みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

『高橋末治日記』

2015-08-09 08:30:00 | ・大正15年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 高橋末治は当時日記を書いていたことは知られていて、例えば名須川溢男の論文「賢治と労農党」において、  高橋末治(花巻市堰田、明治三十年生)は「組内の人六人宮沢先生に行き地人会を始メたり我等も会員と相成る。」(昭和二年二月四日)と日記につけている。               と述べている。そこでこの日記を見せてもらいたいものだと思ってある時、私は鍋倉付近を . . . 本文を読む
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大干魃の赤石村等に陸続と届く義捐

2015-07-07 09:00:00 | ・大正15年の賢治
《創られた賢治から愛すべき賢治に》 さて大正15年は12月頃になると『岩手日報』の紙面は連日のように大干魃への義捐に関する報道が賑わうようになる。 仙台から栃木から  【Fig.1 大正15年12月7日付 岩手日報】   村の子供達に やつて下さい 紫波の旱害罹災地へ 人情味豊かな贈物 (花巻)5日仙台市東三番丁中村産婆学校生徒佐久間ハツ(十九)さんから紫波郡赤石村長下河原菊治氏宛一封の手紙に . . . 本文を読む
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「大正15年の賢治」の総括

2015-05-16 09:00:00 | ・大正15年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》「大正15年の賢治」の総括はできたものの  さて、巷間  羅須地人協会時代の賢治は貧しい農民達のために己を犠牲にしながらも献身的に活動した。……①といわれていると私は今まで思ってきた。  一方、これで大正15年の賢治の総体のあらましを調べることができた。その結果、「大正15年の賢治」の総括がもちろんできた。  「羅須地人協会時代」のうちの大正15年をここまで . . . 本文を読む
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この頃賢治の心は古里になく

2015-05-15 09:00:00 | ・大正15年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 12月に入り、ますますこの年の旱害被害の深刻さが日に日に明らかとなり、特に隣の紫波郡内の赤石村、不動村、紫波村などが未曾有の旱害罹災で多くの農家が惨状の極みにあるという報道がなされるとともに、陸続と差し伸べられる義捐の手が連日のように『岩手日報』等で報道されていたわけだが、賢治はこのことを知ってか知らずか、実質12月中はずっと滞京していたことになる。  そ . . . 本文を読む
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賢治「二〇〇円」の無心の意味

2015-05-14 09:00:00 | ・大正15年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》賢治の最高級チェロ一式は200円程度  大正15年12月2日の「現通説」は上京の際に「賢治はチェロを持って、澤里武治一人に見送られて上京した」となっているが、このことは裏付けがなされていることではなく、それは昭和2年の11月頃のことであると言えるということを先に私は実証した。つまり、大正15年12月の上京時に賢治は「チェロ」 を携えていたという「現通説」は裏 . . . 本文を読む
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約一ヶ月の滞京の目的は何だったのか

2015-05-13 09:00:00 | ・大正15年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》その頃賢治一体何をしていたのか  さて、地元の新聞は毎日のように「旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝいた」時に、賢治は古里岩手を離れて東京で一体何をして、何を考えていたのか。まずは上京後の賢治を『新校本年譜』で見直してみると、 一二月三日(金) 着京し、神田錦町三丁目一九番地、上州屋の二階六畳に下宿を決め、勉強の手筈もととのえる。 一二月四日(土) 前日 . . . 本文を読む
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ある後輩の12月25日赤石村慰問

2015-05-12 09:00:00 | ・大正15年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》賢治の後輩松田甚次郎  いわゆる「賢治精神」を実践したといわれている、盛岡高等農林の賢治の後輩である松田甚次郎は、かつての大ベストセラー『土に叫ぶ』の巻頭で次のように述べている。     一 恩師宮澤賢治先生 先生の訓へ 昭和二年三月盛岡高農を卒業して帰郷する喜びにひたつてゐる頃、毎日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝいた。或る日私は友 . . . 本文を読む
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改竄されていた澤里武治の証言

2015-05-11 09:00:00 | ・大正15年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》矛盾のある『宮沢賢治物語』所収「セロ」  さて、前掲した (2) 『宮沢賢治物語』(昭和32年)所収の「セロ」   セロ     澤里武治氏からきいた話  どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。その前年の十二月十二日のころには、  「上京、タイピスト学校において…(投稿者略)…言語問 . . . 本文を読む
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『新校本年譜』12月2日の「あやかし」

2015-05-10 09:00:00 | ・大正15年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》初出に遡る  そこで、『賢治随聞』より前に発行された関登久也の著書等を時間の流れを遡って調べてみると、この時の上京に関する澤里武治の証言としては次のようなものが揚げられるし、それ以外のものはないこともわかる。  まず、『賢治随聞』の前に発行されてものとしては (2) 『宮沢賢治物語』(昭和32年)   セロ     澤里武治氏からきいた話  どう考えても昭和 . . . 本文を読む
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牽強付会な資料の使い方

2015-05-09 09:00:00 | ・大正15年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》12月2日の根拠  さて、賢治は11月29日に最初の「羅須地人協会の講義」を、そして一日おいてこれまた最初の「定期の集り」を12月1日に開き、そしてその翌日の12月2日に上京したということになっているようだが、なぜこの日にちが特定できたのだろうか。協会員の一人伊藤忠一は当時日記を付けていた可能性があるのでそれによることが考えられるが、管見故かこの日にちが特定 . . . 本文を読む
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ひょんたな「おせり」は上京費用捻出のため

2015-05-08 09:00:00 | ・大正15年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》大正15年12月の賢治  では大正15年最後の月、12月における賢治の営為と詠んだ詩を『新校本年譜』から以下に抜き出してみると、おおよそ 一二月一日(水) この日、一一月二二日付案内による定期の集りが開催されたと見られる。 一二月二日(木) セロを持ち上京のため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれ . . . 本文を読む
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羅須地人協会講義始まる

2015-05-07 09:00:00 | ・大正15年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 いよいよ待ちに待っていた羅須地人協会講義始まったようだ。具体的には、大正15年11月29日に第一回目の羅須地人協会の講義が行われたという。『新校本年譜』によれば 一一月二十九日(月) 二二日付案内による羅須地人協会講義、午前九時より三時間。このとき「肥培原理習得上必須ナ物質ノ名称」の謄写版刷りを配布。               とある。ちなみにその時の配 . . . 本文を読む
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上京費用捻出のため高級蓄音器売却

2015-05-06 09:00:00 | ・大正15年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 この年の11月頃に賢治は自分の持っていた立派な蓄音器を千葉恭に売りに行かせていたと考えられる。  巷間、賢治が下根子桜に住んでいたいわば「下根子桜時代」の2年4ヶ月は、「独居自炊」だったと言われているがそうとばかりも言えなさそうで、この時代の賢治はかなりの長期間、もしかすると下根子桜時代の約三分の一の長きにわたって千葉恭という人物と一緒に暮らしていたという . . . 本文を読む
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旱害報道と賢治の認識とのずれ

2015-05-05 09:00:00 | ・大正15年の賢治
                                            【Fig.1 大正15年11月7日付『岩手日報』】  しかし、先の「案内状」に私は実は幾ばく不安を抱いてしまう。 11月の旱害関連報道  その説明のための準備として、11月に入ってからの『岩手日報』に載った旱害関連報道を以下にリストアップしてみる。まずは、11月に入ってからの最初の記事はこのブログの最 . . . 本文を読む
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本格的に賢治の取り組みが始まったか

2015-05-04 09:00:00 | ・大正15年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》大正15年11月の賢治  結局はこの10月迄に限って言えば、あれだけ意気込んで下根子桜に移り住んだ賢治らしさも、巷間いわれている「貧しい農民のために己を犠牲にしてまでも献身したと言われている賢治」あるいは「氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹りと言われ続けてきた賢治」もどうも見えてこなかった。  もちろん、明 . . . 本文を読む
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