Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

神奈川県立近代美術館葉山は断念

2017年03月25日 23時01分02秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日はほとんど一日中在宅。休養日であった。夕刻に横浜駅まで出かけて1時間ほどコーヒータイム&読書で過ごしたのみ。結局神奈川県立近代美術館葉山の「1950年代の日本美術-戦後の出発点-」と「反映の宇宙」展は明日で終了してしまうので、残念ながら断念することになった。
 さらに本日は休肝日にもしようと思ったが、夕食時につい缶酎ハイに手を出してしまった。後からする反省は、サルでもできると笑われるのは目に見えている。

 暁斎展の感想はその2と追加の「風神雷神図」をアップしたのでとりあえず終了。

 明日は特に予定は入っていないので引き続き休養日&読書タイムにしてのんびり過ごしたい。さいわい本日も腰の痛みはほとんど出なかった。


「これぞ暁斎!」展 追加

2017年03月25日 21時40分54秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
      

 その1で「鷹に追われる風神」(1887)を取り上げたが、一昨年の「画鬼暁斎」展では「風神雷神図」(明治前半、暁斎記念美術館蔵)が展示されていた。作品の出来た年代の前後関係は不明であるが、私は風神雷神図の方が先に出来上がったのかなと感じた。
 それは琳派の画法を暁斎がまず学んで琳派の画家としての存在証明である「風神雷神図」をまずは描いたうえで、パロディーをつくるのが通例の筋道のような気がしているからである。
 「風神雷神図」は従来は雷神を左、風神を右に描くのだが、暁斎はそのような伝統にこだわらず、注文主の意向かもしれないが、縦長の画面に両者を上下に描いた。しかも風神の方が左に寄っており、どちらかというと風神のもとに雷神が駈けつけるような時間差を感じる。通常は雷神の元に風神が駈けつけてくるような具合に描くのだが、時間が逆転している。
 私は暁斎の風神雷神図はこのような琳派の伝統を無視するかのような暁斎の試みは、しかし成功していると思った。上限の風神雷神の間合いも緊張感にあふれていて、画面全体が締まって見える。雷神は天空をにらみ、風神は下界を見つめで風を巻き起こそうとしている。両者が天上と地上に対して風雲急な混乱をもたらそうとしているかのような力強さを感じる。
 パロディーとしての「鷹に追われる風神」は地上に混乱をもたらす元凶として地上に落下させられるさまを描いているように思える。もしも雷神が負われるとしたらどのように追われるのであろうか。誰に追われるのであろうか。やはりとても興味が湧く。
 このふたつ作品、いろいろな物語を彷彿とさせる楽しい作品であると思う。

「これぞ暁斎!展」感想 その2

2017年03月25日 14時52分27秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 今回の暁斎展は「ゴールドマン コレクション」の800点から180点を選んだということになっている。
 その1では気に入った作品の共通点ほを「動」という視点でとりあえず括ってみたが、それではおさまらない作品も多数ある。前回と同様、図録から絵は取り込んだ。
 


 まずは「雨中さぎ」(制作年不詳)。最初は現代の版画が紛れ込んだのかと錯覚してしまった。少し膨らんださまで、普通ならば雨中に一本足でじっとたたずむ姿態を描くのではないか、と思うのだが、これはこれから動こうかという一瞬らしい。大型のさぎは地上で動くときは意外とのっそりと動く。その様子を捉えている。眼が作品から離れなかった。



 次が「三味線を弾く洋装の骸骨と踊る妖怪」(1872-90)。
 私はこの作品は、人物の後ろに刀が置かれているところから、文明開化といわれる中、旧士族階級が洋装をしながらも、昔と変わらず依然として支配者面をして威張っているのを揶揄している図に思えた。旧態依然の象徴が三味線。左手前の踊っているような妖怪は多分えばり散らされる側の象徴であろう。



 さらに「五聖奏楽図」(1872-90)。解説によると「1973年にキリスト教が解禁され、仏教界から排撃運動が試みられた。釈迦、孔子、老子、神武天皇が取り囲み、三味線・笛・鼓で囃し立てる。いがみ合う深刻さは見られない。これらの宗教画日本でにぎにぎしく併存する様を一大劇場に見立てている」としるしている。確かに十字架上のキリストは扇子を持っており、いじめられている図ではない。ただし極端な廃仏毀釈があり、神武と釈迦の関係は険悪。釈迦はその分キリストをより排撃する立場、さらに孔子も老子も行く末に大いなる不安を抱いていた時代である。どちらかというと共存・併存が暁斎の思いだったのかもしれない。



 一方で暁斎の仏画はとてもがっちりとした構図ですきが無い。特に達磨図、羅漢図、観音図は戯画的なものは私はしらない。仏教に対する信仰心は強かったようだ。私は達磨図に特に惹かれる。もろもろの禅僧の描く達磨図よりも私は惹かれる。



 同じコーナーに「祈る女と鴉」(1972-90)が展示されていた。これも初めて目にするが、墨一色の鴉が異様に大きい。対する遊女の祈りは真剣である。解説では作品の内容や意図は不明とされている。遊女の後ろの禿が手にしている着物は墨染の僧衣なのだろうか。真剣に祈る姿からは鴉を仏に見立てているのかと思ったり、鴉は暁斎の化身のようにも思えるが、どのように解釈したらよいのだろうか。不思議な雰囲気の作品である。



 最後に「幾世かがみ」(1969)が展示されていた。とても薄い色なので、ここでは色を濃くしてスキャナーをさせてもらっている。解説では「幾世かがみ」は「亡くなった女性の追善のための俳諧刷物画帖」。一方に閻魔大王、もう一方に阿弥陀を描いているとのことである。
 丁寧に書かれた俳句のひとつには「ちるものと思へどをしき桜かな」とあるらしい。どちらかというと豪快で早い筆致のような諸作品の中で実に丁寧な彩色と繊細な描画、細かな描写に惹かれた。心に残る作品であった。どういう関係の女性のだったのだろうか。
 なお、展示には春画のコーナーもあった。私の好みでいえば、暁斎の春画というのは滑稽の要素が勝り過ぎていて、私の好みではない。むろん滑稽の要素が強いことは春画の重要な要素でもあるし、権力者や世相を揶揄して笑い飛ばすには格好のジャンルではあると思うが‥。

   

 図版は「イスラエル・ゴールドマン コレクション Israel Goldman Collection, London Photo:立命館大学アート・リサーチセンター 」による。


シューマン「幻想曲作品17」

2017年03月25日 12時58分14秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 午前中は1時間ほどの打合せののち、「これぞ暁斎!」展の感想のその2を書き始めたが、終わらない。お昼までにアップしようとしたが、無理なので本日中に終わらせることに予定を変更。



 「シューマニアーナⅤ」(伊藤恵)におさめられている「幻想曲作品17」が気に入ったので、本日もこれを聴きながら作業を行っている。
 「子供の情景」や「森の情景」も一緒に収録されているが、短い時間で曲想が変わるのがめまぐるしい。落ち着いて聴くことが出来ない。しかしこの幻想曲はもとはソナタとして想定された3楽章形式で統一感のある曲である。短い曲の集合である前2曲も悪くはないが、作業をしながら聴くにはあまり向かない。幻想曲の第3楽章は低音から静かに立ち上がる出だしが好みである。とても余韻のある曲である。