昨日の「船模型・船図・船絵馬」の講座の報告で、オリオンの三ツ星は「底筒男」「中筒男」「上筒男」とされていたということを記載した。そのことを聞いた時私は本当にびっくりした。頭の中で「サッ」と何かがつながって電気の回路が通じたような感じがした。
50年以上前になるが、今は解体されてしまった東急文化会館の屋上にあった渋谷の五島プラネタリウムで聞いていたことが不意に思い出された。記憶の最下層の埃にまみれて存在を忘れていた別々のふたつの抽斗が不意に開いて中身が飛び出してきた。
そのひとつが「古代の日本では「星」=「筒」と云われ、天空を覆う壁に筒状の穴がていてそこから光が漏れ出ている」と認識されていたということ。もうひとつは「オリオンの三ツ星は「底筒男」「中筒男」「上筒男」と呼ばれていて大切に思われていた」ということ。
このふたつの抽斗の中身は相互に繋がらずにそのまま抽斗の中にしまわれて、そのまま記憶の最下層に埋もれていた。
また20~30年前に「住吉大社は航海の神で祭神は「底筒男命」「中筒男命」「表筒男命」であり、神功皇后伝説と結びつけられた」という記憶が抽斗にしまわれていた。これについて「○筒男命」の表記は正確には覚えていなかった。
このみっつの記憶の抽斗が開いて、瞬時に結びついたように感じて、とても嬉しかった。講義を聞いていて思わず「ヘッ」と声にならない声が出た。
記憶というのはこのように分散して相互の関連が認識されないまま記憶の底にしまわれていくのであろうか。時間の累積とともにしだいに下層へと追いやられ、ある時期にすっかり忘却してしまうのかもしれない。あるいは「忘却予備群」という倉庫にしまわれるのかもしれない。
そうして何らかの契機があると不意に思い出されたり、いくつかが結びつけられて「知識」として鮮明に新たに記憶される仕組みになっていると思われた。
そんな驚きは多分私の人生でもかつていろいろあったと思う。その驚きはひとつひとつ覚えていたら大変だから「驚き」そのものはどんどん忘却してしまうのだろう。「忘却予備群」の倉庫に入ることなく、忘却されてきたと思える。この結びつくことになった知識が新たにひとつの抽斗の中に入って記憶の下層に積もっていくに違いない。あるいはかなり強い回路でつながったままひとつの抽斗のように振る舞うのかもしれない。
知識というのはこのように小さな驚きを伴って確実なものとなるのだろう。
50年以上前になるが、今は解体されてしまった東急文化会館の屋上にあった渋谷の五島プラネタリウムで聞いていたことが不意に思い出された。記憶の最下層の埃にまみれて存在を忘れていた別々のふたつの抽斗が不意に開いて中身が飛び出してきた。
そのひとつが「古代の日本では「星」=「筒」と云われ、天空を覆う壁に筒状の穴がていてそこから光が漏れ出ている」と認識されていたということ。もうひとつは「オリオンの三ツ星は「底筒男」「中筒男」「上筒男」と呼ばれていて大切に思われていた」ということ。
このふたつの抽斗の中身は相互に繋がらずにそのまま抽斗の中にしまわれて、そのまま記憶の最下層に埋もれていた。
また20~30年前に「住吉大社は航海の神で祭神は「底筒男命」「中筒男命」「表筒男命」であり、神功皇后伝説と結びつけられた」という記憶が抽斗にしまわれていた。これについて「○筒男命」の表記は正確には覚えていなかった。
このみっつの記憶の抽斗が開いて、瞬時に結びついたように感じて、とても嬉しかった。講義を聞いていて思わず「ヘッ」と声にならない声が出た。
記憶というのはこのように分散して相互の関連が認識されないまま記憶の底にしまわれていくのであろうか。時間の累積とともにしだいに下層へと追いやられ、ある時期にすっかり忘却してしまうのかもしれない。あるいは「忘却予備群」という倉庫にしまわれるのかもしれない。
そうして何らかの契機があると不意に思い出されたり、いくつかが結びつけられて「知識」として鮮明に新たに記憶される仕組みになっていると思われた。
そんな驚きは多分私の人生でもかつていろいろあったと思う。その驚きはひとつひとつ覚えていたら大変だから「驚き」そのものはどんどん忘却してしまうのだろう。「忘却予備群」の倉庫に入ることなく、忘却されてきたと思える。この結びつくことになった知識が新たにひとつの抽斗の中に入って記憶の下層に積もっていくに違いない。あるいはかなり強い回路でつながったままひとつの抽斗のように振る舞うのかもしれない。
知識というのはこのように小さな驚きを伴って確実なものとなるのだろう。