科大臣の勇み足は、民主党の情けなさ、その内部の崩壊度、を国民に曝け出したと共に、日本の法治体系の形骸化と、さらには国民教育の矛盾にまで思いを集めた、病める国家日本の縮図の如き出来事であったのだ。
日本と言う国は、正に瀬戸際に居る。
立ち直らせる事が、果たして可能なのだろうか…。
パリさんの毒舌サイコー(笑)
斧魔さんから「連続ok」を頂けて、恐縮しつつハッピーです!