Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

本日購入した本

2015年06月24日 23時39分28秒 | 山行・旅行・散策
 二週間前に注文した本がようやく入荷した。
 以前にも記載したかと思うが、
1.「日本列島の誕生」(平朝彦、岩波新書)
2.「大地動乱の時代-地震学者は警告する-」(石橋克彦、岩波新書)

 1.は以前に購入してとても印象に残った本である。プレートテクトニクスの観点から列島の地質構造をトータルに把握して、説明してくれた名著である。大事に保管しておこうと思っていながら、情けないことに本箱が溢れた時に間違って廃棄してしまった。ようやく買い戻すことが出来た。
 2.もよく読まれている著作である。阪神淡路大震災の直前に出版されて、この地震の直後から爆発的に読まれた本である。やはり最近は書店の書棚にない。実は読んだ記憶が無いのだが、本日手にして電車の中でパラパラめくっていたら読んだ記憶のある場所が出てきた。どうも出版当初手にしていたようだ。購入したのか、書店で立ち読みしていたのかはっきりしないが確かに記憶にある。最後の方はまだ見ていないが、最後の方にまで記憶があるとすると購入して読んだことは間違いがない。前半だけの記憶なら立ち読みの可能性がある。

 さて1.については日本海の成因について論述してあったと記憶している。私は太平洋プレートの沈み込みだけで列島の地質の成り立ちや地震のメカニズムの解明には無理があると思っている。太平洋からの圧力とそれに対する大陸側のプレートの反作用だけではなく、マントル対流の解明と日本海を作り上げた大陸プレートの押しの力をキチンと評価しないと、日本列島の構造は出来上がらないのではないか、と学生時代から疑問に思っていた。キチンとした理論やフィールドワークに基づく推論ではなく、あくまでもいい加減ともいえる思い付き範疇でしかないが、今でも気になっている。
 1.をもう一度読み直して、勉強してみたいと思う。




「BRUTUS7月号」から「ピカソ」

2015年06月24日 10時31分02秒 | 読書
   

 私はピカソの青の時代の絵画が昔から好きである。それはもともとあまり派手な色彩や明るい色調よりも、描かれている対象の内側に重力が働くように、対象の存在感に吸い込まれるような感覚が好きだからだと思う。暖色よりも寒色の方が画面という世界の中でじっと耐えながら存在を静かに示している。主張しているのではなく、そっと示しているものがいいと思える。
 ピカソの青の時代の作品は、どの人物もこれ見よがしには存在していない。画家の眼はことさら対象を浮き上がらせようとはしていない。描いている対象から受け取った心象の人物像にそっと寄り添おうという意識が垣間見える。
 絵画の鑑賞にこんな勝手な思い入れは危険ではあるのだろう。評価の間違いや頓珍漢な鑑賞を用意するだけだと了解はしているつもりだ。だが一方で好きに思い入れしてもいいではないか、と開き直ってもいる。
 ピカソのこの時代の絵は、画家が世界をどのように理解しようか、鋭敏な感性と指先を駆使しながら、しかし自身の力だけで手探りで模索している姿が思い浮かべられる。それは決して外に向かってするどく発散しようとする意識ではない。意識はとても謙虚である。
 私はピカソの青の時代の作品に登場する人物に「社会の底辺で抑圧されている人々への共感」ばかりを見つめているとは思えない。また「寄り添うような姿勢」「生きようとする生命への共感」「どこかに明るい未来を見つめている」というような甘いヒューマニズムは感じない。センティメンタルを捨てて鑑賞したいと思う。
 この「BRUTUS7月号」で取り上げられた青の時代の作品について五木寛之は「芸術家の仕事はあまり単純に解釈しない方がいい。それと、アーティストには人間の悲しみを食って育つようなところがあります。ピカソ自身、非常にエゴの強い人でしたから、ただ打ちひしがれた人に寄り添い、涙を流しながら描いた、というふうに見るのは、間違いだと思う」と記している。
 人間が世界を認識し社会と交感するとは何か、答えのないそのことを必死に手探りで模索する精神を感じるならばそれでいいと思う。救いだとか、生きる希望だとかに飛躍することはないとおもっている。ただピカソは自分の身近にいる社会の底辺の人に、人間の存在を問い続ける契機を見たのだと思っている。

   

 これに対して岡本太郎は「青の時代っていうのは、19世紀からの伝統をずっと続けてるわけですよね。センチメンタルな要素も、ロマンティックな要素もあって日本人は感心する。でもピカソのその後の作品は、世界の歴史でほかにないほどすごいですよ。惨憺たるものもたくさんあるけど、それがまた僕の心を打ってくる」と述べている。
 画家が新しい表現方法、技法を求めて変化し続けるそのエネルギーに着目している。このことも私には理解ができる。青の時代を経てピカソの色彩も視点も、新しい方法を求めて自由に飛翔していく。この膨大なエネルギーに多くの人は圧倒される。
 岡本太郎の掲げた作品は「アヴィニオンの娘たち」と「ゲルニカ」。
 青の時代を経て、私には一挙に解放されたエネルギーの噴出を見る思いがする。内省的な思考は、画面からは窺うことは出来ない。しかし躍動的で開放的な画面の向こうには絶えず社会との交感、人間に対する認識についての模索と洞察を心のどこかに持ち続ける精神を私は感じる。

 ゴッホのオランダ時代の「馬鈴薯を食べる人々」などの世界を、ゴッホの宗教心や貧しい人々への共感といった視点ではなく、ゴッホの社会や人間存在に対する認識の獲得の段階という観点からもう一度考え直してみるのも魅力的である。無論そのような観点の論もたくさんあるのだろう。目にしたいものである。