《創られた賢治から愛すべき賢治に》現時点での結論
さて、ここままで賢治の「東北砕石工場技師時代」のことを調べてきて特に思うことは、やはりこの昭和6年9月の上京と昭和3年6月の上京とはその構図が酷似しているということである。賢治はどうも物事を長続きできないという性向があり、熱しやすいがその分逆に冷めやすく、いともたやすく物事を諦める傾向がある。その典型が農繁期に行ってしまった昭和3年6月の「伊豆大 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》賢治の逡巡
さて賢治は、鈴木東藏宛書簡〔395〕には
(昭和六年) 〔九月二五日または二十六日〕鈴木東藏あて 封書〔封筒ナシ〕
拝啓 一向に御便りも申上ずお待ち兼ねの事と存候 実は申すも恥しき次第乍ら当地着廿日夜烈しく発熱致し今日今日と思ひて三十九度を最高に三十七度四分を最低とし八度台の熱も三日にて屡々昏迷致し候へ共心配を掛け度くなき為家へも報ぜず貴方へも申し . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》『兄妹像手帳』154pの意味すること
さて以前にも少し引用したが、『兄妹像手帳』には昭和6年の上京に関する記述がいくつかあり、その154pには以下のようなことが書かれている。
【『兄妹像手帳』の154p】
廿八日迄ニ熱退ケバ
病ヲ報ズルナク帰郷
退カザレバ費ヲ得テ
(1) 一月間養病
(2) 費ヲ得ズバ
走セテ帰郷
次生ノ計画ヲ
ナス。
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《創られた賢治から愛すべき賢治に》思考実験(続き)賢治三回の「家出」
吉田 いずれ、賢治の体温が高かったとはいえこの両日ならばまだ37℃台、無理すれば吉祥寺に行けないこともないから、このいずれかの日に賢治は少なくとも吉祥寺の菊池武雄の家に行き、また当時国分寺辺りに住んでいたと思われる伊藤ちゑの許へも訪ねて行った。まあ、これらはあくまでも思考実験上でのことだけど。
ついでに言えば、場合によっては、 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》 では、先にチェックした
(1) 賢治は、着京直後はある程度営業できるだけの体力はあった。
(2) 賢治は、少なくとも暫く滞京するつもりでいた。
(3) 賢治は、暫く滞京することを実家の父等には知れたくなかった。
(4) 賢治が遺書を書くだけの理由は全く読み取れない。
(5) 賢治には、この時の上京にはうしろめたい気持ちがあった。に留意しながら、これは . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》着京直後の賢治
さて着京した賢治は、佐藤竜一氏によれば
だが、東京に着いたとき、セールスマンとして活動する体力はもはやほとんど残っていなかったったのだ。
神田の八番館にたどり着くや、早速営業に出かけたが、仕事を取れず、そのあげく肺炎になり、倒れてしまったのだ。
ということだが、何を典拠として「セールスマンとして活動する体力はもはや . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》出京直前の賢治の体調
ではそろそろ賢治の最後の上京についてこれから少しく考えて見よう。
そこでます、昭和6年9月の賢治の動向を以下に確認してみる。
したがって賢治は、出京直前には「肥料展覧会」がありそのための準備と、13日~17日の「肥料展覧会」期間中は宣伝説明を行っていたということになろう。そのことについて、佐藤通雅氏は . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》出京の遅れ
さて、7月1日と2日にわたって行われたあの熱心な搗粉販売営業活動後の、東北砕石工場花巻出張所所長としての賢治の営業活動はどのようなものであったであろうか。
以前つくった「東北砕石工場技師時代の賢治の動向」一覧の後半部分を一度確認してみると、
となっている。この表によれば、8月12日には
壁材料等出来。 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》ちゑとの結婚話再燃
その当時(昭和6年7月7日頃)賢治がハイテンションであったということは、同じく前掲書の中の次の記述からもうかがえる。
「実は結婚問題がまた起きましてね。」
という。
「どういう生活をしてきた人ですか。」
と私がきく。
「女学校を出て、幼稚園の保母か何かやって居たということです。」
「それで意志がおありになるのですね。」
と私がいう。
. . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》昭和6年は冷害だったが
一方で、伊藤良治氏が指摘するとおり、
肥料用炭酸石灰から搗粉へ、そして今や壁材料の製造・セールスに夢中になっている。酸性土壌改良のための炭酸石灰普及活動が、いつの間にやら工場経営次元のセールス活動にウエイトが移っている。
ことも気掛かりだ。
実は岩手ではこの年昭和6年は、それまでに旱害はしばしばあっても冷害 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》関心は壁材料へ
さて、搗粉の販売計画のもくろみは残念ながら惨憺たる結果に終わったので、別の新たな製品の販売計画を立てねばならないことになった賢治であるが、その新たなる製品とは「壁材料」だった。このことに関して佐藤竜一氏は次のように述べている。
搗粉の販売が不調に終わり、新たな活路を見いだす必要があった。
注目したのは、建築用壁材料である。…(略)…
七月一 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》搗粉の宣伝
さて、前回最後に引用したように、伊藤良治氏は
五月下旬には、もう需要期は終わりをつげる注文激減現象の到来となる。
と述べていたが、このことを受けて同氏は前掲書において「六 搗粉製造販売に力点を移す」という項を立てて、次のように論考している。
さて五月半ばまでの農繁期が過ぎてパッタリ受注が途切れてしまう。どうしても次のステップを切り拓いていか . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》宮城県での営業活動
では次に宮城県関係について少し考えてみる。『新校本年譜』によればそれは三回の出張があり、それぞれの概略は
<1回目>
4月18日:松川→仙台 県庁農務課
4月19日:県庁農務課(関口三郎技師と面談)→古川(県農事試験場、浦壁国雄)→小牛田(斉藤報恩農業館訪問?)
<2回目>
5月4日 :松川→仙台 県庁農務課
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《創られた賢治から愛すべき賢治に》秋田での「とびこみ」営業活動
さてここで、以前にも掲げた「東北砕石工場技師時代の賢治の動向」一覧の前部分を再度見てみよう。
3月8日~9日の「秋田行」
賢治はまずはダイレクトメールを送り始めた。次いで、工藤藤一などの「つて」も使って営業活動も始めた。しかし「つて」だけではおのずから限界もあるわけで、営業の常として「とびこみ . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》「王冠印手帳」より
先に私は、「東北砕石工場技師時代」に入った賢治にはそれまでとは違った気遣いがあったりして、相当の気疲れがあったにちがいないと危惧したのだったが、それは現実にあったようだ。
伊藤良治氏は『宮澤賢治 東北砕石工場の人々』の中で次のように論じているからだ。「王冠印手帳」の中のあるページなどを次のように、
「王冠印手帳」は、昭和六年二月一七日ころ . . . 本文を読む