《1 》(2024年3月27日撮影)
《2 》(2024年3月27日撮影)
《3 》(2024年3月27日撮影)
《4 》(2024年3月27日撮影)
《5 》(2024年3月27日撮影)
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ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言ってい . . . 本文を読む
《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)
先に、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』
を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆 . . . 本文を読む
毘沙門山にもカタクリが咲いた。しかも、昨年の今日(2023年3月27日)、胡四王山にはカタクリが結構咲いていたのでこの3月27日に、久し振りに胡四王山に来てみたのだが……
《1 》(2024年3月27日撮影)
《2 》(2024年3月27日撮影)
《3 》(2024年3月27日撮影)
《4 》(2024年3月27日撮影)
《5 》(2024年3月27日撮影)
《6 》(2024年3月2 . . . 本文を読む
《1 》(2024年3月24日撮影)
《2 》(2024年3月24日撮影)
《3 》(2024年3月24日撮影)
《4 》(2024年3月24日撮影)
《5 》(2024年3月24日撮影)
《6 》(2024年3月24日撮影)
《7 》(2024年3月24日撮影)
《8 》(2024年3月24日撮影)
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ある著名な賢 . . . 本文を読む
《1 あれっ》(2024年3月24日撮影)
《2 今年は囲いがされている》(2024年3月24日撮影)
《3 この囲いの中には毎年フクジュソウが沢山咲くのだが》(2024年3月24日撮影)
《4 殆ど見られない》(2024年3月24日撮影)
ちなみに、過去の様子は以下のとおり。
☆2023年3月27日
☆2022年4月10日
☆2021年3月24日
☆平成31年4月13日
《5 それ . . . 本文を読む
「私たちは今問われていないか―賢治と〈悪女〉にされた露―」(テキスト形式)
この投稿は、『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』の中の第三章である
Ⅲ 私たちは今問われていないか―賢治と〈悪女〉にされた露― 鈴木 守
についてである。
一 はじめに
宮澤賢治が生前血縁以外の女性の中で最も世話になったのが高瀬露である。ところが現実は、露はとんでもない〈悪女〉にされていて、いわゆる〈高瀬露 . . . 本文を読む
《1 》(2024年3月24日撮影)
《2 》(2024年3月24日撮影)
《3 》(2024年3月24日撮影)
《4 》(2024年3月24日撮影)
《5 》(2024年3月24日撮影)
《6 》(2024年3月24日撮影)
《7 》(2024年3月24日撮影)
ここのフクジュソウ、今年は個体数が少ないように感ずる。
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おわりに
それでは、「仮説検証型研究」という手法等によって、「羅須地人協会時代」を中心にして今まで研究し続けてきて辿り着いた私の結論を、以下に少しく述べてそろそろ終わりにしたい。
まず、私のかつての賢治像はどのようして出来上がったのだろうか。それは、「賢治年譜」や賢治の「定説」そして「通説」等を少しも疑わずに信じ、信じ続けてきたことによってであり、賢治は、「貧しい農民たちのために自分の命を . . . 本文を読む
《1 》(2024年3月24日撮影)
《2 》(2024年3月24日撮影)
《3 》(2024年3月24日撮影)
《4 アズマイチゲも咲いていた》(2024年3月24日撮影)
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ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、 . . . 本文を読む
《1 ばっけ》(2024年3月24日撮影)
《2 キズイセン》(2024年3月24日撮影)
《3 セイヨウタンポポ》(2024年3月24日撮影)
《4 ナノハナ》(2024年3月24日撮影)
《5 カテンソウ》(2024年3月24日撮影)
《6 タネツケバナ》(2024年3月24日撮影)
《7 ハコベ》(2024年3月24日撮影)
《8 ヒメオドリコソウ》(2024年3月24日撮影) . . . 本文を読む
☆『本統の賢治と本当の露』(テキスト形式タイプ)
第二章 本当の高瀬露
さて、ここまでの私の一連の検証結果は現「賢治年譜」等とは大分異なっていたり、果ては正反対だったりということで、そう簡単には世の中から受け容れてもらえないであろうことは充分に覚悟している。そこには構造的な問題が横たわっていそうだからである。そこで、第一章の〝2.「賢治神話」検証七点〟等の真偽についてどう決着がつくかはまだ . . . 本文を読む
《1 アズマイチゲもあちこちに咲き出していた》(2024年3月24日撮影)
《2 》(2024年3月24日撮影)
《3 》(2024年3月24日撮影)
《4 》(2024年3月24日撮影)
《5 》(2024年3月24日撮影)
《6 》(2024年3月24日撮影)
《7 そしてこちらはキクザキ一イチゲだ》(2024年3月24日撮影)
《8 》(2024年3月24日撮影)
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☆『本統の賢治と本当の露』(テキスト形式タイプ)
㈥「下根子桜」撤退と「陸軍大演習」
今度は、賢治が昭和3年8月10日に実家へ戻った件についてである。このことについては、
八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
〈『宮澤賢 . . . 本文を読む
《1 カタクリの葉っぱが結構見える》(2024年3月24日撮影)
《2 おっ蕾も》(2024年3月24日撮影)
《3 》(2024年3月24日撮影)
《4 》(2024年3月24日撮影)
《5 》(2024年3月24日撮影)
《6 》(2024年3月24日撮影)
《7 一輪だけだがもう咲いていた》(2024年3月24日撮影)
《8 》(2024年3月24日撮影)
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☆『本統の賢治と本当の露』(テキスト形式タイプ)
㈢「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治
さて、生前全国的にはほぼ無名だった宮澤賢治及びその作品を初めて全国規模で世に知らしめた最大の功労者はと言えば、今では殆ど忘れ去られてしまっている松田甚次郎だ。まさに「賢治精神」を実践したとも言える彼は、その実践報告書を『土に叫ぶ』と題して昭和13年に出版すると一躍大ベストセラーに、それに続いて翌年に松 . . . 本文を読む