たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

社会人教と今後の世界

2016-12-29 02:19:55 | Weblog
 (今日はいつも以上に論理の段差がめちゃくちゃ激しいです。この文章は一般大衆や誰かに伝える気はありません。俺自身のメモのようなものですし、考え中のところも沢山あるので、今回に限っては、公に質問されても応えないかもしれません。個人的に連絡をくれれば別ですが。っていつも別にコメント来ないから大丈夫よね笑)

 日本国内において、社会人として認められたいのであれば、各々が経済的に自由競争さえし続ければ社会全体が安定になることを信仰し、その競争はたいていの場合は団体戦であるのだから、個人としては自らが所属している集団の最大多数の最大幸福を目指すように、常に行為することを受け入れることである。これを社会人教と名付けよう。

 社会人教の人たちは、上司の顔には決して泥を塗ってはいけないし、労働基準法などの明確なルールを知っているような面倒な人間になるよりも、とにかく従ってくれる従順な使いやすい人間を評価基準の最低ラインとして用いるようになるのだが、、果たしてこれは昔から適応されてきた事柄なのだろうか?とかく、今の20代30代などの若い世代の社会人教徒たちは、"カネを貰うのだから、とにかく従順になって、上司の顔を立てるのは当たり前。だってカネを貰うのだから"という前提が強いが、果たしてこれは、貨幣が登場して以後、どんな時代、どんな状況でも当たり前に成り立つようなロジックなのだろうか?
 そもそも、カネが支払われるのだから(使いやすい人材であり続けるために)奴隷のようにすべての指示に従うのは当然、という奴隷根性を前提としたシステムが成り立つためには、奴隷になることで、奴隷にならなかった場合よりも、個人の(金銭的または時間的)自由が大きくなることが必要である。歯車としての需要が多かった高度経済成長期に成り立っていた奴隷のシステムは、奴隷であることで自身の自由の最大化とその状態の安定化を狙えるという点でメリットがある。だから、企業や集団からの要請(マクロからの要請)に対して応えながらも、同世代なら(誰でもありふれている、という意味で)平等という年功序列システムが採用されるわけである。

 しかし現在、この序列システム、延いては、社会人教に対して、果たして本当に価値があるのだろうか?という視点が流行ってから久しい。奨学金が返済できずに自己破産するケースが1万件を超えているらしく、年金問題は解消される兆しは一向に見えないし、2030年までに国立大学の年間授業料は93万円まで高まることが決定している。いまや、暗記を繰り返すことで偏差値というスコアを得て、そのスコアを基にして奴隷ヒエラルキーを決定するというシステムの価値が(金銭的にも時間的にも)無いのは明らかである。今の大学のシステムもそろそろ終わりであり、あの気味の悪い就活もそろそろ観れなくなってしまうだろう。
 歯車としてしか生きて来れなかった団塊の世代から団塊ジュニアまでの世代は、回転がやたらに早いだけで慣性モーメントが極端に小さく、戦術面においては質の悪さを量でカバーせよ、とにかく若いうちはハードワークが必須なのだ!(よーするに回転数を高めよ)、と時代錯誤な命令を繰り返すばかりである。戦略面に至っては、若いうちは考えてはいけない、というような風潮が強い。だから、美徳性や理想を語り、労働基準法などのルールをしっかり学ぼうとすると、"子供"扱いされるのである。
 もはや、日本全体として、自由競争に完敗しているにも拘らず、歯車でありつづけた旧世代の彼らには、広い視点(メゾスコピック)が圧倒的に欠けており、そのことにすら気づけていないのである。なぜなら、今までそれで、(自分たちは)何事もなく上手くいってしまったから。

 実は事態はもっともっと深刻で、いま世界では"各々が自由競争さえしていれば社会は安定化する"という社会人教の前提そのものが崩れようとしている。ただし、この前提はそんなに悪くない定説で、"事業全体が拡大していく限りにおいて"と条件をつければ、かなり正しい。だが、現実、平衡状態を迎えようとしている。
 (ミクロスコピックに各々が)自由競争していた社会に、経済の限界性(マクロスコピック)が歯止めをかける。自由競争社会を十分に寝かせた状態である平衡状態こそが、すなわち、全体主義なのである(via 権威主義)。情報革命が継続中であることも手伝って、一挙に、世界において、全体の空気こそが最も信ずべきもの、になりつつある。だから、キャラクターとしてわかりやすい人物の方が、リーダーになりやすいのである。

 この平衡状態を目覚めさせてきた人物で有名なのはナポレオンやヒトラーなどだが、21世紀にはどのような先導者が現れるのだろうか?
 ドナルド・トランプか?もしくはラリー・ペイジやイーロン・マスクなどのグローバルベンチャー企業の人間か?いやいや、それとも、、AIである可能性が、、あるか?
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2 コメント

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Unknown (ネクラテス)
2016-12-30 18:08:00
信州読書会経由でこちらのブログを楽ませていただいています。

不思議なもので全体主義で皆が全体に合わせて行動してるにも関わらず、社会は一定の方向に成長することがありませんよね。
全体主義の規範が、『とにかく行動を起こすこと』でしかなく、『行動の方向ベクトルを合わせる』というところまで考えが及んでいないのでしょうかね。
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Re:Unknown (KeiT)
2016-12-30 19:30:10
ネクラテスさん

コメントありがとうございます。
そうですよねー。なんか、熱統計力学っぽいなぁと。マクロからの制約はかけられながらも、ミクロには精一杯ランダムなんですよね。
でも、しょせん、体育館からは絶対出ちゃいけないですよと先生から言われてる小学生がめっちゃ走り回りまくってるだけ、みたいな。これは物理学的にはただの平衡状態ですけど、社会的には面白い状態ですよね
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