《今はなき、外臺の大合歓木》(平成28年7月16日撮影)
さて、ここまで名須川溢男の論文「近代史と宮沢賢治の活動」を読んできたので、最後に一度振り返って、新たに知ったことを中心にして少しまとめてみたい。
⑴ まずは、梅木文夫という人物についてである。この梅木については以前から気にかかっていたのだが、殆ど何もわからずにいた。それがこの論文によって幾つかのことを新たに知ったので、次のようにまとめた . . . 本文を読む
《今はなき、外臺の大合歓木》(平成28年7月16日撮影)
それではこの論文のいよいよ最後の事項「その後の羅須地人協会の継承について」である。
名須川は、「その後の羅須地人協会の継承について考えてみたい」と前置きして、『ラスキン言行録』を引例しているが、そこにはそれほどの意味を私は見つけられなかったので、次に進むと、こう書いていた。
松田甚次郎の言葉は象徴的である。
一、小作人たれ、一、農村 . . . 本文を読む
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名須川はこんなことも書いていた。
昭和三年以降の賢治の作品や書簡については、かなり時代背景を十分に考慮して読まなければならない。すでに閉鎖され、抑えられ、社会運動弾圧禁止(ママ)の時代であり、労農党活動に関係して取調を受けたり、羅須地人協会もおそらく密かに家宅捜査されているかもしれない(『宮沢賢治の思想と生涯』柴田まどか著 洋々社、一九 . . . 本文を読む
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さらに、名須川はこんなことも述べていた。
昭和四年頃には佐々木喜善とともに、プロレタリア文学・美術愛好家グループ・社会運動関係者等とエスペラント学習会を開いている(「伊藤秀治手帳メモ」)。厳しい警戒の中で密かに実施されたものと思われるこのような活動は、なおこれからも調べる必要があろう。………④ 〈『岩手の歴史と風 . . . 本文を読む
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さてこれで、名須川の
昭和八年二月の久之丞あての書簡のとおり、反収三石二斗以上の増収で農家生活を向上させた。…………②という断定には、どうも説得力が欠けていると言わざるを得ないことが明らかになったが、名須川はこれに続けて、
昭和三年の大弾圧の嵐を受難して後、賢治はその活動を特にも肥料設計指導を中心とした稲作指導に集中し、このように増収 . . . 本文を読む
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前回の〝賢治の指導に素直に頭が下がる〟の続きである。
ただし一方で、
昭和八年二月の久之丞あての書簡のとおり、反収三石二斗以上の増収で農家生活を向上させた。…………②と名須川は断定しているのだが、残念ながらその根拠を私は「昭和八年二月の久之丞あての書簡」の中には見出せなかった。
たしかに、「稲束収穫記帳」によれば、久之丞は賢治の指 . . . 本文を読む
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そして次に、実際に賢治から肥料設計指導を受けた高橋久之丞を引き合いに出して、具体的には「昭和三年、狼沢、三町三反の肥料設計書」や「稲束収穫記帳」等の資料に基づいて、名須川はその成果を論じていた。
そこでその資料から一部を抜き出してみると以下のようになった。
〇 宮沢賢治の肥料設計・稲作指導による増収(花巻市狼沢・高橋 . . . 本文を読む
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今までの流れでいえば、今度は「労働運動の若き闘士、賢治の教え子賢師ついに函館にて逝く」という項に入るのだが、この項については既に〝賢師が逝く三ヶ月前の書簡より〟で言及しているし、それ以降についても「四 むすびにかえて」の前までは一度触れたからそこまでは割愛し、いよいよ最後の「四 むすびにかえて」に入る。
名須川はそれをこう切り出してい . . . 本文を読む
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名須川はこう続けていた。
(昭和3年)一二月二日には改造社版啄木全集出版記念音楽と文芸の夕べが県公会堂に二〇〇〇人を集めて開かれていた。改造社の吉田孤羊や松本政治、佐藤好文、そして横田義重が盛岡中学の社研や「戦旗・文芸読者会」に呼びかけるなど積極的な活動家の努力により岩手芸術協会が結成され、それと啄木会の共催であった。…(投稿者略)…啄木 . . . 本文を読む
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それでは、今回は「社会運動の再建、〝合法政党〟たる岩手無産党を結成す」という項に移る。名須川はこう述べていた。
昭和三年は、大弾圧の受難の年であった。国内は社会運動の弾圧が、三・一五事件から労農党等三団体解散命令の四・一〇事件へ、そして岩手県では秋一〇月の陸軍大演習と天皇行幸にかかわる社会運動の取締り弾圧と続いたのであった。
…(投稿 . . . 本文を読む
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では今度は「昭和三年秋の陸軍大演習と大弾圧」という項に移ろう。名須川はこう言う。
岩手県内で昭和三年秋、陸軍の大演習がおこなわれ、天皇の行幸があったが、それらのことからさらに社会運動の大弾圧があった。 〈『岩手の歴史と風土――岩手史学研究80号記念特集』(岩手史学会)493p〉
ただしこの文章には少し首を傾げてしま . . . 本文を読む
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さて、昭和3年にはこんなこともあったということを私は迂闊にも全く知らずにいた。名須川はこう述べていたからだ。
全国思想統制の嵐が猛威をふるい、「国体観念」「国民精神」が叫ばれてきた。
「文相の訓辞要領▽学部長会議△」との標題で報じているが、その訓辞要旨では「学生生徒をして建国の本義を体得せしめ国体観念を明証ならしめて確乎たる不抜なる国 . . . 本文を読む
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では今度は、当時の「思想統制」に関してであり、名須川は次のように論じていた。
思想の統制が徹底化する
昭和三年六月九日、治安維持法が緊急勅令で最高刑死刑、目的遂行罪の新設。七月五日には特別高等警察課が全国に設置され、八月三日には岩手の初代課長工藤慶一着任との新聞報道。
賢治はこの六月、東京にて、
ひかりかがやく青ぞらのし . . . 本文を読む
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では今度は「解散命令の弾圧と労農党の混乱」という項に移ろう。名須川はこう述べていた。
解散命令の弾圧と労農党の混乱
解散命令の弾圧により労農党は混乱していた、その状況を記録からみよう。
…(投稿者略)…本県幹部の一人小館長右エ門の如きはこの共産系の囈語に浮かされ和賀稗貫方面の半可通と共に「十一月に革命を起こせ」等の騒ぎをなし爆 . . . 本文を読む
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ではここでは、「労農党等三団体解散命令」に関する記述からである。
名須川溢男は次のようなことなどを述べていた。
四・一〇、三団体の解散命令
労農党等三団体が解散命令を受けた(昭和三年四月十日)
㈤ 労働農民党、評議会解散せらる
四月十日、日本共産党の外郭としての労働農民党、日本労働組合評議会、無産青年同盟の三団体、内務省より . . . 本文を読む