Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

記憶の抽斗

2014年11月16日 21時55分39秒 | 読書
 昨日の「船模型・船図・船絵馬」の講座の報告で、オリオンの三ツ星は「底筒男」「中筒男」「上筒男」とされていたということを記載した。そのことを聞いた時私は本当にびっくりした。頭の中で「サッ」と何かがつながって電気の回路が通じたような感じがした。
 50年以上前になるが、今は解体されてしまった東急文化会館の屋上にあった渋谷の五島プラネタリウムで聞いていたことが不意に思い出された。記憶の最下層の埃にまみれて存在を忘れていた別々のふたつの抽斗が不意に開いて中身が飛び出してきた。
 そのひとつが「古代の日本では「星」=「筒」と云われ、天空を覆う壁に筒状の穴がていてそこから光が漏れ出ている」と認識されていたということ。もうひとつは「オリオンの三ツ星は「底筒男」「中筒男」「上筒男」と呼ばれていて大切に思われていた」ということ。
 このふたつの抽斗の中身は相互に繋がらずにそのまま抽斗の中にしまわれて、そのまま記憶の最下層に埋もれていた。
 また20~30年前に「住吉大社は航海の神で祭神は「底筒男命」「中筒男命」「表筒男命」であり、神功皇后伝説と結びつけられた」という記憶が抽斗にしまわれていた。これについて「○筒男命」の表記は正確には覚えていなかった。
このみっつの記憶の抽斗が開いて、瞬時に結びついたように感じて、とても嬉しかった。講義を聞いていて思わず「ヘッ」と声にならない声が出た。

 記憶というのはこのように分散して相互の関連が認識されないまま記憶の底にしまわれていくのであろうか。時間の累積とともにしだいに下層へと追いやられ、ある時期にすっかり忘却してしまうのかもしれない。あるいは「忘却予備群」という倉庫にしまわれるのかもしれない。
 そうして何らかの契機があると不意に思い出されたり、いくつかが結びつけられて「知識」として鮮明に新たに記憶される仕組みになっていると思われた。

 そんな驚きは多分私の人生でもかつていろいろあったと思う。その驚きはひとつひとつ覚えていたら大変だから「驚き」そのものはどんどん忘却してしまうのだろう。「忘却予備群」の倉庫に入ることなく、忘却されてきたと思える。この結びつくことになった知識が新たにひとつの抽斗の中に入って記憶の下層に積もっていくに違いない。あるいはかなり強い回路でつながったままひとつの抽斗のように振る舞うのかもしれない。

 知識というのはこのように小さな驚きを伴って確実なものとなるのだろう。


冬はじめ、初冬

2014年11月16日 10時15分42秒 | 俳句・短歌・詩等関連
★一筋の潮目や越の冬はじめ   六本和子
★暁紅の海が息づく冬はじめ   佐藤鬼房
★初冬の木をのぼりゆく水のかげ   長谷川双魚
★身のうちにひとつの火種冬はじめ   丸山哲郎
★鴨の子のひく波ひかる初冬かな   飯田龍太
★冬兆す何かを必死に山の音   加藤楸邨

1句目:今週新潟県南部を訪れたとき、寺泊の近くの崖の上から日本海を見下ろしたとき、確かに一筋の潮目が鮮やかに目に飛び込んだ。確かに冬の情景だと得心した。
3句目:「木をのぼる水」とは木が吸い上げる水のことだと思うが、鮮烈な水だ。木の生命力だけでなく、妖気のような気配も感じてしまった。
4句目、6句目:何かをいわないところが俳句なのだと教わっているが、それがとても気になる。