<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

9時 夜の湯に入って来ました もうやすみます

2019年02月25日 21時13分46秒 | Weblog

9時。Cエレベーターを探して、これに乗って、地下の大浴場に行って、夜の湯を浴びて来ました。湯煙で、広い全体が見渡せないほどでした。湯は透明、無臭。夜も更けてきたので、利用者も少ないようでした。それで、小さな低い声で日本民謡を歌いました(~▽~@)♪♪♪。長湯しました。温まりました。

部屋に戻って、テレビを見ています。NHKニュースセンターのニュースが放送されています。早い時間なのでやすめるかどうか分かりませんが、もうやすみます。少し読書をしたほうがいいのかもしれません。

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ゆっくりしに来たのにゆっくりできないバイキング形式の夕食

2019年02月25日 20時02分51秒 | Weblog

バイキング形式の夕食は味気ない。列に並ぶだけでも面倒臭い。一人箸を使って食べ物を取ってとことこ歩き回るのも、面倒臭い。ゆっくりしに来たのにゆっくりできない。ガツガツの餓鬼にさせられるのも不本意。そそくさと終わりたくなる。おいしく食べた気にならない。連泊を予定しているから、明日もまた同じ料理を食うことになるのだろう。それもつまらない。しかし、客は多い。なにしろ、夕食時間も四交代制なのだ。老人だけではない。若い人が目立つ。人集めにはいいのかもしれない。

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五階にある展望風呂に入って来た

2019年02月25日 17時38分28秒 | Weblog

5階にある展望風呂に湯を浴びて来た。無臭の透明な湯だった。隣に露天風呂もあったが、此処には行かなかった。眼下に、周りを森に囲まれた美しいエメラルドグリーンの、大きな池が静かに揺蕩(たゆた)っていた。絵になる風景だった。大浴場は地下にもある。

此処は大きな、壮大なホテルである。エレベーターが三カ所にある。迷子になってしまいそうだ。これからbエレベーターを使ってレストランに行く。夕食はバイキングのようだ。

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スケッチをしにはるばる雲仙にまで来ています

2019年02月25日 16時02分26秒 | Weblog

スケッチをしにはるばる雲仙に来ています。気温が14℃もあります。背中に汗を感じます。スケッチ道具はトランクに詰めて来ました。描いた絵が売れたらいいのですが、売れるような上手な絵は描けません。100才になったら画展を開きます。それまでに腕を磨きます。時間はたっぷり残されています。ふふふ、計画通りに行けばいいですね。一月に一作品を丁寧に根気良く上手に仕上げたら、(12月x26年)個数が残ります。計算では、ね。今日は当地に泊まります。宿泊料金は出世払いにしてもらえたら、いいけどなあ。部屋の窓の向こうに、お誂え向きの美しいしなやかな風景が広がっています。

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生きるおいしさを味わいきれない者に、これ以上の長さは不適切だろう

2019年02月25日 10時02分21秒 | Weblog

生きているときには生きているようにしているべきである。生きていることをよろこんでいるべきである。よろこびを歌にしているべきである。軽やかに伸びやかに歌っているべきである。

生きている時間は短い。短いけれども深い。深さがある。濃い。濃さがある。高い。高さがある。短いことを恨むべきではない。深く生きていない己を恨むべきである。短くされたということは、それだけ圧縮されたということだ。味わうおいしさの密度を高くされたということだ。それでも味わいきれない者に、長さは不適当だろう。

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それだけの大声の よろこびが溢れ出ているか

2019年02月25日 09時54分06秒 | Weblog

ではこの老爺はどうか。それだけの大声の、よろこびが溢れ出ているか。出していないのであれば、生きていないか、もしくは生きているという実態にそぐわないでいるか、もしくはまことに表層的な生き方に甘んじているか、もしくは死んでいるのも同然なのか、そのどちらかだろう。

庭にコジュケイが遊びに来ている。これは雌のようだ。滅多に来ないのに、来ている。どうしたんだろう。一声二声啼いて飛び去って行った。不思議なことがあるものだ。

 

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この世の意識体はすべてよろこびの意識体である

2019年02月25日 09時48分35秒 | Weblog

意識体はすべてがよろこびの意識体である。この世にあって、この世を生きているものは、すべて意識体であって、よろこびを放出させている。そうしておかないと、あれだけの爽やかさ鮮やかさが生まれ出てこない。黙っていられないけれども、表面的には黙ってそれを忍んでいる。忍んで圧縮して味わっている。

これはひとり小松菜に限ったことではない。ホトケノザだってナズナだってオオイヌノフグリだって、堂々の意識体である。よろこびを隠し得ないでいる。もう大声で叫んでいるようにも見える。アルトだのソプラノだのの音階で、歌っているようにも見える。

 

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わたしの畑で暮らしている生活者

2019年02月25日 09時31分48秒 | Weblog

小松菜は個性を主張する。色を変える。緑が濃いのがあるかと思うと薄いのがある。薄いのは光に透けている。葉はすっと空に伸びている。杓子菜に似ている。わたしの畑で暮らしている。わたしが感じないだけで、彼らはじつは意識体である。<オレは生きているんだぞ>という「オレ」を潜めている。そうなんだ、生きている者が、<それを主張していない>などと言うことはあり得ないことなんだ。

 

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ヤツは失神してしまうかもしれない

2019年02月25日 09時16分54秒 | Weblog

しかし、是がほんとうにおれなのか。そうだ、と頷くように、鏡が映し出している。鏡の像が消えたら、おれは存在しなくなるのか。では、鏡の像もおれなのか。そうかもしれぬ。実像も虚像も二つともおれを指し示している。像の奥、目の奥に、潜んでいる蟹のようなものが、出たり入ったりしているようにも見える。洞穴に潜む蟹は、おれも鏡に映し出せとねだる。ねだるくせに恐怖している。もしも映し出されたら、そのあまりにも貧しさ醜さ愚かさに、ヤツは失神してしまうかもしれない。

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是がおれなのか 貧しい男が映っている

2019年02月25日 07時40分32秒 | Weblog

是がおれなのか。パソコンの画面が暗くなって、そこが鏡になっている。おれが映っている。きらりと眼鏡を掛けている。外から光が射し込んでいる。目が左右に二つある。鼻が縦向きに一つある。低い丘だ。おれの顔だ。何度も見た顔だ。老いて頭に毛がない。睫も眉毛もない。のっぺらぼうで蛸入道だ。人を惹き付ける魅惑というものが欠けている。額に深い皺が寄って苦悩を表現している。痩せ細った貧しい風貌の、是がおれなのか。もう一度呟いてみる。生きている。形が保たれている。死んだら形もなくなるだろう。

 

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