足立君江 写真ライフ

ー東京の街・安曇野・カンボジア撮影記ー

   

日・カンボジア友好55周年

2008年04月18日 | カンボジア
今年は日本・カンボジア友好55周年の記念の年とのこと。55年前というと1953年だからはっきりはしないがカンボジアがシアヌークを国家元首として王国として独立した年ではなかったか。それからの長い内戦も語りつくせないカンボジアの負の遺産とも言うべきものだ。1991年パリ和平以来、17年も経っているが街から一歩中に入れば、電気、清潔な水がない家々が沢山あり、貧富の差はなかなか埋まらない。戦争を知らない子供たちの表情は素朴で明るくてとても可愛い。それだけではない。忘れている日本の昔の姿が沢山ある。私をひきつけてまやまい要因なのかもしれない。

 シェムリアップの一角「ティータイム」というギャラリーで「カンボジアの子供たち」4人展を行っている。
この4人展はカンボジアに長いこと通い写真を撮ってきた写真家ということで私も縁があって参加している。昨年12月には私の写真24点が展示させていただいた。昨年9月の日本での写真展のとき、藤井秀樹先生(日本写真芸術専門学校 校長)がおいでいただき、ぜひカンボジアでの写真展をと言われ、写真学校の生徒さんに運んでいただき展示できたという経過がある。縁は不思議なもので先生もカンボジアに通われて長いとのこと。写真集も出版している。
私がカンボジアへいったきっかけは遺跡撮影のツアーに参加したことが最初であった。12月の写真展も終わりひきあげねばならないので、孤児院にいったり、「ティータイム」に行ったり、また兼ねてから探していたカンボジアの音楽のCDを手に入れるため、CD屋へ行ったり、バイクの相棒とお別れの食事をしたりと一日とびまわり夕方の飛行機で帰路についた。明日朝 成田到着の予定だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

乾期のトンレサップ

2008年04月17日 | カンボジア
乾期のトンレサップを一度見たいと出かけた。乾期になると水上生活の人々は陸に上がるため引っ越しをしたり、また家ごと水のあるところまで船で移動していく。その引っ越しを撮影したい、また一度でも引っ越しを見たいと思ったが、中々出会えない。今回も静かになった湖に人々の姿は少なかった。道路の両側に並んでいた家もなくなっていた。乾期はあの活気のあるトンレサップに出会えず、さびしい限りである。市場へ行くと雷魚が沢山出回っているが、どこで捕っているのだろう。
雨季の最中は逆に雷魚は捕れないという。捕れない時期の雷魚は養殖とのこと。また、稚魚の乱獲も多いとの話を聞いた。

稲刈りをする人がいたので田んぼに入り、話を聞くことにした。このあたりは二毛作だがこの頃は雨が少ないということだった。温暖化の影響が出ていることは間違いない。勝手にそう思ってしまうほど温暖化は地球規模で進んでいる。

3時半を回ったころ、突然の激しい雷雨に驚き、近くの道路沿いの家に飛び込んだ。しばらく雨宿りをしたが雨が吹き込んでくる。
道行く子供は平気な顔で、ゆうゆうと歩いている。しかし、乾期に大雨とは今まで出会ったことがなかった。少し小降りになったのでバイクに飛び乗り走り出しだしたが、シェムリアップの街は乾いていて雨は降らなかったようだ。
その日の夕食は私のバイクの相棒が働くイタリア料理の店に行った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バッタンバンへ

2008年04月15日 | カンボジア
土埃りが霧のように舞いあがる。たった一本の道路を車で4時間ほど走るとバッタンバンに着く。今回は孤児院の10周年ということもあり、今まで頑張ってきた博子さんと日本語の教師である愛ちゃん、また日本から孤児院で働くためやってきた真理子さん、そして私の相棒、ガイドのサン君と大勢で遊びに行った。途中、シソポンの街で廃線となった線路があった。今、政府によって復活が計画されているが、バッタンバンからプノンペンの列車が走ったら、画期的なことになる。
 お正月ということで、コップ一杯ほどの水をビニールに入れ、だれかれともなく車やバイクに投げつける。道には破裂したビニール袋がゴミとなって沢山散らかっていた。タイから入ってきた習慣らしいが、政府は危険ということもあり禁止しているが、そんなことはおかまいなしで私たちの車もガラスが割れるほどの歓迎を受けた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アプサラの踊り

2008年04月14日 | カンボジア
昨日、予約しておいたコントロー村へアプサラの踊りの練習を撮りに行った。
アプサラの踊りはカンボジアの伝統的な踊りで、2003年に世界文化遺産に登録された。王室古典舞踊学校の先生と踊り子300人は、わずか数人を残して処刑された歴史がある。一時期、完全に途絶え、振り付けの記録や音符もない音楽を、数人の踊り子によって復活することができたという。

コントロー村の練習場の先生は15歳から踊ってきたが、内戦のときに中断し現在、文化省にお勤めのご主人と娘さんと家族で練習場を経営している。大きな学校もあるが授業料が高く通えない村の子供たちを集めて、練習の場を作っているとのことであった。
手の動き、体の動きになめらかで優雅な特徴があり、それぞれ意味があるという。完全に踊れるようになるには9年もかかっているそうだ。
優雅できらびやかで楽しいアプサラの踊りである。
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カンボジア正月

2008年04月13日 | カンボジア
4月13日からカンボジアは正月になる。朝、お正月に踊る村の子供たちの踊りがあり、発音はハッキリしないが、ローバン・ティロというらしい。
その踊りの集団に出会い写真を撮らせてもらった。日本でいう家内安全、商売繁盛の思いを込めて踊り、家の前で踊ってもらったお店は、棒の先につけた旗のような入れ物のなかに、なにがしかのお金を入れる。踊り終わると車にぶら下がるように乗って移動して行った。

村に行くとあちこちで賭けごとが行われ、双六らしきものやルーレットのようなものをしていた。賭けるものはお金、味の素、ビールもある。ソンブー村に行ったときは、6人の子供たちに「ソンマ、リーエル」ーお金をくださいーと声を揃えて言われたことがあったが、私のバイクの相棒によると、お正月はお金を無心してもいいとのこと。私が「お金無ーい!」と答えると全員が声を揃え「オカネナーイ」と返ってきた。素朴で心から笑えた出来事だった。
 プレダック村に行ったときは、仏教なのだがヒンズー教から引き継いでいるバイサイという塔の飾りを作っていた。また供えられたお金でお花を作っていた。
13日の夕方、6時半になるとお正月の神様が降りてくるので、供えた果物やお飾りの前で、みんなで線香を焚いてお迎えしなければならない。

 また、ある村に行くとトローという2弦の楽器とスコーという太鼓を奏で、おかみさん達が輪になって繰り返し踊っていた。私も飛び入り参加したが一晩中踊るというのでお礼を言って帰路についた。
4月は夕暮れがこんなに見事なのかと、驚くほど太陽が大きく真っ赤に燃えていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

孤児院

2008年04月13日 | カンボジア
スナダイクマエ孤児院が10周年を迎えた。今日はお正月なので全員で遊びに出掛けることになっている。私も一日子供たちと行動を共にすることにした。丁度、静岡の坂見さんが日本そばの乾麺を沢山持ってきてくださり、子供たちは40束ほど茹でる。薬味のねぎと山葵もつけて食べたが、カンボジアの子供たちにとって珍しいはずの蕎麦はとてもおいしいとの評価であった。
私自身、日本蕎麦に出会えるとは、その日は懐かしさと幸せな気持ちになれた。
昼食が済むと孤児院の子供たちと車2台でアンコールワットへ、そして西バライに泳ぎに出かけた。その日は車が1台バッテリーが上がってしまい、取り替えたのだが中古だったらしく、西バライでまた動かなくなってしまった。カンボジアではよくあることかも知れない。水の中へ入った子供たちは皆なTシャツやジーンズのまま泳いでいる。着替えは誰も持ってきていないので、濡れたまま車に乗り込んで帰ることになる。オーナーの博子さんはいつものことで全く心配は無用のようで太っ腹なのだ。突然の雨も降り、肌寒いほどの陽気のなか元気な子供たちでした。私たちはテントの中で食事をしていたが、スタッフのソカーさんは子供たちを見張りったりバッテリーの修復に大変だったのではないだろうか。
西バライから夕方6時半には帰り、お正月の儀式でもある行事が始まった。
 花火があちこちで上がる音が聞こえてきた。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2日目

2008年04月12日 | カンボジア
今日は訪ねたい家族が2か所ある。12月に父親(51歳)を交通事故で亡くし、母親にはもうすぐ産まれる赤ちゃんがいる。姉弟は6人で長女は昨年から孤児院に入ったとお母さんが話していた家族だ。赤ちゃんは無事、産まれただろうか。3番目の女の子は足の踵を怪我をして手当がうまくいかず、ぐちゃぐちゃになっていた。治っただろうか。いろいろな思いが頭をよぎる。その家に着くとそれとなく赤ちゃんをさがすと、ハンモックの中に小さな小さな産まれたばかりの赤ちゃんが寝ていた。感動がこみ上げてくる。
 小児病院の看護師である友人から、子供の衣服、蚊帳、サリーなど数点を預かり私が持ってきた物も届けた。
そもそも川の中で遊ぶ子供たちの元気な笑顔に魅せられ、写真を撮ったことが知り合うきっかけとなった。
今でも、この笑顔はどこから出てくるのだろうか。クメールの謎につながるような疑問にも思える。
 もうひとつの家族は父親が義足の家族でやはり56歳で昨年亡くなった。
近所の人の話では、すでにクロバイリエル村に引っ越したという。4年間必ず訪れていたのでどうしているか心配だった。バイクで10キロ先きの村の市場へ行き名前を告げて聞いてみたが見つからなかった。広い村だといわれあちこち探し、あきらめて帰路についた。帰る途中、一軒だけあった小さな店で水を買った。午前中から持ち歩いていた水も無くなり、汗が滝のように流れてくる。偶然だった。そこで村の奥に越してきた家族がいるという。訊ねてみると17歳になる長女に赤ちゃんが産まれ、みんな元気に親戚の家の一角を借りて暮らしていた。パンニャーという一番下の男子は私が知り合ったときはお母さんのお腹にいた子供だ。母親はこの頃、心臓が悪くなったという。そして私の手を取って「この先どうしたらいいか。みんな戦争が悪い」とうつむいて言った。
今は竹かごを作るため、竹を採っているという。父親は爆弾の破片が身体の中に入っていたため、前から具合が悪かったようだ。改めて内戦の傷跡を確認した日であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バイクで集落へ

2008年04月11日 | カンボジア
バイクの後ろに乗って、村を回りはじめて7年になる。シェムリアップから2~3キロ離れたコムサラーコムムラック村へ行く。土埃りでカメラの中にゴミが入り、フィルムに傷がつくことがわかり、今ではビニールの買い物袋をかぶせ、マスクをして走る。
早速、村人から声がかかる。前回も訪れたハーンさん、56歳のおばあさんだ。今回は家の前でスイカを売っていた。前回おじいさんは病気であったが、元気になってハンモックの上に座っていた。早速、「ソク サバイ!」元気ですかと気遣うことが、お年寄りへのあいさつになっている。おじいさんは83歳の高齢だが軍隊に入るときに刺青をしたという。カンボジアでは刺青をすることで強くなり、気力も湧いてくると信じられていたということだ。孫娘と一緒に写真を撮った。今では80歳を超えるお年寄りがいなくなっている。内戦を戦いぬいてきた人だと思うと貴重な存在になってくる。今は平均寿命も50歳代だという。
 更に先に行って、働き者のレアック12歳に会いに行った。学校が新年の休みに入り、家で芋の皮をむいていた。母親も働き者でいつも忙しそうにしているが、父親は正月前でどこかで遊んでいると不満そうに口をとがらせている。「わかるわかる」そのお母さんの気持ち!とにかく身体だけはいたわって欲しいと願った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

15回目のカンボジアへ

2008年04月10日 | カンボジア
前日まで体調が悪かったが、朝5時に起床、成田へ向かった。不思議なもので昨日までの具合の悪さが嘘のようだ。今回から航空券がEチケットに変わり、薄い時刻表の航空券の冊子は持たなくて良くなった。いつものベトナムAIRAINでホーチミン乗り換え、シェムリアップにはその日の夕方に到着。
陽が落ちても30度の暑さが出迎えてくれた。
 いつものゲストハウスは17$の安宿だが、ひとりでツインの部屋を悠々と使うのが好きだ。冷房完備でバスタブもあってシャワー、トイレも有り、充分にお湯も出る。冷蔵庫は大きく飲み物、フィルム、買ってきた水が充分に入るのでうれしい。
早速、部屋に荷物を置くと友人と食事に出た。その夜食べたものは、とりあえずアンコールビールで再開の乾杯、魚の干しもの、ヤシ砂糖の入った雷魚の煮物(ユートレイと言う、一度食べてみたらやみつきになる。)野菜の炒め物など。レストランの青年がデザートにスイカをサービスしてくれた。友人はもちろん日本の女性だが長くカンボジアに滞在し、ツワー会社を経営している。クメール語がペラペラ!頼りになる友人でクメール語は市場のおばさんたちに習ったという努力家だ。明日からはバイクの後ろに乗って村を回る。気持ちがワクワクとする。早く寝よう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする