佐藤隆房著『自叙伝 醫は心に存す』という本を読んでいたところ次のような記述があった。
昭和十五、六年頃はややおとろえたので、宮沢賢治の伝記を執筆しようと考えた。宮沢賢治の伝記は、賢治が他国に滞留したことがない関係で、花巻人が書かなければ書く人がいないと思ったからである。自分は腰痛で動きがとれないので、飛田三郎君というのに頼んで賢治に接触したあらゆる人々から当時の情報をあつめてもらって、この情報 . . . 本文を読む
さて、ここで再び当時の賢治の年譜を見直してみよう。それは以下のようなものであった。
昭和3年
・八月一〇日(金) 「文語詩篇」ノートに、「八月 疾ム」とあり。高橋武治あて手紙に八月一〇日から丁度四十日間熱と汗に苦しんだとあるので、この日からと推定する。…
・八月一一日(土) 「佐々木喜善日記」に賢治からの来信の記事がある。
・八月中旬 …菊池武雄が藤原嘉藤治の案内で羅須地人協会を訪れる。い . . . 本文を読む
菊池忠二氏はこの日のことを後日宮澤清六自身に直接訊いたという。
この件については、宮澤清六さんから確かめておく必要を感じていた。何故なら昭和七年六月二十二日付の中館武左衛門にあてた賢治の手紙下書きの一節に、「小生儀前年御目にかゝりし夏、気管支炎より肺肋膜炎を患ひ花巻の実家に運ばれ、九死に一生を得て……」と書かれているからである。
この手紙下書きによれば、「花巻の実家に運ばれ」とあり、宮澤家の . . . 本文を読む
一般には昭和3年8月10日病気のために実家に戻ったといわれている賢治だが、その際のことに関して菊池忠二氏は次のように述べている。
私がもっとも伊藤さんに聞いてみたかったのは、ここでの農耕生活が病気のために挫折した時、宮澤賢治はどのようにして豊沢町の実家へ帰ったのか、という点だった。それを尋ねると、伊藤さんはふっと遠くを眺めるような目つきをしてから、次のように語ってくれたのである。
「今でも覚 . . . 本文を読む
さて、通説としては賢治は昭和3年8月10日から「丁度四十日の間熱と汗に苦しみました」ということで、この日から賢治は豊沢町の実家に戻って病臥したということのようだが、少なくともその前々日の8月8日にはまだその病気の予兆はなかったようだ。
なんとなれば、「賢治年譜」に
・八月一一日(土) 「佐々木喜善日記」に賢治からの来信の記事がある。
とあるが、この手紙を賢治は下根子桜から出しているというこ . . . 本文を読む
過日、私は『金の星社』へ次のような問い合わせのメールを出した。
お聞きするところによりますと、御社は大正8年に童謡・童話雑誌『金の船』を発刊し、同11年に『金の星』とそれを改名して出版を続けていらっしゃったということですが、同誌に大正9年~10年頃宮澤賢治が投稿していたとか、掲載されたということはございませんでしょうか。
といいますのは、関登久也が次のようなことを『續 宮澤賢治素描』に書いて . . . 本文を読む
私は〝『旧校本全集』の頁入れ替え〟において、
『旧校本全集第十二巻(上)』のこの『「文語詩篇」ノート』に関しては〝頁の入れ替え〟が実は起こっていたので…と主張したが、入沢康夫先生からその誤りをご指摘いただきました。
入沢先生には深く感謝し、厚く御礼申し上げます。
また私が間違ったことを投稿してしまいましたために、筑摩書房様を始めとし、関係者の皆様方には大変ご迷惑をお掛けいたしましたことをこ . . . 本文を読む
たしかに、『旧校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)の540pをみれば、そこに次のような写真が二葉載っていて
【Fig.5『「文語詩篇」ノート』三七、三八頁の写真】
となっているから、その「三七頁」の右上隅の数字
「1928」
に注意すれば、1928年とは昭和3年のことなので
「文語詩篇」ノートに昭和3年「八月 疾ム」のメモ
と解釈できる。
ところが、『旧校本全集第十二巻( . . . 本文を読む
さて、「昭和3年の8月~11月頃」の賢治の動向を「新校本年譜」を元にして並べてみるとおおよそ以下のとおりになる。
昭和3年
・八月一〇日(金) 「文語詩篇」ノートに、「八月 疾ム」とあり。高橋武治あて手紙に八月一〇日から丁度四十日間熱と汗に苦しんだとあるので、この日からと推定する。…
・八月一一日(土) 「佐々木喜善日記」に賢治からの来信の記事がある。
・八月中旬 …菊池武雄が藤原嘉藤治の案 . . . 本文を読む
さて、澤里武治宛書簡「243」の中の一文
演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
にある「演習」とは、この手紙の日付は昭和3年9月23日だから、まさしく
昭和3年10月に岩手県下で大規模に行なわれた陸軍特別大演習
のことであろう。
この書簡の文面からは、まるで賢治はこの「演習」が終わるのを見計らったようにして下根子桜に戻る積もりだ、と最愛の教え子澤里武治に伝えて . . . 本文を読む
2月15日の下根子桜である。
《1 》(平成25年2月15日撮影)
《2 》(平成25年2月15日撮影)
《3 》(平成25年2月15日撮影)
《4 》(平成25年2月15日撮影)
《5 》(平成25年2月15日撮影)
《6 》(平成25年2月15日撮影)
《7 》(平成25年2月15日撮影)
《8 》(平成25年2月15日撮影)
《9 》(平成25年2月15日撮影)
続 . . . 本文を読む
昭和3年9月23日付澤里武治宛書簡「243」の内容は次のようなものである。
お手紙ありがたく拝見しました。八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。
演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へ . . . 本文を読む
今回から新たなカテゴリー〝昭和3年賢治自宅謹慎〟を設けた。
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『啄木 賢治 光太郎』の中に次のような記述があった。
しかし、労農党は昭和三年四月、日本共産党の外郭団体とみなされて解散命令を受けた。この間県支部では胆沢郡下の北上川護岸工事をめぐる賃金不払い事件を指導し、普選後初の県議選(同二年九月)総選挙(同三年二月)で横田忠 . . . 本文を読む
今回も名須川溢男著「宮沢賢治とその時代」より。
次のようなこともそこでは述べられていた。
大正時代のおわりごろより昭和のはじめにかけて、花城小学校などを中心に綴方教育がさかんであった。そして「種蒔く人々」や「文芸戦線」「ナップ」、「戦旗」などが、弾圧下に密かに読まれたりした。花巻の地は、当時詩・短歌などの文学愛好グループが多く、現状打開の若々しい息に燃えた青年たちによって、文学熱がさかんなと . . . 本文を読む
以前〝論文「賢治と労農党」〟において、次のような名須川溢男の論文の一部を引用させてもらった。
○小館長右衛門が語る――「私は……農民組合全国大会に県代表で出席したことから新聞社をやめさせられた。宮沢賢治さんは、事務所の保証人になったよ、さらに八重樫賢師君を通して毎月その運営費のようにして経済的な支援や激励をしてくれた。演説会などでソット私のポケットに激励のカンパをしてくれたのだった。なぜおもてに . . . 本文を読む