足立君江 写真ライフ

ー東京の街・安曇野・カンボジア撮影記ー

   

カンボジアのお年寄り

2018年05月03日 | カンボジア
 2004年ごろ、プレダック村でヨームさんと言うヤシ砂糖を作る人に出会った。
彼は2001年に新しい窯を作り、直径1メートルの鍋にヤシの汁を煮詰めていた。
椰子の細長い棒状の花を途中で切り、半日竹筒に吊るす。溜まった花汁はヤシの木から外して、窯で7時間くらいに詰める。
自然の材料を使い砂糖を復活させた地場産業の走りかもしれない。
その時、ヨームさんのご両親が、村で一番の年寄りで72歳だと案内された。
二人の坊さんを呼んで、「今までさんざん悪いことをしてきたから、死後の安泰を願う」と話してくれた。
翌年にはお爺さんが先に亡くなり、6か月後にお婆ちゃんも逝ってしまった。
その時、私はもっと話を聞いておけばよかったと後悔した。

ここ2,3年、カンボジアの村のお年寄りを私は訪ねることにした。
なぜかというと、今再び、同じ内戦時代が訪れて、「物が言えない民、物言わない民」が社会現象として感じられるからだ。
内戦時代はどんなことを経験してきたのか、時代が変わり今なら話せることがあるのではないかと・・・。

まだまだ元気なお婆ちゃんやお爺さんが多い。
お年寄りは60歳を迎えると、皆お寺に奉公に入り沢山の供物を備える。死後の安泰を願っている。

一人暮らしのお婆ちゃんは、政府軍の兵士であった夫が「どこかで生きている」と思っている。
政府から死亡と言う何の知らせもないからだという。
「時代が変わったから、今はもうその知らせは来ないよ」と言いたいが、それだけは言えない。

サイサンボーさんは、家族が公務員で親戚も含めて20人殺されたが、まだ子供だったので姉妹で逃げろ逃げろと言われて逃げて暮らした。

チリュウ村のソッさんは、行くときには米は山積にあり、牛も10頭も全部置いていったが、帰ってきたら何もなく、家もなかった。
村から村へ田植え、収獲と集団で移動してただただ働いた。規則を破ると罰が与えられ同じことを繰り返すと処刑された。
今でもポルポト時代に着ていた黒い作業着を持っていて、時々、田んぼ行くときに黒の作業着に鍬を担いでバイクに乗って出かけている。

「Kプラン」と言うベトナム軍との内戦がひどく、その時に地雷にあった人は、ポルポト時代の方が良かったという人もいた。

2016年には「一ノ瀬泰造」を良く知る2人のお婆ちゃんにであった。
昔からプレダック村に住んでいて、クメールルージュに村が占領されたとき、今の場所に越してきたという。

内戦後、ゼロからの出発であったカンボジアの農村が、移転を繰り返しながらも定住の地を確保して、内戦前から作っていた籠作りやハンモック作りをするようになったのは2010年以降に思える。

書いてあったことではなく、聞いた話でもなく、どんな小さな出来事でもカンボジアの人々に直接お話を聞くことが私の取材のやり方なので、楽しくもあるのです。


コメント
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