足立君江 写真ライフ

ー東京の街・安曇野・カンボジア撮影記ー

   

2015年を振り返る

2015年12月31日 | 日常
 兼ねてからの念願であった、カンボジアのデジタルカラーによる写真展が決まった。

先ず、3月に公募展「視点」の作品を選び、応募したが今年は「特選」になった。

その後、6月初旬の個展「シェムリアップ州の子どもたちと」の準備が今年の一番の仕事であった。
    

早々に準備態勢に入ったが、エプソン5Vでのプリントが、どんな感じになるか最初から心配であった。
いくつかの各社プリント用紙をA4で試していく。
今まではすべてモノクロームを自分で伸ばしていく写真展がほとんどであったため、カラーとなると感じがつかめない・・・。
プリント用紙はどれを使うか、額装はどうするか、マットは何色にするか、考えたらそんなことで時間をかけてしまった。
自分が納得いく紙を選ぶことにした。
結局、ピクトリコの「月光」モノクロ用の紙を使用して、カラーで印刷することにした。

雑誌へのコンタクト、トークの司会、トークの流れ、どんな形にもって行くか・・・。
そう考えると、この写真も、あの写真も外せない一枚になってしまった。
一番簡単だったのは写真、一点一点につけるキャプション。
これは取材ノートをひっくり返し、結構思い出しながら楽しみながら、終わってしまった。

写真展のトークではフレンズの赤尾和美さんが飛び入り参加、いつものカンボジア撮影ツアーの参加者が準備をしてくださったので、お蔭さまで無事に終わった。
人数は入りきれないほど、おいでいただき、これも感謝、感謝で終わった。
うれしかったのは、3回も足を運んでいただいた青年がいたことでした。
私の写真展の常連になっている方、写真家の皆さん、はじめて来てくださった皆さんなど、新しい出会いの場となりました。

各写真雑誌に写真入りで紹介していただき、グラビアは雑誌側から依頼があり、うれしいことに8ページ、文章1ページの記事になった。

写真展が終わると、7月、雨季のカンボジア、シェムリアップへ取材に入った。
目的は15年経過した子どたちのその後、また新たなテーマで「ポルポト時代を知る人たち」を訪ね歩いた。
これはすでにブログで紹介させていただいた。

カンボジアから帰国後、7月末にすぐに恒例となったスナダイクマエ孤児院の絵画展がアセアンセンターではじまり、今年は私が同行する撮影ツアーの皆さんの写真展が同じ会場で開催された。
  
 これは岩田晶子さんの作品。  
孤児院は撮影ツアーの皆さんを毎回、短時間でも訪問することになっているので、いい機会をいただいた。

8月から10月にかけては、沢山の写真展を見に行った。
写真集も高価なものから、欲しかったものまで手に入れた。
JPSや現研のセミナーにはなるべく参加するようにした。
セミナーでは特に今年は「フィルム保存センター」や「動画の著作権」に参加して勉強することができた。

また自分が指導する写真クラブ「みずほ」の街歩き撮影を実行することにした。
毎月の例会と講評のほかに街歩き撮影があり、結構忙しくなってきた。

10月に入ると「カンボジア撮影ツアー」の打ち合わせなどの準備態勢に入り、11月12日から撮影ツアーははじまった。
   
ようやく、安曇野に行って不凍栓の処理や撮影ができたのが12月の初めであった。

月日の経つのは早いもので、あっという間の一年・・・。
知らないうちに歳ばかりを重ねて、もっと本気を出さないとと思った一年だった。


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クリスマス・イブ

2015年12月25日 | 日常
 みんな素敵なクリスマスの夜を迎えているのだろうな。

家族で、友人で集まって交流する、こんなささやかな幸せが壊されることがない世の中になるといいなと思う。

仕事が休みでも家にいたことがない娘が今日は家にいるという。
二人で出かけることも、映画を観る時くらいかなあ~
それも2人とも共通の見たい映画があったとき・・・。

「映画を観に行かない」と娘から誘われた。
そこで映画の梯子をすることにした。

ひとつは「写真家 ソール・ライター」-急がない人生で見つけた13のことー
1940年代から豊かな表現力で「ヴォーグ」など数々の雑誌で活躍した写真家でしたが、ある時から表舞台から姿を消した。
特に80年代の写真の芸術性や、商業性が強く求められていた時代に一線を退いたらしい。
ところがその後、彼が撮った写真が写真集になり、80歳を超えた頃にもう一度有名になり、その生き方が注目された。

彼の生きざまを写真を撮る角度や、生活、考え方などからドキュメンタリーとして映画にしたもので、映画を撮りながら映画を作っていったような物語で、時々撮影者との対談が入ってくる・・・。
映画のチラシにもなっているが、「幸福は人生の要じゃない、それ以外のすべてが人生なんだ」と。
写真家として、夫としての13の考えで貫かれていた。

もう一つの映画は「デイーン、君がいた瞬間」
  24歳で亡くなったジェームス・デイーンを追っかけながら取材したマグナムの写真家、デニス・ストックのディーンとの交流を撮ったもの。
このカメラマンは現在でもLIFEで活躍しているが、ディーンが亡くなってから60年経って映画になり、国際映画祭にも出品しているものだ。
俳優はデイン・デハーンという青年だが、映画好きの人は知っているかもしれません。
最初は自分が有名になりたいための取材であったが、ニューヨーク・故郷のインデアナまで同行するうちに、気難しい彼と心を通わせ親友になっていく。
最後が印象的で、写真を撮り終えた後、ディーンが撮ってほしいと相談の電話を入れたが、それを断ってしまった。
その6か月後にディーンは亡くなってしまう。

気難しいディーンが、追っかけられているときは逃げ回り写真を撮られたくなかった。
しかし、親しくなったときにはカメラマンは、もう違う取材に入っていた。

そんな映画を渋谷から銀座の映画館に移動しながら、三越で食事をしてニコンサロンの写真展を見て、銀ブラをしながら帰った一日・・・。
   

 二人で口をそろえて「疲れたねえ・・・。」

電車の中をこけるようにして寝て帰りました。
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12月の安曇野

2015年12月17日 | 安曇野
 朝の空気の冷たさは肌がぴりぴりするほどで、ー3度C。昼間は最高の天気で15度にもなる。

今回は壊れた冷蔵庫を買い替えて、トイレの不具合を直して、あとは車で近くを散策する予定。
TOTOのメンテナンスの人が松本からやってきて
「東京の人はなんでこんな寒いとこにくるだ・・・。俺は暖かい東京に逃げたいよ。ハハハ」

もうすっかり枯れ木になった山々に、おいしそうな冬野菜、鳥が電線にかたまって、時々JR大糸線の2両編成のワンマン列車が行き交う。
安曇野は雪は少ないが、北アルプスからの風が超つめたくて、雪が降るとすぐに道路がつるつるに凍ってしまう。
以前は北国の冬のようにー13度になったこともあった。

   
 収穫されない柿がきれいな風物詩になっている。     大町市社付近から爺が岳方面をみる。

   
 庚申塔を含め道祖神が集められていた。大町市塩の道で。     野菜畑のキャベツの葉が緑が濃く感じられた。最後の収穫かな。

   
 無造作に干されていていた柿。いつも行く松井さんの家だが時々、甘いのがあるそうだ。  ほうずきが陽に輝く。

   
 犀川のほとり、だんだん白鳥の群れがやってくるが、今年は白鳥の姿はなく、カモの群れが・・・。

  夕暮れが近ずくと山は裏側から赤くなる。
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最終日は

2015年12月04日 | カンボジア
 久しぶりのブログの更新です。

撮影ツアーの最終日は、希望によりコンポンブルックの水上生活へ行くグループと、初めて参加された皆さんが遺跡への出発になった。

私は何年ぶりかで、遺跡グループと一緒にいくことになった。
何度言ってもにぎやかなアンコールワット・・・。スーリャバルマン2世王は後の世で、こんなに観光客が来る事を予想すらしていない。
四方を6キロのお堀に囲まれたアンコールワットは、毎回、行くたびに様々な出会いが待っている。

   
 お堀では睡蓮のピンクの花、ダイビングが好きな子どもたち、最近では近くの人がヤシの木に登り観光客を最初に出迎えてくれる。

   
 池のそばのお土産店のまわりをうろつく猿軍団・・・。いまでは遺跡に上る猿も・・・。

まず、説明を聞きながら一回りして、元気な女性群は全員、第三回廊まであがりました。

しかし、この偉大で壮大な遺跡を写真にするのは、何と言っても「光と影」だろうかと・・・。  
  

帰りの参道で出会った結婚式を終えたお二人がアンコールワットへ報告に、お友達の3人も・・・。
    
 
食事をしてから、アンコールトム、西門、タプロムと速足での遺跡ツアー・・・。

   

  
 最後のタプロムでは光が最高の時間になりつつも、帰る時間も気になり後ろ髪惹かれる思いで帰路に着いた次第です。
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