みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

「地上の賢治」(後編)

2016-03-02 08:30:00 | 「不羈奔放な賢治」
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 そしてそもそも、吉本や伊藤が前述しているように賢治の魅力はそんなところにあるはずではないし、同じようにそこに価値や意味があるとも思えない。そんなことよりも例えば、後々賢治が「羅須地人協会時代」の己を振り返って、前掲したように「あすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので」と厳しく自省したことにこそ大きな価値があるのであり、このこと . . . 本文を読む
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「地上の賢治」(前編)

2016-03-01 08:30:00 | 「不羈奔放な賢治」
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》「地上の賢治」の性向は  さて、私から見れば「不羈奔放」だった「羅須地人協会時代」の賢治だが、当時の賢治の生身はもちろん地上を歩いていたわけで、それが「地上の賢治」である。つまり、「地上の賢治」とは、当時の賢治は地上をどのように歩き廻り、何を為し、何を為さなかったのかということや、どこで転びどこでまた立ち上がったのかとか、そしてそれ以前にそもそもその頃の賢治 . . . 本文を読む
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「不羈奔放」な二人の賢治

2016-02-27 08:30:00 | 「不羈奔放な賢治」
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 かつての私は、「羅須地人協会時代」の賢治は「己に対してはストイックで、貧しい農民のために献身した」とばかり思い込んでいたのだが、ここまで実証的に調べてみた限り、客観的には同時代に貧しい農民たちのために如何ほどのことを為し、如何様に献身したかというとそれらはかつての私が抱いていた賢治像からは程遠いものであった。なぜならば、そのよう賢治の具体的な実践が殆ど見出 . . . 本文を読む
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下根子桜からの撤退にも

2016-02-24 08:30:00 | 「不羈奔放な賢治」
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》「演習」とはどんな演習か  さて賢治が昭和3年8月実家に戻った理由についてだが、 心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。が通説だという。ところが、『阿部晁の家政日誌』によって天気や気温を、当時の新聞報道等によって稲作事情を、さらには賢治の健康 . . . 本文を読む
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農繁期の上京にも

2016-02-23 08:30:00 | 「不羈奔放な賢治」
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》昭和3年6月の上京  昭和3年の6月賢治は上京した。そこでまずは、昭和3年6月分について賢治の営為と詠んだ詩等を『新校本年譜』から以下に抜き出してみると、 六月七日(木) 水産物調査、浮世絵展鑑賞、伊豆大島行きの目的をもって花巻駅発。仙台にて「東北産業博覧会」見学。東北大学見学、古本屋で浮世絵を漁る。書簡235。 六月八日(金) 早朝水戸着。偕楽園見学。夕方 . . . 本文を読む
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「三か月間」の滞京にも(後編)

2016-02-22 08:30:00 | 「不羈奔放な賢治」
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 さて、澤里武治は  確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、猫村に於て農民の指導は勿論の事、御自身としても凡ゆる学問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のビショみぞれの降る寒い日でした。 「澤里君、セロを持つて上京して来る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滯京する、俺のこの命懸けの修業が、結実するかどうかは解らな . . . 本文を読む
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「三か月間」の滞京にも(前編)

2016-02-21 08:30:00 | 「不羈奔放な賢治」
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》あり得ない牽強付会   なんと、『新校本年譜』の大正15年において、   一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。となっていて、  関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改め . . . 本文を読む
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楽団の解散の仕方にも?

2016-02-20 08:30:00 | 「不羈奔放な賢治」
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》  さて、一般には賢治は昭和2年2月1日付の『岩手日報』の新聞報道を受けて賢治はどうしたかというと、『新校本年譜』に  協会員伊藤克己によると、賢治は「其の晩新聞を見せて重い口調で誤解を招いては済まない」と言いオーケストラを一時解散し、集会も不定期になったという。誤解云々は思想問題を指すもので、社会主義教育を行っているという風評もあり…(略)…。       . . . 本文を読む
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チェロの購入にも

2016-02-19 08:30:00 | 「不羈奔放な賢治」
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》  例えば、『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)の口絵に載っているからわかることだが、賢治のチェロには、その胴の中に    1926.K.M. というサインがある。「1926」とはもちろん1926年のことだろうし、「K.M.」とはKennji Miyazawa のK.M.であることは間違いなかろう。したがってこのチェロは1926年(大正15年)に . . . 本文を読む
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白鳥省吾訪問ドタキャンにも?

2016-02-18 08:30:00 | 「不羈奔放な賢治」
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》  筑摩書房のいわゆる「旧校本年譜」でも『新校本年譜』でもその「大正15年7月25日」の中に、  賢治も承諾の返事を出していたが、この日断わりの使いを出す。使者は下根子桜の家に寝泊りしていた千葉恭で午後六時ごろ講演会会場の仏教会館で白鳥省吾にその旨を伝える。という記述がある。では、この出典は何か。それは千葉恭の次の追想「宮澤先生を追つて㈢」とい . . . 本文を読む
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高級蓄音機の購入からも

2016-02-17 08:30:00 | 「不羈奔放な賢治」
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》貧しかった食生活  下根子桜の宮澤家別宅の西隣は伊藤忠一の家だったが、そのさらに西隣は伊藤清の家だ。その伊藤清は「羅須地人協会時代」の賢治の食事に関して、   その夕食がまた極度に質素なものべ蕪などを土鍋でクツクツと煮て、その一品料理が夕飯のお采にされました。とか、   お采のない時はトマトで夕食を間に合わせ、               と追想していた。 . . . 本文を読む
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突然の花巻農学校の辞め方にも

2016-02-16 08:30:00 | 「不羈奔放な賢治」
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 今にして振り返って見れば、賢治の花巻農学校の辞め方にも「不羈奔放」だったことを彷彿とさせるものがある。 年度途中の辞職  萬田務氏は『孤高の詩人 宮沢賢治』の中で、  ところが一方、十二月二十三日(頃)になると、「ご親切まことに辱けないのですがいまはほかのことで頭がいっぱいですからしばらくゆるして下さいませんか。学校をやめて一月から東京へ出る筈だったので . . . 本文を読む
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もしかすると「不羈奔放?」と思った最初

2016-02-15 08:30:00 | 「不羈奔放な賢治」
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 まず前もってお断りしておきたいことがある。私がこのシリーズで述べたいことは、     どうやら、少なくとも「羅須地人協会時代」の賢治は不羈奔放だった。 ということであり、何も賢治を不羈奔放だったからといって貶めようとしているわけでもなければ、その作品を貶そうとしているわけではないということである。あくまでも「賢治研究」のさらなる発展のためにである。  とい . . . 本文を読む
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『「不羈奔放」だった地上の賢治』の目次

2016-02-14 11:30:00 | 「不羈奔放な賢治」
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》『「不羈奔放」だった地上の賢治』の目次 「不羈奔放」だったからこそ賢治 もしかすると「不羈奔放?」と思った最初 突然の花巻農学校の辞め方にも 高級蓄音機の購入からも 白鳥省吾訪問ドタキャンにも? チェロの購入にも 楽団の解散の仕方にも? 「三か月間」の滞京にも(前編) 「三か月間」の滞京にも(後編) 農繁期の上京にも 下根子桜からの撤退にも 「不羈奔放」な二 . . . 本文を読む
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「不羈奔放」だったからこそ賢治

2016-02-14 08:30:00 | 「不羈奔放な賢治」
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 約足かけ10年ほどかけて、素人でしかも理系人間の私が、恩師のある言葉に背中を押さながら「羅須地人協会時代」の宮澤賢治のことを中心に調べてきて、やっとある結論に達した。それは、  宮澤賢治は不羈奔放だった。である。  かつて若かりし頃の私は、尊敬する人物はと問われた場合には間髪をいれず、   それは宮澤賢治です。なぜならば、破滅的で微分的な生き方をした啄木 . . . 本文を読む
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