本を読む気にならない。外は春。春があふれていて、あふれる春につきあっていると時間はたちまちに日暮れている。障子を閉めて本を読むしかない。春の怪気炎に対抗できるほどの書があるか。あるにはあるだろうが、途中まで読んでいて、ほっぽりだしてしまう。つまらなく思ってしまう。そしてまた外へ出て行く。草が萌えている。草が花を着けている。一本二本の数ではない。家の周囲はみな春だ。どれにも念入りに挨拶をして回っているとたちまち昼、たちまち夜だ。夜は疲れて酒を飲んで読書をしないで寝てしまう。超怠け者のぼく。ぼくは今日62才の誕生日。家族から昨晩のうちに、誕生プレゼントをもらった。縞縞シャツ。ハンガーに吊している。怠け者がハイカラを身につけるのは、ちとそと恥じられる。
今日は春分の日。昼が夜の長さになる。うれしい。それだけ長く庭に出ていられるから、うれしい。庭のあちこちに、鹿子ユリがあたらしい青い茎を伸ばしている。それを見ている。ほとんど一日中見ている。飽きないで見ている。成長をしていくのが嬉しい。一日ずっと見ていたってそんなに見る間に成長をしていくわけではないけれども、それでもいい。夜は、枕元に小さな鉢を置いて、小さな子どものユリを見ている。灯りをつけて見ている。そして眠る。花にはあまり興が乗らない。花よりも花に至るまでの茎の成長過程が好き。興味関心のない家族の者は、ばかげたことをしている父親を、もはや為す術がないとあきらめて、非難もしなくなった。椅子を持っていってユリの前でずっと見ている。何を見てるの? と訪ねてくる人が声をかける。目の前には草丈10cmほどの一輪の草しかないのだから、変に思うのも無理はない。
朝の空がきれいだ
空を見ている
空は空いろの単一色
雲はない
朝日に輝いて明るい
明るいということだけで
これでもう完成品である
見ているだけでいい
加えるべきなにものもいらない
目に掬っていただくだけで
おいしい
目に掬って空をいただく
空は胃にもたれない
滓も残らない
どれだけ食べても
こちらの斤目が増すわけではない
神の登場を待たない
如来の登場を待たない
わたしの朝に
朝の空が広がっている
愛する人といっしょに見なくとも
美はすでにすっかり成立していて
動じることがない
空を仰いでいる
雲雀が鳴いて駆け上がるが
余計なことである
シェレーの詩を吟じるのも
やはり余計なことである
わたしは
わたしの朝の
朝空を見ている
空を見ている
空は空いろの単一色
雲はない
朝日に輝いて明るい
明るいということだけで
これでもう完成品である
見ているだけでいい
加えるべきなにものもいらない
目に掬っていただくだけで
おいしい
目に掬って空をいただく
空は胃にもたれない
滓も残らない
どれだけ食べても
こちらの斤目が増すわけではない
神の登場を待たない
如来の登場を待たない
わたしの朝に
朝の空が広がっている
愛する人といっしょに見なくとも
美はすでにすっかり成立していて
動じることがない
空を仰いでいる
雲雀が鳴いて駆け上がるが
余計なことである
シェレーの詩を吟じるのも
やはり余計なことである
わたしは
わたしの朝の
朝空を見ている
新聞に千手観音ご開帳の記事が載っていた。唐津市夕日義宗寺の千手観音である。ご開帳は17年ぶりとある。昨日今日までとあって急ぎ拝みたくなった。これから行ってみる。仏像を見ることがとても好きである。恭しく拝むことはもちろんである。
ヘメロカリスは甘草によく似ている。発芽した新緑の姿形がそっくり同じである。花売り業者が、野道の甘草を観賞用に造り替えたものかもしれない。甘草よりもヘメロカリスは胴と首が長い。一重咲き。
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秋に肥料をたくさんやっていたので、今年の発芽の数は多い。地植えを掘りあげて大きめの鉢に移してやった。株分けをして増やす。ヘメロカリスは朝顔みたいに一日花である。6月頃になると毎朝、新しい花をつける。これを見に行く。見て誉める。「きれいだねえ、きみは」と褒める。
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秋に肥料をたくさんやっていたので、今年の発芽の数は多い。地植えを掘りあげて大きめの鉢に移してやった。株分けをして増やす。ヘメロカリスは朝顔みたいに一日花である。6月頃になると毎朝、新しい花をつける。これを見に行く。見て誉める。「きれいだねえ、きみは」と褒める。
@ 切って食べさせる蜜柑がない メジロが鳴いて鳴いて 釈 応帰
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椿の花の花蜜を吸っているらしい。メジロは葉の陰になって見えないが、ゆらりと揺れる枝がある。ずっと食べさせていた蜜柑もどうやらおしまいのようだ。椿の花の花蜜はおいしいか。ほんのわずかな花蜜だろうに。
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椿の花の花蜜を吸っているらしい。メジロは葉の陰になって見えないが、ゆらりと揺れる枝がある。ずっと食べさせていた蜜柑もどうやらおしまいのようだ。椿の花の花蜜はおいしいか。ほんのわずかな花蜜だろうに。
「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや。」歎異抄の悪人正機説である。
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この世で善をなした人でさえも阿弥陀仏の浄土である極楽へ往生することができる。だったら、悪をなした人がどうして往生できないはずがあろうか。悪をなした者こそがもっとも阿弥陀仏の正機(目当て)である。阿弥陀仏は苦しみ悩む者を救うという願いを建てられた方なのだから。・・・というのである。
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川に溺れている者を助けるのが先のはずである。この世の地獄の川で溺れているのは悪人である。善人は上手に川を泳ぎ切っている。土手に立って見ているわれわれだって、溺れている人にまず浮き袋を投げるだろう。まして仏である。泳ぎの巧い人を助けるのは仏のする仕事ではない。
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善人は自力で浄土に往生できる人のことである。悪人は自力ではとても往生はできない。他力つまり仏の力を頼むしかないのである。わたしの力ではどうにもならないと諦めた者に仏の力が宿るのであろう。ああ、よかったと思う。悪人正機が用意されていなかったら、死ぬに死ねないところだった。
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この世で善をなした人でさえも阿弥陀仏の浄土である極楽へ往生することができる。だったら、悪をなした人がどうして往生できないはずがあろうか。悪をなした者こそがもっとも阿弥陀仏の正機(目当て)である。阿弥陀仏は苦しみ悩む者を救うという願いを建てられた方なのだから。・・・というのである。
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川に溺れている者を助けるのが先のはずである。この世の地獄の川で溺れているのは悪人である。善人は上手に川を泳ぎ切っている。土手に立って見ているわれわれだって、溺れている人にまず浮き袋を投げるだろう。まして仏である。泳ぎの巧い人を助けるのは仏のする仕事ではない。
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善人は自力で浄土に往生できる人のことである。悪人は自力ではとても往生はできない。他力つまり仏の力を頼むしかないのである。わたしの力ではどうにもならないと諦めた者に仏の力が宿るのであろう。ああ、よかったと思う。悪人正機が用意されていなかったら、死ぬに死ねないところだった。