まこの時間

毎日の生活の中の小さな癒しと、笑いを求めて。

株主総会

2016-06-15 | 暮らし

株式会社としての一大イベントである株主総会の時期が来た。6月末に行う会社が多い。「議決権行使書」が、送られてくると、機械的に「賛」に〇をつけて投函するが、ネットで議決権行使を行うところがあって、これは便利である。

それにしても、いつの間にか株を持たされていて困ったのが、生命保険会社の株だ。本人の意思にかかわらず株を持ったので、移行や相続の時にぼんやり屋のわたしはつまづいたのである。もちろん、株主になって損はないが、自動的になるときはその時に興味がないので、保険会社の方に説明をうけても「よきにはからえ」状態だったので、その後の自分が困るのである。

招集ご通知を見ても「損益計算書」や「貸借対照表」の見方も分からないし、桁が百万となると千億の上はなんだ・・と金額の想像がつかなくなる。しかし、少し変わってきたなあと思うのは、女性の取締役が登場する会社が増えてきたことだ。

すごいなあと思う。履歴をみると大学教授や弁護士であったりする。世の中には素晴らしい女性がいるものだ。いや、わたしの周りにもいる。頑張っている人を見ると自身もがんばろという気持ちになる。この方たちは教養が溢れているのだ。

先日、ポットを洗浄しようとして、沸騰しているときに洗浄剤を入れたら、ぼこぼこ泡が噴き出て湯が床にあふれてしまった。「あの頃ぼくらはあほでした」と、東野圭吾が学生時代の頃を書いた本があるが、大抵アホは若気のいたりだったりする。「おいらはいつまでも アホですわ」と、教養は溢れさせられないが笑いは溢れた。

がはは・・何の話だったっけ・・


本買取

2016-06-15 | 暮らし

427冊・点で、3659円だった。当初、殿の本を少し整理しようとしたが、なかなか思い入れが伝わってきて選択しにくいので、我が家全般を整理した。

よく言う「親の家をゴミ箱にするな」で、ある。娘たちがいらないと言って残していったCDは150枚あった。コミックは、バカボンド20冊連番帯付き。その他43冊。殿の本は文庫本104冊、単行本79冊。それ他合わせて427点である。

本に関しては、古いのであまり値がつかなかったのではないかと思う。それでも、買取の手続きをネットですると段ボールを5箱送ってくれて、それに詰め込んだら宅急便の方が送付状を持って来てくれるので、引き渡すだけである。

本来、紙ごみになるかもしれないのに多少の価格がついて良かった。お金はゆうちょに振り込まれる。これは、作業代のようなものと考えるとそんなものかもしれない。

なんでも買うときは高いが、売ろうとすると安いのである。


レッドロビン

2016-06-13 | 暮らし

うちの前の生垣のレッドロビンが、日々赤い芽を伸ばし、刈っても刈っても追いつかない。ついに、のこぎりで目の高さまで切り始めた。

枝と枝がけんかしているところを、ごめんね、ごめんね。と、ごりごり切りながら、大丈夫かなあと心配になるが、心配ご無用。なかなか生命力のある木である。この木と戯れていると元気になる。しかし、切り取った枝を捨てるのが大変なのである。

 


遺骨について

2016-06-13 | 暮らし

献体した伯父の遺骨が返されるまでに、約4年(正確には3年9か月だが)かかった。これは長すぎると思う。長かったということは、ご遺体がたくさんあったのだろうか。

故人が若い人であれば遺族は若いが、高齢であるとその子供も年をとるのである。もちろん、いろいろな事情があるので、いちがいには言えないが、今回はやはり従兄が具合が悪くなって引き取りに行けなくなったということが問題だった。奥さんも体調が悪く、娘である従姉が引き取りにきたのだが、結局、遺骨は空き家の仏壇にしばらく置くことになった。そこには、伯母の遺骨も置いたままになっている。きっと、父親の遺骨が戻ってから墓に入れようと思っていたのではないかと思うが、寝たきりになった従兄には確かめようがない。

墓に入れるにも今から墓を守る人がいない。奈良の息子は病気、その娘は奈良に嫁いだ。なので、お寺に預かってもらうというのが良いのではないかということになった。

墓のこと、遺骨のことというのは、若くて元気な時には考えが及ばない。子供が都会に出て独り立ちすることは、親としては止められない。何とかして消滅都市から抜け出さなくてはならない。若い人がどんどん都会で就職してしまうからだ。

他人事ではなく、我が家も私が入ったらもうお墓に入る者はいないのである。ついでに言うならば、実家の両親も弟が愛知県で所帯を持ったので、墓守りはわたしがすることになるのだ。わたしは地元に留まったのでまだよいが。

父は「生きている者の生活が大事だから・・」と、従姉に言っていた。また、世の無常を説いていた。自分で「坊主の説教みたいになったんなあ。」と、言っていたが、久しぶりに、父の話に耳を傾けた。いつもは、足が痛いとか、手が震えるとか訴えるばかりなので、今回は辻説法を素直に聞いた。

 


献体

2016-06-12 | 暮らし

父の兄、すなわち私の伯父は2012年9月、90歳で亡くなった。そして遺骨が今返される。

伯父は献体したのであった。本人の意思で金大へ献体を申し込んであった。葬儀の後、金沢大学医学部の車が迎えに来て、皆が見送るときに「感謝状」を、読み上げて遺体を連れて行った。遺族、親族は葬儀場の玄関で別れてすぐ中陰の会場へ向かった。別れの儀式が中途半端になったような感じだが、伯父の献体という勇気に尊敬の念があった。

4年経った。金大からお知らせが来て、本来、本家の長男である従兄が遺骨を貰い受けに行くところ、今年に入ってから具合が悪くて入院しているので、大阪へ嫁に行った従姉から相談があったので、土曜に車で一緒に行くことを約束した。金曜に従姉を迎えに行って、我が家に泊まってもらった。従兄は奈良で所帯を持ち、従姉は大阪へ嫁に行き、伯母は伯父の後を追うように3か月後に亡くなったので、本家は空き家になり水道も電気も止めてある。

さて、金沢大学病院へは4年間通っている私だが、十全講堂という講堂の場所を知らない。車で行くと、「合同慰霊祭」の看板があって、駐車場から案内の方が丁寧に誘導してくれて、講堂前の駐車場に着いた。喪服を着た学生が案内してくれて、講堂はコンサートホールのようになっていて、壇上の祭壇には26体の遺骨が並んでいた。

遺族席は前方で、喪服の人や黒めの服を着た人たちで埋められた。

開会の挨拶の次に献花が行われ、遺族の名前を呼ばれると白い菊を持って遺族一同は壇に上がって次々と献花をする。次に看護師や学生、関係者一同の方々も献花台に花をたむける。

その後、学生代表の感謝の言葉があり「解剖は欠かせない医学を学ぶ上で大切であること。御遺体にメスを入れる時の罪悪感と学びの使命と畏敬の念を感じたこと。人の身体の神秘を学ぶこと。良い医者になることを誓うこと。」学生の言葉は、胸に響き、改めて献体の大切さと、医学への貢献を思う。遺族との別れを思うとどうかとか思ったことが少し違う気持ちになってくる。しかし、女性である自分はその肉体を提供する勇気があるだろうかと考える。

26人の遺骨を、ひとりひとり遺族の代表が壇上へあがってもらい受ける。その時、女性は女性の学生が、祭壇から遺骨を降ろすのであるが、女性が6,7名いることに驚いた。最後に代表の先生のご挨拶があり、その後、別のホールで食事をした。精進料理だった。従姉が引き渡しの書類手続きをしている間に、部屋へ先に入るよう促され、遺骨をテーブルに置き、用意されている風呂敷に包む。

食事後は、卯辰山までバスが用意され希望者は慰霊碑まで行って、そのまま金沢駅まで送ってもらえるらしい。わたしたちは、そこまで行かず車で帰宅。父の病院へ行って従姉と報告に行く。

 

 


粉骨砕身

2016-06-07 | 暮らし

粉骨砕身であるならば、砕け散って辞任しなくては都民の皆さんの腹は納まらないのでは?

「適切ではないが、違法性はない。」第三者の弁。これって、横領とは違うかもしれないけれど。違法ではないとは言うものの。自分のお金も人のお金も訳が分からなくなるなど、明らかに常識外れだと思う。その第三者も怪しい。もうひとり第三者の第三者を登場させてもらわなくては。

彼はどこで人生を間違ったのだろう。下品な言い方になるが、こういうことをする人を「くそ野郎」とか言う。この人は何故都民に頭を下げないのだろう。自分の非を認めないとは。

「糞骨砕身」と、書くのかもしれない。

 


こんな会社辞めてやる

2016-06-06 | 暮らし

棚を整理していたら、昔のメモがはさんであった。誰か宛てに書いて誰にも見せなかったものだ。

『主人がぽろっと弱音を吐きました。30年一緒にいて始めてです。社長と副社長にかみついたので、役員である自分は首になるかもしれないと。ついこの間まで、上の決めたことに従うのは当たり前だろとわたしに言っていたのに。

「宝くじ当たったらやめてやる。」とか、「ふたりでソバ屋でもやるか。」とか、そばも打てないくせに、自分が蕎麦が好きだからとはいえ、辞めるなどと言ったことなかったのに、おまけにその台詞は、わたしが時折言っていて、笑われていたことでした。

広島に営業の研修に何回か出かけていたわたしは、「辞めた後、何が出来るかうちたてられんで、簡単に辞めるというのはいかんじゃろ。」と、広島弁になっていました。

「それに、調理師の免許を持っているのは、わたしじゃけん、わたしが店長じゃけんね。」と、何で広島弁なんやろ、あはは・・と、茶化しました。夫婦であっても見えない部分は分かりません。特に、会社のことは。できることは、「笑って、笑って」でした。広島出張で目についた団扇を買って帰りました。猫の絵に「毎日の中で一番むだに過ごした日は、笑わなかった日です。」と、書いてあったからです。』

ということを書いたのを忘れていた。そういえば、バス事故が多かった時があったなあ。テレビ出演していたなあ。頭を下げていたので、おとうさんは頭のてっぺんで仕事してるって子供に言った。新聞に写っている写真は、社長と並んで頭をさげていたっけ。白髪頭で禿げていなくて良かったなあと、笑い事ではないのに。その頃、癌が芽生えたのでは?わたしといるときは、殆ど笑っていた。けんかもしなかった。映画や落語を観て楽しんでいたのは、現実から逃げたかったからだろうか。

それにしても、あの団扇はどこへいったのだろう。


バーベキューにたどり着くまで

2016-06-06 | 暮らし

日曜、朝8時から町内の「河川愛護及び美化」(早い話が草刈り)に行く。川沿いを八号線までずっと歩きながら、追い越し追い越され草を刈っていくのである。女性はわたしを含めて5人だけだった。鎌をふるう手はだんだんしびれてくる。両手で刈るが葛の蔓も伸びていて、お嬢様育ちの私には重労働である。おまけに、いつもの年より進み方が遅く、家へ帰ったら10時だった。風呂に入り、洗濯を乾して大急ぎで出かける準備をする。

今日は山代温泉のしょうぶ湯祭りで、3年生が神輿と踊りを踊るので見に行く約束をしていた。子供たちが「先生、見にきて、手ぇふってや。」と、言ってコースのお知らせを見せてくれたのだ。「行けたらいくね。」と、言う返事は「行けない。」と、言うことになるので「行くよー。」と、返事をしたのでこの約束は守らなくてはならないが、草刈りの時間が長かったので神輿は見ることができなかったが、なんとか九谷の広場での踊りには間に合った。ちょうど「手を振って」と言っていた子が手前に来てラッキーだったが、他の子が見つからない。130人くらいの似たようないでたちの中を探すのは難しいが、終わって整列している時に何とか見つけた。ケーブルテレビと、新聞社が来ていた。

やれやれ、集合時間11時というのに遅れてしまった。恒例の加賀市の弓道協会のバーベキューである。刺身あり、魚介たっぷり味噌汁あり、猪の肉がある。若い子が買い出しに行ってくれている間に、玉ねぎやキャベツを切る。H先輩は、大量の魚をさばく。イカを焼く。H先輩は、猟師と漁師で工場の社長である。鴨も捕るのである。今日も鴨肉も焼いた。今日はいつもの年より少なくて、11人だったので食材が余って、手作りのフグの干物と鯵の干物をお土産にもらった。

朝からバタバタしていたのは、ここへたどり着くためだったのだ。

 

 


市民体育大会

2016-06-05 | 弓道

市民体育大会弓道競技を、土曜の夜に山中の道場で行った。前は日曜の朝に開催したのだが、この時期は町内の草刈りなどがあって、参加者が減るため、土曜の夜にすることになって久しい。

この日、能美市で女子の講習会があった。みなさんのお陰で無事終えることができた。第1回ということで早起きして緊張していたせいか、夕方には眠気が満載だった。ご飯を食べて、7時半までに山中へ行った。

矢渡を観ている最中にも眠気が襲ってきた。しかし、射手が2本ともドカンと的に的中したので目がさめた。

市民体育大会は12射で、昼の疲れはあったが、講師の先生の言われたことを思い出し、骨で引く、残身をイメージして残す、大三が下がらないようにと、夢中で引いていたら3中していた。良い滑り出しだが、この後、的中を意識したらとたんに離れが出なくなってきた。なんという弱い私である。かろうじて6中し、全体に的中が低かったので優勝してしまった。ちなみに男子優勝は11中だった。

家へ帰ってから、録画してあったハリーポッターを観るともなく観ていて、うたた寝し、主人公が年を取ったのでなんか可愛くなくなったなあと思いつつ、ストーリーも画面が激しくフラッシュを連続でたいたような疲れる映像だなあと寝ればよいのにぼおっと観ていた。観終わって早く寝ればよかったと後悔して床に就いた。

弓三昧の一日で終了すれば良かったのに、映像は覚醒する。


能美市弓道大会

2016-06-05 | 弓道

先週の日曜は、能美市の弓道大会だった。40周年記念大会で、能美市の協会長のご挨拶に涙がでてしまった。

二親を介護している妹が、時々弓道場で弓を引くという句を紹介された。弓道というのはなんと心の安らぎになることかという気持ちと、妹が日ごろの介護の辛さを忘れて弓を引く姿が浮かぶのである。この句は、わたしが殿の闘病中に時折、加賀の弓道場へ弓を引きに行っていたことを思い出させた。「今日、行ってきてもいい?」と、聞くと「大丈夫・・。」と、力なく笑っていた殿を思い出した。わざわざ、病気の旦那を置いて弓道場へ行かなくてもと思ったが、時折、夜の8時から9時半までの1時間半、道場のみんなと過ごした。そのことを思い出した。

その句をメモしておけば良かったのに、忘れたなあと思った。協会長に、大会のお礼と、次の週末の「女子の講習会」のために、能美市の方々にお世話になるお礼をはがきで送った。

昨日、土曜に「第1回加賀地区女子講習会」を、能美市で行った折り、協会の方にことづけて句のコピーを会長さんよりいただいた。

「白寿近き 二親介護する妹が 月に一二度 弓場(ゆば)に立ちをり」

その妹さんの気持ちが、痛いほど分かるのである。中日歌壇に投稿された東海市の女性の方の句である。そして、それを紹介された会長さんの優しさが嬉しかった。心をうたれる気持ちがまた他の人の心をうつ。

 


膝退(しったい)は成功のもと

2016-06-01 | ことわざ 昔話

能美市の大会でM先生が「ことわざ読んだよ。面白かったわ。」と、おっしゃった。100号の「弓道石川」に、リバイバルとして載せたのだが、実は何年も昔のものなので、自分の中では少し面白くなくなっていた。新しいものは面白い。

ところで、M先生にこの前矢渡で失敗した話をした。「本座へ戻らず座ってしまって、そのまま知らん顔して続けてしまいましたわ。」と、言っていると「わたしもあったよ・・。」と、言う。持的射礼のおん前で審査の要領で座ってしまって、審判席の先生から「戻ってください。」と、言われたそうだ。5人いるので一人だけ置き去りにして、みんなが本座へ戻る訳にはいかん。何も言われなければ、そのまま審査の間合いでやるしかないと思う。

M先生は「膝退で、本座へ戻ったわ・・。膝退は成功のもと。あら、わたしにもできたわ。」で、あった。「それいただきます。それとも、先生の名前で載せましょうか。」がははは・・・。と、終わった。

どんな失敗も、次の成功につながる。しかし、失敗を積み重ねるのもつらい。