たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

優しさの秩序パラメータ

2010-02-17 03:04:57 | Weblog
 自分の利益を一切介在させずに、誰かのためになることは、本当に難しい。
 言葉をちょこっと変えちゃっただけでも伝わらないし、その繊細な部分を、良くも悪くも、案外、相手は感じとってしまうもんだ。
 人の感情は言葉の端端に表れる。それなら、自分は清らかな心があるから大丈夫って高を括っていると、誤解を招くこととなる。自分の言葉は、常に、慎重に選ばなければならない。

 こんなことが重要になってくる事柄は、素晴らしく優しい人達によって形成されるので、実は、最終的には、問題無い。
 問題なのは、よーく考えたら自分勝手な発想なのに、それが言葉の魔法によって、カッコイイとか正しい!みたいな感じになるほう。
 それが具体的になんなのかを書いたら、俺と直接話す意味が無くなってくるので書きませんが(笑)、すんごい曖昧に言うなら、例えば「協調性」とかね。それだけじゃ、もぅ、定番すぎて、オリジナリティーの欠片も無いですけど。

 本当の意味で、誰かのためになるとき、凄まじい想像力が必要だ。徹底的に相手の立場を想像し、そのなかで理解し、解析しなければ、相手の役に立つことなんて無理。そういう作業をするとき、必要になってくるのは「賢さ」である。
 これに必要な賢さのレベルは、きっと、俺らの想像を遥かに超えるほど、高い。たぶん、ε-δ論法や電子軌道、超伝導とか級の難しい概念を定性的にきちんと想像できるくらいの力は無いと、誰かの立場を正確に想像することなんて、事実上、無理だと思う。
 けれども、その賢さを持っていても、相手の立場を想像することに使うか?ってのは、また別問題で、最低ラインとしてなきゃいけないのは、やっぱり「助けたい!」という心のほうなのかも、って感じる。

 すごく悲しいことだけど、この心って、先天的に持っている人とそうでない人がいる気がしてしまう。それはあんまり正しい表現じゃないかもだけど、もっと正確に言うなら、この心を、今、持っていない人が、今から持とうとするのは、大きなリスクを伴うから、なかなか難しいかなぁって…。
 だって、自分の想いの容量(≒心の余裕)に凄まじい勢いで液体を流れ込ませることで、想いの容量そのものを前よりも大きくしていかないといけないんだから。

 その液体は、大きく分けると、2種類ある。ひとつは、誰かからの優しさ。もうひとつは、不幸。
 片方だけでも、両方均等に混ぜ合わせたんでも、想いの容量を満タンにまでしてしまうのは非常に危険だし、「誰かのために」の心じゃなくて、「より自分勝手に」の心を促進していってしまう可能性もある。
 曲がってしまっている優しさを受け入れても、すぐ誰かへの攻撃にトランスファーして放出される可能性があるし、想いの容量からあふれ出るほどの不幸は、そのまま誰かにぶつけてしまうことだってある。っま、逆に作用すれば、最高なんだけどね。
 どっちになるかを計量する秩序パラメータが何かはよくわからないけど…、もしかしたら、そこに、経験や環境に依らない、自分自身があるのかもしれない。ただ、良い方向に作用する例は、本当に少ない。

 助ける心を持つための確実な方法を、ひとつだけ、知っている。この経験を持ったなら、間違いなく、人を助ける心になる。というより、心が、「人を助けなきゃ」だけで占有されるようになる。
 絶対に避けなければならない、想いの容量を無限大にする、その手法は、誰だって身に降りかかるモノで、人の恐怖の根底だったりする。

 「だって、そうじゃん?その経験だけは、別格だよ?(笑)」
 『どーでもいいけど、そんなことを、笑いながら言う、お前が怖いわ。(笑)』
 「そうか?」

 こんな風になりたくは無いし(笑)、何より代償が大きすぎるから、想いの容量は有限のままでイイと思う。
 それで、十分、誰かのためになれるさ。

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