物見山登山口の駐車場に車を駐めて歩き出すと、
《1 シャク》(平成26年5日28日撮影)
《2 ハルザキヤマガラシ》(平成26年5日28日撮影)
《3 未だもって不明の例の低木に》(平成26年5日28日撮影)
《4 花が咲いていた》(平成26年5日28日撮影)
〈その後、友人からこれは「ドクウツギ」であると教わった〉
《5 サクラスミレ》(平成26年5日28日撮影)
《6 オオタチ . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》賢治の夢見たもの
日高見 猫十氏は同論考を次のように続けている。
☆賢治の夢見たもの
その「本統の百姓になる」ため、大正十五年三月31日付けで教師をやめた賢治は、翌日4月一日から、下根子桜にあった別宅(本来、祖父喜助が建てた別荘)にうつり、念願の独居自炊の生活を始める。
賢治のおかしいところは、ここで前日にちゃっかり岩手日報の取材を受けているところだ。自分で . . . 本文を読む
種山高原の「立石」のある草地に建てられた賢治の 「牧歌」の詩碑を見に行く。
それは、道の駅「ポラン」から「星座の森」に向かう途中の道路左手にある
《1 この案内板》(平成26年5日28日撮影)
の所から入れば良い。
《2 オオタチツボスミレ》(平成26年5日28日撮影)
《3 ニョイスミレ》(平成26年5日28日撮影)
《4 タチツボスミレ》(平成26年5日28日撮影)
《5 ミミナ . . . 本文を読む
物見山から俯瞰すると一面の黄色い絨毯が見えた。
《1 物見山頂上》(平成26年5日28日撮影)
《2 これがその黄色い絨毯である》(平成26年5日28日撮影)
こうなるとそこへ行かずばなるまい。
《3 どうやらこの辺りのようだ》(平成26年5日28日撮影)
《4 一面セイヨウタンポポだ》(平成26年5日28日撮影)
《5 黄色い絨毯はここだった》(平成26年5日28日撮影)
《6 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》「本統の百姓」志願
さて日高見 猫十氏は同論考において“☆「本統の百姓」志願”という項を立て、「昭和三年六月の不在」の謎解きのために3年ほど遡って賢治が花巻農学校学校を辞める一年ほど前の考察を次に行っている。具体的には大正14年の3通の書簡
4月13日付け杉山芳松宛、6月25日付け保阪嘉内宛、6月27日付け斉藤貞一宛
の中のいずれにもある「本統の百姓」とい . . . 本文を読む
前回種山ヶ原を訪ねた際に出逢ったサクラスミレはまだ蕾だった。さてその蕾はそろそろそれは咲いたであろうか。
まずは、そこへ行くまでに出逢った
《1 サクラスミレ》(平成26年5日28日撮影)
《2 》(平成26年5日28日撮影)
《3 》(平成26年5日28日撮影)
《4 》(平成26年5日28日撮影)
《5 》(平成26年5日28日撮影)
《6 》(平成26年5日28日撮影)
. . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》 この度、『北の文学』68号 文芸評論部門 優秀作品
日高見 猫十氏の文芸評論「宮澤賢治の昭和三年=「本統の百姓になる」夢の蹉跌=」
を読ませていただいた。著者ご自身も実際田畑を作っていらっしゃるということもあり、その経験と知識にも裏付けられた評論はとても説得力のあるものであった。
また、私自身も先般拙著『羅須地人協会の終焉-その真実-』において、賢治が . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》伊藤兄妹が花巻を訪れたのは秋
さて、では残った
(6)伊藤兄妹が花巻を訪れたのは大正15年の秋口であった。
についてであるが、萩原氏は
聞くところによれば、七雄氏とチヱが宮澤家を訪れた際(それは賢治が大島へ行く前々年の秋口の頃かという)清六氏が下根子桜の地人協会へ賢治を迎えに行ったという。その折、座敷に座っていたきれいな女性が「今日は」と微笑しながら挨 . . . 本文を読む
種山では今、クリンソウが花盛りだ。
《1 》(平成26年5日28日撮影)
《2 》(平成26年5日28日撮影)
《3 》(平成26年5日28日撮影)
《4 》(平成26年5日28日撮影)
《5 》(平成26年5日28日撮影)
《6 》(平成26年5日28日撮影)
《7 》(平成26年5日28日撮影)
《8 》(平成26年5日28日撮影)
《9 》(平成26年5日28日撮影)
. . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》いくつかの疑問
さて、萩原氏の論考“「三原三部」考”によれば、
(1)伊藤七雄は大正15年夏から三原大島に来て療養していた。
(2)伊藤ちゑは大正15年に双葉保育園を辞めて三原大島で兄七雄の看病にあたっていた。
(3)七雄は病状がその後全快したので帰京した(昭和三年頃)。
(4)昭和5年当時七雄は大島で療養していた。
(5)昭和6年には七雄は大島に来ていたし、同 . . . 本文を読む
それでは今回は、戸塚森森林公園で出逢ったホタルカズラ以外の報告である。
《1 アヤメ》(平成26年5日26日撮影)
《2 フデリンドウ》(平成26年5日26日撮影)
《3 ヒメハギ》(平成26年5日26日撮影)
《4 スミレ》(平成26年5日26日撮影)
《5 オオタチツボスミレ》(平成26年5日26日撮影)
《6 ヤマ?オダマキ》(平成26年5日26日撮影)
《7 エゾタンポポ》 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》萩原氏の判断
前掲書において萩原氏は次のようなことも述べている。
チヱは、地元で育った後、大正一三年から同一五年まで双葉保育園(元双葉幼稚園)に保母として勤務していた。…(略)…そこに大正一五年まで勤めていたとあるのは、兄七雄の看病の為、休職したのである。というのは同『八十年史』には昭和三年~四年の在職期間が記されており、双葉保育園に七雄氏の死後再び戻っていた . . . 本文を読む
友達から石鳥谷の戸塚森森林公園へ行こうと誘われた。黙ってついて行った。
《1 》(平成26年5日26日撮影)
《2 》(平成26年5日26日撮影)
《3 》(平成26年5日26日撮影)
《4 》(平成26年5日26日撮影)
《5 》(平成26年5日26日撮影)
《6 》(平成26年5日26日撮影)
《7 》(平成26年5日26日撮影)
《8 》(平成26年5日26日撮影)
たし . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》伊藤チヱとの見合いのためではなかった
注文していた本『宮沢賢治「修羅」への旅』が手許に届いた。その中にはたしかに“「三原三部」考”という節があり、それは次のようにして始まっていた。
「大島・『三原三部』」とは、賢治の最後の「旅」と言って良い。従来は、伊藤チヱとの見合いということになっている。それは正しいことであるが、「旅」全体を考察すると、それだけでは割り切れ . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》『宮沢賢治の「羅須地人協会」 賢治とモリスの館十周年を迎えて』
過日、大内 秀明様より『宮沢賢治の「羅須地人協会」 賢治とモリスの館十周年を迎えて』(仙台・羅須地人協会 代表 大内秀明)をご恵与頂いた。その内容については、目次が
目次
序.「賢治とモリスの館」十周年を迎えました!
1.「仙台・羅須地人協会」発足
2.賢治・羅須地人協会が目指したもの
3 . . . 本文を読む