<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

なあんだ つまらない!

2007年06月25日 08時46分49秒 | Weblog
 曇り。涼しい。ま。かんかん照りよりはずっとまし。

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 Yさんは小さなデジタルカメラの趣味。いっしょに道を行くと道に咲いている小さな花だとか、花にとまっている小さな小さな昆虫を接写する。そうしているといかにも嬉しそう。嬉しそうな表情がチャーミング。でも、そんな気持ちはおくびにもださない。Jさんと僕は先を急ぐ。Jさんは、Yさんを軽くあしらう。YさんはJさんの機嫌を取る。

      *

 そういう日が一日だけあった。僕たちはそれっきりになった。それっきりはそれっきりでいい。そこを掘り返そうとする元気も湧かない。なるようになっていって、それで日暮れだ。会ったらまたYさんがカメラを片手に花と昆虫を映す。Jさんがあしらう。僕は無表情を通す。行動は起こさない。

      *

 そういう無表情無行動人間を以前の僕だったら、「なあんだ、つまらない!」で片付けていたはずだ。そのつまらない人間にとっぷりつかっている。ここは山の中の静かな池である。池には八天山の影が絵を描いている。Yさんは、「撮った写真を送ってあげるわ」と言っていたが、送られては来なかった。
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わたしたちは不変の結果というものを持たない

2007年06月24日 22時09分57秒 | Weblog
 うひひひ。ひひ。6月23日のこのブログへの訪問者数が10人だった。嬉しい。

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 じゃ、今夜も元気を出して、っと。何を書いたら、読んでくださる方が喜ばれるかなあ。

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 わたしたちは結果を持たない、という立場をわたしは採っています。勝手にこれを「無結果論」と呼んでいます。これは、<変化しない結果はない>ということです。定着して動かないような永久結果はない。結果もまた変化をし続けるということです。どこまで変化をしていくのか興味のあるところです。

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 だから、結果は水のよう。水のように流れていきます。どこへ流れていくのだろう。
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ドラマのある短歌

2007年06月18日 22時15分56秒 | Weblog
@ それだけのことよと言いて別れきて立ち止まる駅のカンナはおんな   薬王華蔵

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 カンナは大柄。カンナの花は、しかし、葉に隠れておしとやかに見える。つつましやかに見える。自己主張をするおんな気丈夫よりも、つつましやかな女性に惹かれる。

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 男が捨て台詞を吐く。別れる理由? そんな高級なもんあるものか。「嫌になった、それだけのことよ。」 飛び乗った汽車が小さな駅に止まる。急行をやり過ごすために3分停車する。男が開いたデッキから顔を出す。真夏の花のカンナが咲いている。陽炎が立つ空。ひそやかに咲いている。カンナが別れてきたおんなに見えた男は? さて、どうするのだろう? 3番ホームの汽車に飛び乗って詫びを入れに行くのだろうか?

       *

 行ったらおしまいだ。そこで小説は終了する。これでいい。
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渋谷の駅にさしかかる

2007年06月17日 09時32分17秒 | Weblog
 雨が降り出してきたようだ。雨音がする。

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 Nさんと電話をする。ああ、恥ずかしいと思うほど、昔日のとうに枯れてしまった愛を、告白される。ずっと若い頃の話だ。もはや歯に衣を着せない。回想は喋っても聞いても罪はない。

      *

 どうも年を取ると臆面がなくなる。ふううん、ふううん、そんなことがあったの? げへへげへへ知らなかったなと笑って笑う。それっきり。なにか行動に出たということもない。あたりまえだ、Nさんは教え子だから。あたりさわりのない先生に恋の真似事をしてみたのだろう。

      *

@ わが色欲いまだ微かに残るころ渋谷の駅にさしかかりけり  斎藤茂吉

 茂吉は単刀直入に<色欲>を表現した。ユーモアかもしれないが。老いてゆくと老いてゆくことが恐ろしくなる。それをわずかでも止めてくれるものが滾(たぎ)り立つ色欲である。わがこころのうちなる炎である。渋谷の駅にさしかかったと表現したが、茂吉は、自分が死ぬ岸辺の駅にさしかかったことを、いささかの苦みをもって告白したのだろう。微かに残っている色欲はただちに生命欲でもある。

      *

 Nさんの電話でぼくは渋谷の駅を歩く元気をもらったような。
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八ケ岳を見に行きたいなあ

2007年06月16日 11時55分50秒 | Weblog
 長野県の八ケ岳を仰ぎたいなあ。ここは親友のK君が若い頃に農業研修をしたところだ。彼から何度も何度もこの山の名前を聞いた。耳にそれが残っていて、一度も仰いだことがないくせに、まるでふるさとの山のように聳えているのだ、頭の中に。行って、確かめたい。どんな山なのか。まったくイメージとは異なっているのかもしれない。案外どこにでもある山かもしれない。K君はいま中国にいる。中国の大学で日本語学科の講師をしながら中国各地を見て回ってる。あいかわらず行動派だ。ぼくのぐうたらとは真反対だ。ぼくは彼の30年前の活躍の場所に行ってみたいと思っている。夏の八ケ岳は青々としてそびえ立っていて、やさしく僕を迎えてくれるかもしれない。「遅かったじゃないか。待ってたよ。やっと来たんだね。」などと話しかけてくるのかもしれない。
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愛欲と愛染と

2007年06月15日 17時51分49秒 | Weblog
@ 「愛染(あいぜん)に染まりて不染(ふぜん)」示しけるクジャクサボテン孔雀明王    薬王華蔵  (19/6/14付け 読者の文芸 短歌部門 角田紀美子選 一席)

      *

 選評:絢爛たるクジャクサボテンの花の詠みが妙。淫靡さを深く潜ませて咲くさまは、まさしく、愛染に染まりて不染。詰まるところ、煩悩にけがされない清らかさであり、一切の諸毒を除くとされる孔雀明王へと行き着く。明王でありながら忿怒相をとらないところも心得ての詠みは心憎い。

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 選者の評を読んで、作者の私が鏡で見られていたのではないかと疑った。その通りのことを考えながらこの作品に至り着いたのである。いやはや、恐れ入った。選者というのは偉大だ。知識が深い。とてもこの風変わりな歌にここまで寄りつくのは相当の努力をつぎ込まれたのであろうと推察した。たくさんの人が投稿してくる。みなそれぞれがそれぞれの足場に立って、百人百面相の作品を投稿してくるのだ。理解をするのが骨が折れるだろう。

     *

 愛染は愛欲だ。煩悩だ。これにくるまれながら人は生きていく。親の愛もわが子かわいさの愛染愛欲である。男女の愛も愛染愛欲を含んでいる。仏教ではそれを非としない。罪とする考えではなく、むしろ生きてゆくエネルギーとして尊ぶ。蓮の花は泥を栄養分とはすれ、泥に染まることはない。

     *

 クジャクサボテンの花は妖艶な美しさをたたえている。大輪。赤、黄色、白がある。花弁のつややかさはとても植物のそれを遙かに超えている。怪しいほどの美しさだ。

     *

 明王は、忿怒の仏である。観音様が母性的な慈悲の象徴とすれば、明王は男性的な慈悲のそれである。やさしく撫でて教えを聞く者は観音様の範疇である。撫でて聞かない者は、撲つ。叩く。拳を振り上げて威嚇する。明王はあらんかぎりの忿怒相なのである。ところが、孔雀明王はひとり憤怒の面をとりはずしている。<それでいいのだ><おまえの生き方でいいのだ>として受け入れるのである。愛欲に染まっていていい。染まったと見えて、あなたのこころの奥深い仏性は、少しも染まってはいないのだと言ってくれる。

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 孔雀は毒蛇を食べるところからこの名があるらしい。人間の毒は愛欲であって、また愛欲を重しとする罪の概念でもある。汚されて汚されていないとするのである。仏教は明るいのだ。愛染明王という明王もおられる。この明王は、男女の愛を積極的にかなえてくださるという信仰を勝ち得て、水商売の人に尊崇されている。

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可哀想でならない

2007年06月07日 23時25分24秒 | Weblog
 猫は蚊に食われている。夜中中ずっと。何匹も蚊が押し寄せている。耳をやられる。耳をぱくぱく動かす。せわしく動かす。あれだけ毛が深いので蚊は針を刺せないのではないか。猫だけではあるまい。犬もそうだ。外に住んでいる獣はみんな蚊にやられながら暮らしている。獣は蚊取り線香が使えない。フマキラージェットも購入できない。犬は蚊に食われると病気を引き起こす。大きな犬がこれで命を取られることもある。考えると可哀想でならない。

 夏が来る。今日なんかはずいぶん蒸し暑かった。湿度が高かった。蚊が発生をするには十分な好条件がそろった。考えると可哀想でならないが、血を吸う蚊もこれでいのちを永らえているのである。
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死はおおいなる放棄である

2007年06月04日 10時13分12秒 | Weblog
@ <おおいなる放棄>と呼ぼう おのれへの縛を放ったはばたきの死は
                           薬王華蔵

 わたしは一生涯<わたし>に繋がれています。<わたし>が<わたしの肉体>を指していることもあるし、<肉体を駆る御者>を指していることもある。どちらにしても、<わたし>は<わたしをかわいいとする>自己執着である。一生涯、<わたし>を何よりも優先させている。その分の煩悩、愛憎、計算は計り知れない。<おおいなる放棄>は、釈迦その人にのみ形容されるべきかもしれないが、仏陀へ向かって<羽ばたいてゆく>ことで、わたしもまたわが死を<大いなる放棄>と呼びたいと願うのである。
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春一番の光

2007年06月01日 11時55分48秒 | Weblog
☆ この町にほんとに小さき川ありて春の光が一番に来る 前田 康子

 歌詠みの歌はテクニックが見えてそのテクニッシャンぶりが鼻につくことがある。前田康子という人を知らない。たまたまブログで読んだだけである。一読をして、わたしの琴の弦が感じて鳴り出したので、ここに取り上げる。

      *

 歌は共感かもしれない。感じたものを感じ合うのだ。町の中を小さい川が流れている。川だなんて気づかないほどの川だろうから、両岸に生えているスミレ、タンポポ、スカンポ、ギシギシにも目がいかない。そこに立ち止まる作者がいる。川にはちょろちょろと水が流れている。北国だったら雪解けの水は水量が多いだろう。瀬を作っているかもしれない。春の光が降ってくるのが、瀬に立つさざ波でわかる。きらきらして光ってくる。一番先かどうかはあまり大事ではないが、作者にとっての驚きがそれをそう受け取らせたのであろう。作者の心の中にこれでやっと光があふれてくる。さざ波の声が喉元からこぼれてくる。歌は、もともと自然賛歌なのだという思いがこのごろのわたしには強くなってきた。賛歌というのは、すなわち生きている喜びの表明なのだ。素直な感情の歌を読んでみてわたしは幾分素直になってきている。
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