《1 》(2024年4月2日撮影)
《2 光井》(2024年4月2日撮影)
《3 》(2024年4月2日撮影)
《4 坂を登り》(2024年4月2日撮影)
《5 平坦な道を進めば》(2024年4月2日撮影)
《6 智惠子展望台》(2024年4月2日撮影)
《7 》(2024年4月2日撮影)
《8 展望》(2024年4月2日撮影)
《9 坂を下れば》(2024年4月2日撮影)
《1 . . . 本文を読む
《1 ヤツカ》(2024年4月2日撮影)
《2 》(2024年4月2日撮影)
高村光太郎関連の著作を見ていると、「ヤツカ」がしばしば登場するのだがそれはあのハンノキ、つまりこの木のことをいうのだそうだ。
ちなみに、光太郎は
「このヤツカの林は、岩手の美の概念を表徴していますね。僕の見た目では、岩手は日本の美の中心地だとも思うのです」とも言っていたという。
《3 ヤツカの雄花と実》(202 . . . 本文を読む
《1 キクザキイチゲ》(2024年4月2日撮影)
《2 》(2024年4月2日撮影)
《3 》(2024年4月2日撮影)
《4 ミズバショウ》(2024年4月2日撮影)
《5 カタクリ》(2024年4月2日撮影)
《6 ばっけ》(2024年4月2日撮影)
光太郎の日記によれば、光太郎はばっけを結構食べていたようだ。
《7 ニリンソウかな》(2024年4月2日撮影)
《8 オオイヌノ . . . 本文を読む
《1 この奥の山があの「山口山」なのかな?》(2024年4月2日撮影)
《2 》(2024年4月2日撮影)
《3 サンショウウオの卵》(2024年4月2日撮影)
《4 光太郎が父光雲の十三回忌の際に播いた栗の木の切り株らしい》(2024年4月2日撮影)
《5 》(2024年4月2日撮影)
《6 佐藤隆房の碑》(2024年4月2日撮影)
《7 旧高村記念館》(2024年4月2日撮影)
. . . 本文を読む
《1 》(2024年4月2日撮影)
《2 》(2024年4月2日撮影)
《3 》(2024年4月2日撮影)
《4 》(2024年4月2日撮影)
《5 》(2024年4月2日撮影)
《6 》(2024年4月2日撮影)
《7 》(2024年4月2日撮影)
《8 》(2024年4月2日撮影)
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ある著名な賢治研究者が私(鈴 . . . 本文を読む
生まれて初めて「高村光太郎詩碑前祭」に参加した。
そしてつくづく納得させられたことは、何の説明が無くとも、光太郎が如何に山口の人たちから慕われ、愛され続けてきたのかということだ。それも、老若男女から。
《1 》(2024年4月2日撮影)
《2 開会》(2024年4月2日撮影)
《3 献花》(2024年4月2日撮影)
《4 「詩集」》(2024年4月2日撮影)
《5 「詩の朗読会」》(2 . . . 本文を読む
《『随筆 独居自炊』(高村光太郎著、竜星閣 )》
前回私は、
そしてそうだ、光太郎はまさに「ヨクミキキシワカリ」という心構えを常に持っていたのだということに気付いた。と述べた。
そこで、あの〔雨ニモマケズ〕
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジ . . . 本文を読む
「山の春」はこう続く。
藥草のオーレンが咲いたり、又ローバイの木に黄いろい木質の花がさいたりしているうちに、今度は一度にどつとゼンマイやワラビが出る。ゼンマイの方が少し早く、白い綿帽子をかぶつて山の南側にぞくぞくと生える。これは干ゼンマイにするといいのだが干し方がむつかしいし、山奥のでないと干すと糸のようにほそくなる。ワラビは山の雜草で、いちめんに出て取るのにまに合わないほどである。とつてす . . . 本文を読む
高村光太郎が愛してやまない山口山が、どの山かも相変わらず特定出来ずにいる私だが、光太郎は「山の春」という作品を書いていて、その「山の春」のは以下のようなものであった。
山の春
ほんとうは、三月にはまだ山の春は來ない。三月春分の日というのに、山の小屋のまわりには雪がいつぱいある。雪がほんとに消えるのは五月の中ほどである。つまり、それまで山々にかぶさっていた、氷のように冷たい空氣が、五月頃に . . . 本文を読む
《『随筆 独居自炊』(高村光太郎著、竜星閣 )》
さて、前回私は、
この変化の切っ掛けはやはり高村光太郎の随筆『獨居自炊』であったという蓋然性が極めて高いということだ。と述べたが、同時にあの入沢氏からのご返事(平成23年12月27日付け)、
……これまでほとんど無視されていた千葉恭氏に、御著によって、初めて光が当たりました。伝記研究上で、画期的な業績と存じます。それにしても、貴兄もお書きにな . . . 本文を読む
《『随筆 独居自炊』(高村光太郎著、竜星閣 )》
ところが、高村光太郎がそのものズバリのタイトルの『獨居自炊』という随筆集を昭和26年6月に出版していたことを私は知った。そして、光太郎は昭和20年花巻に移り住んでいたから、いわゆる「自己流謫」していた時の太田村山口での出来事などを綴った随筆集かと当初理解した。
ちなみに、この随筆集の巻頭を飾るのが、まさに「獨居自炊」という随筆であった。
. . . 本文を読む
実は私にとって、「独居自炊」といえば宮澤賢治の「下根子桜時代」だったのだが、『あれっ?』と思った。それは退職後賢治のことを少しく調べているうちに、幾つかの賢治関連の著作等に接して、賢治の「下根子桜時代」を〝独居自炊〟と昔から修辞していたわけではないのではなかろうか、と訝られからだ。
それは、例えば下掲のような資料によって、賢治は千葉恭と約半年間?寝食を共にしていたということをある時知ってしま . . . 本文を読む
〈『山口と高村光太郎先生』(浅沼政規著、(財)高村記念会))〉
『山口と高村光太郎先生』にはこんなことも述べられていた。
昭和二十七年十月、青森県の依嘱を受け、十和田湖畔に建立する「十和田湖開発功労記念碑」制作のため、東京に行っておられた先生は、予定の一カ年を待たずに完成され、二十八年十月二十一日の除幕式に臨席し、その一カ月後の十一月下旬、花巻にお帰りになりました。
山口の人々と一年ぶりに挨 . . . 本文を読む
《『高村光太郎山居七年』》(佐藤隆房著、筑摩書房)
『高村光太郎山居七年』にはこんなことも載っていた。
一五四 壮行会
先生が東京に出る準備が始まった頃、山口の人たちは、先生の前途を祝うため壮行の会を開きました。 場所は広い座敷のある戸来九左衛門さん宅とし、午後三時頃からの会で、
山口部落から二十人以上の人が集まり、役場の方からも助役の上田盾夫さんや、議長の清水賢竜さん等が集まりました。 . . . 本文を読む
《『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)》
先の投稿〝『典型』が読売文学賞に〟において私は、
当時の光太郎は太田村の高額所得者だったということも仄聞した。
と述べたが、やはりそれは事実だったようだ。というのは、『啄木 賢治 光太郎』には、折居弥三郎のこんな追想も載っていたからだ。
高村さんが山口に居た当時、私は太田役場に勤めていて、財務係で税金関係の仕事をしていたんです。高村さんは . . . 本文を読む