本日は久しぶりに暖かい日差しが戻り散策日和となった。労働組合の会館に用事があり立ち寄った帰りに、近くの根岸界隈を散策してみることにした。
横浜市の寿町のはずれにある組合の会館の傍の車橋から歩き始めた。横浜根岸道路を根岸の丘に向かって登りつめ、山元町の商店街に沿って根岸の森林公園に向かって尾根道をまず歩いた。ここの道は古い道でおそらく吉田新田が出来たころから本牧や根岸方面に抜ける道であったと思われる。
山元町の商店街に出たT字路を左に行くと山手教会やフェリス・外国人墓地を経て港の見える丘公園までの洋館の道。本日は左に商店街を抜けて根岸の森林公園・馬の博物館へ向かった。日差しが暖かく汗ばんできたため、ダウンの上着はリュックにしまい込み、薄い化繊のサマーセーターだけで歩いた。
この商店街、50年近く前にも幾度も通ったことがある。年に3回余りとしても6年間で20回近く歩いた。学校から根岸の森林公園経由でこの商店街を通って、伊勢佐木町の有隣堂まで歩いてから、関内駅で電車に乗るという遠回りをして帰宅した。特に意味はないのだが、楽しかった。根岸という外国人居留地域の瀟洒な建物から当時から賑わっていた山元町の商店街、そして下って寿地区から伊勢佐木町までの街の様相の極端な変化に身をさらすのが刺激だったのだろう。
本日は、森林公園の前の滝之上交差点から不動坂を登ってくる道を合わせ後、聖光学院の周囲をまわり、根岸の外国人墓地に立ち寄り、山手駅までいったん下りた。
この墓地の前を昔6年間通ったのだが、当時は根岸の外国人墓地は入ることが出来なかった。今回初めて中に入ったみたが、横浜市の管理として管理棟があり、作業員が常駐していた。残念ながらパンフレット等はないとのことなのだが、草刈りなど作業員が丁寧に維持作業をしていた。
なかなか明るい西南向きの急な斜面に洋風の墓標がまばらに立っている。訪れる人もいない、実に閑静な一角である。昔から横浜の案内パンフには記載されているが、眠っている方の紹介や規模・沿革などの記載はどこを探しても出てこない不思議な墓地であった。今回初めて案内板を見てびっくりしたことがある。
私が卒業して15年もしてから近くの中学生がクラブ活動の一環として調査を実施したらしい。それによると戦後米軍に「接収されたらしい」との表記である。米軍に接収されたか否かももうすでに記録がないということにはビックリである。接収ということがすでに歴史のかなたに埋もれてしまう時代になっているというのだ。これでは誰がほうむられているかなどの調査も難航したと思う。
読める範囲の墓誌を見てみると、明治時代後半の埋葬がいくつも目についた。そして日本人妻であったと思われる日本人名の女性の名前がいくつも記されていた。夫婦での埋葬である。この日本人女性の生涯がどのようなものであったか、すでに知るよすがはない。しかしどんなドラマがあったのだろうか。気持ちの良い日差しを受けて静かに眠るお墓には、港の見える丘公園の脇の有名な外国人墓地にはない雰囲気が漂っている。ここはまた訪れて静かに時を過ごしたい場所である。お薦めのスポットだと思う。
山手駅の傍のパン屋でサンドイッチを購入して線路脇の日当たりのよい空き地で昼食休憩。近くで建築工事をしているらしい職人がやはり同じ敷地で遅い昼食を取っていたので、私もその空き地に入れてもらい、コンクリートブロックを椅子代わりに腰かけた。昼食後、こんどは竹之丸町内をとおる竹之丸花道となずけられた道を再び山元町の商店街をめざして丘を登った。登り切ってから車橋まで下りた。
この切通しの道は途中に湧水がある。今でもコンコンとわいているが飲料水には適さない。しかし石碑にもあるとおり、横浜の歴史からは忘れてはいけない湧水であると昔教わったことがある。
ここまで戻ってから、再び組合の会館に戻ってロビーのソファーに座って缶コーヒーで休憩を取らせてもらった。実にいいところにある組合会館である。
そのあとみなとみらい地区まで再び歩き、「海から見た日本文化」という講座の三回目を受講。その後川崎駅傍の病院へ先輩を見舞いに行ってきた。
実によく歩いた一日であった。38500歩、約26キロ。さすがにくたびれた。明日は午前・午後とも横浜市歴史博物館で行われる講座。休養を兼ねてウォーキングは中止する予定。