<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

わたしの死後100年、1000年のイメージ

2017年12月17日 07時24分11秒 | Weblog

外は雪が降り出しています。ちらちらちらと降っています。綿雪です。わたしはわたしの死後のことを考えています。死後を考えることは出来るのです。わたしはわたしの都合のいい考え方をして進めていきます。

死後1年、10年、100年、1000年経ったら? そんなことを考えます。わたしの死後の話です。わたしの肉体は死滅してありませんが、わたしは存在していると思います。たぶん、場所を移動していると思います。まあ、引っ越しのようなものです。

でも、こちらにもちょくちょく訪れています。物質ではなくなっていますから、移動が簡単なのです。光や音が届いているのに似ています。

無色無形なのですが、わたしは思い考えることが出来ます。「我思う故に我あり」はここでもしっかり成立しています。わたしは意思そのものです。それがとても優れた働きをしますから「霊」とも呼ばれています。「霊」はもともと形容詞で「スグレテイル」ことを表します。

わたしは懐かしんでいます。生きていた日々を懐かしんでいます。そして、「あんなことをすればよかった」だとか「こんなことはすべきではなかったなあ」などと口走っています。生きている内にしか出来ないことがたうさんたくさんあったことに、ようやく気付いています。

死後になると、わずかに賢者になっているみたいです。真理を見通せる目を授かっているようです。目は見えない目です。形のない目です。でもよおく見えます。核心を掴めます。ここでもガイド(指導者)がついていてくれているようです。

なによりかにより、わたしは明るく温かい発想が出来るようになっています。だから表情がおだやかです。にっこりしていてやさしいです。安定しています。ここでなら100年1000年も厭わないなあと思えます。

でもときどきふらりと生きていたところへ立ち戻ってきます。レベルアップしているのでそれを生かしたくなっています。仏教でいう還相廻向(かんそうえこう)です。還流して戻って来て、身についた功徳(くどく・利便性・利益)を廻向する立場に変化しています。「廻向」とは「廻し向けること」です。

分かり易く現代流に表現するとわたしは天使の羽を広げています。天使の心を持っています。ガイドができます。保護者になっています。苦しみにあえぐ段階にいる人々を助け上げようとします。守ろうとします。導こうとします。その数が一人二人ではありませんから、けっこうこれで忙しくなります。「ハイヤーセルフ(より進化向上した自分自身)」とも呼ばれています。

でも、これにもある一定の期間があります。わたしは次の段階へ進んで行かねばなりません。わたしの進歩向上の旅は続いているのです。旅が続くたびに、わたしは立ち寄った国々で仏陀が説かれた法華経を説いています。阿弥陀経や理趣経も説いています。つまり化仏(けぶつ)しているのです。仏陀に代わって仏法を説いているのですから。

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わたしの明るさ・明度は、行く先々の地上でのエスケイプ活動によって数段階アップしています。輝きが増しています。わたしの肉体の死後1000年、わたしの輝きはほぼもう大陽と同じくらいになっていますから、直接目では見られなくなっています。だから、わたしがそこにいても、そこにいることは確かめられません。

ふふ。ふふふ。ね、都合のいい発想のトロッコ列車だったでしょ。このトロッコ列車を押してくれている者がいます。かすかにほのかに翼が見えます。キリスト教流に表現すればエンジェル(天使)のような、そういう白い、雪のように白い、淡々(あわあわ)とした翼です。

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屋根瓦には雪が積もっているようです わずかに

2017年12月17日 07時03分48秒 | Weblog

おはようございます。屋根瓦にはどうやら雪が積もっているようです。うっすらふわふわとではありますが。いよいよ冬が深まって来ます。寝ている間に合計4回も厠通いをしました。寒いせいでしょうか。或いは深まる老いのせいでしょうか。

7時になっていますが、家族の者も起き出してきません。みんなゆっくりしているようです。今日は日曜日です。わたしは寝るのに厭きました。夜が長いのです。布団を抜け出して炬燵の中に座りました。部屋にはエアコンもオンにして。手指がかじかみます。

夜中、電灯を明るくして仏教書を広げました。眠気が来るまで1時間そこらも読んでいました。それが繰り返されます。老人の夜はことさら長いのです。雑誌「大法輪」には仏教界の各宗派の貫首管長さん方が新春のメッセージを届けておられました。

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4時を回った 冷えるなあ アイスクリームになりそう

2017年12月17日 04時03分57秒 | Weblog

深い深い夜にいる。闇の圧力が最大値を示す。物音が消えている。底なし沼が吸い込んでしまったのだろう。冷えるなあ。僕のアイスクリームが出来上がりそうな。

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気が合うと一気に警戒心が薄らぐ

2017年12月16日 19時32分09秒 | Weblog

発信している周波数が周りとピタリと合えば、そこで一気に気が合って、わいわい盛り上がるのかも知れない。

すべてのエネルギーは波の動きをする。周波数となる。相手に届く。心もそうだ。洩れない。やはりエネルギーである。

鍵穴と鍵がぴったり一致しなければ扉は開かない。心が発信する周波数も鍵穴と鍵の関係を保っている。

ABCD.....xyz。さまざまな周波数の違いがある。違いがあるが、同調もする。嬉しくないことよりも嬉しい方を発信しているときの方が、受け入られ易いはずである。

気が合うと一気に警戒心が薄らぐ。大丈夫だと判断する。攻撃されてくることがないと判断する。ドアが自然に開く。光が射してくる。明るくなる。明るい方がいいに決まっている。

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椎茸料理は何でもおいしい 椎茸様々だ

2017年12月16日 19時22分31秒 | Weblog

椎茸が大好き。塩焼きでもいいし味噌炒めでもいい。でも醤油と少々の砂糖で味付けして煮て食べる。その方がおいしく感じられる。今日は鍋料理。鍋の中にも入っていた。分厚い椎茸が。満足した。吸い物にも合う。

椎茸菌が椎茸を生やしてくれる。椎の木やコナラの木に。菌様々である。乾燥椎茸は香りがいい。母がよく料理してくれたので、椎茸料理で直ぐさま母を想起するのかも知れない。

 

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加害者には被害者意識が働く 意識は歪む

2017年12月16日 17時41分27秒 | Weblog

霜の日の大根白し 加害者の我に被害者意識深しや     薬王華蔵

上の句と下の句に相関性はない。互いに独立し合っている。そういう歌もあっていいのではないか。 

此処では上の句は叙景。下の句は叙情。己の心理描写になっている。

加害者意識と被害者意識が交錯している。捻れている。相互移管している。加害者の立場に居る自分であっても、被害者に徹していた方が正義者を装える。そういう利点がある。都合のいい話だけど、無意識でそうしている。自己撞着だ。被害者が被害者の立場に我慢がならなくて途端に加害者になるということも、実は多いのではないか。意識というのは絡まり合っているのではないか。見ようによってどうにでも変化するのではないか。己を都合のいい位置に己を据えて逃げ延びる自分が居る。社会が悪い、世の中が悪いなんて不平を鳴らすのはしょっちゅうのことだ。

霜の日の大根は白い。いよいよ白い。白くて冷たい。此は不変だ。大根に潔さが見えた朝の歌。

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いやはや物好き もはや中毒患者だ

2017年12月16日 17時06分15秒 | Weblog

寒風吹きすさぶこの寒空の下、畑に出て働いた働いた。ぶるぶる震えながら。これはもはや野良仕事中毒患者だ。アルコール中毒者に等しい。これをやらないと震えが来てしまう。(此は冗談だが) いやはやもの好き。今日是非しなければならないというものでもないのに。

最後のジャガ芋(インカの目覚めという黒い芋)を掘り上げた。そこを耕し平らにして、プランターから間引いてきたさまざまな野菜苗を植え付けた。植え付けが済んで水撒きをしてお終いにした。風が強くて水撒きの水が風で吹き飛んだ。鼻水が垂れ落ちる。

5時。黒い雲が西の空に流れていく。もう日が暮れたも同然だ。途端に腹が減ってきた。我ながら感心感心。炬燵の中に温まっていればいいものを、寒風の中に飛び出して来て野良仕事に精を出す老爺。巷ではインフルエンザが流行りだしてきているというのに。

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にうまんだらばあけ

2017年12月16日 14時18分20秒 | Weblog

にうまんだらばあけ。爾(そ)の時曼陀羅華(まんだらば)が雨を成して天上から降り出してきた。曼陀羅華は天上界の花である。その時というのは、仏陀が現れたときである。花の雨を降らしたのは天上界の住人たち菩薩たちである。花は仏陀の足元に降り注いで来た。こうして天上天下が皆こぞってこの世が仏の世界になったことを祝福をしたのである。

今日冬の日、白い雲が花片を成してはらはらはらはら降って来る。

仏陀は今もこの地においでになるから曼陀羅華の花の雨は降って来ているのである。わたしにはそれが見えていないのだが。

今日冬の日、白い雲が花片を成してはらはらはらはら降って来る。

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深い深いところから僕を支持している声が聞こえてくる

2017年12月16日 13時48分01秒 | Weblog

僕に深さはあるか。見えているだけなのか。表面はわたしの場合、肉体である、それを蔽っている皮膚である。その向こうに何かあるのか。皮膚を掘り下げたら、赤い血が出て来るだけかも知れぬ。筋肉や骨にぶつかるだけかもしれぬ。それがわたしの深さか。心臓があったり肝臓があったり腎臓・膵臓・脾臓があったり、肺や気管支や消化器官があったりして、そこらあたりに僕の深さがあって、その深さに至り着くのか。或いは左脳右脳の脳が僕の存在の最奥を形成しているのか。

僕に深さはあるのか。渓谷を行くと深みがある。青みがかっている。澱んでいる。瀞が出来ている。そこで沈思黙考が成されているように見える。空を仰ぐと空にも深みがある。そこもやはり青みがかっている。雑じらずに澄んでいる。虚空蔵菩薩たちのの瞑想の場に相応しいところのようにしている。

僕に深さはあるのか。僕という者の中に海があって、そこに深さがあるのか。深さというのは見えないのか。見えているところは浅いとこなのか。深い深いところから僕を支持している声が聞こえてくる。そこも僕なのか。僕を離れた何処か特定なところなのか。

深い深いところから僕を支持している声が聞こえてくる。声の発信源は僕の深いところなのか。全体の深いところなのか。声というのは宇宙の深いところにしかあらわれないのか。それが虚空の中を波になって伝わってきているだけかもしれない。若しそうなら、僕に僕の深さは不要になってくる。

僕は浅瀬の波打ち際の砂浜にごろんと転がっているだけでいいことになる。実際そうして遊んでいるだけなのだろう。

波打ち際だって深さを持っている。掘り下げていけばマグマを通過する。マントルにぶつかる。地球の核に突き当たる。そういうところがあって、やっと表層部分があるのである。だったらやっぱり支えている声がそこにあるのだ。僕を支えているという声がそこで発信されているはずなのだ。

などなどなど昼から考えた。僕の深さは全体の深さである。此が今日の僕の結論である。僕がそこに辿り着けなくても深さそのものはある。そこから僕を支持するエネルギーが貫通してきている。心配は要らない。

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こんなことをしていて楽しいのか 楽しい

2017年12月16日 13時02分11秒 | Weblog

「そんなことをしていて、それで楽しいのだろうか」 曰く「此が結構楽しい」「やってみるといい」

僕のままごと遊び、砂遊び、土遊びのことである。まるで幼児レベルだ、やっている本人もそう思う。庭に出て遊ぶ。畑に出て遊ぶ。砂や土を弄って遊ぶ。花や野菜を育てる。それを賞(め)でる。嘆息して育ったものを賞賛する。

いやいや、それだけが楽しい遊びではあるまい。みなさんのやっていることは、どれでもきっとそうなのである。そうに違いない。で、にこりにこり楽しそうにして暮らしておられるのだ、きっと。

土遊びで楽しいのだから、僕は簡単素朴に造られている人間のようだ。ちょいと時間があるともう外に出てシャベルを握っている。光の中や風の中に、一人で遊んでいる。

人様のように羽振りを上げていないでも、業績を上げていないでも、偉くなっていないでも、それはそれでいいことになっている。そういう遊びでは遊びになっていないと非難されるかも知れないが、お構いなしである。けっこう時間を忘れて呆けていられるのである。

まったく安上がりだ。容易く安く出来ているものだ。こんなことを感心してお昼になった。お昼は朝の残りの味噌汁と山菜ご飯だった。味噌汁は我が家の畑で獲れた小松菜が入っていた。

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