<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

野菜の間引きをしています

2014年11月30日 09時49分26秒 | Weblog

おはよう。雨がぽつんぽつんと降って来ました。さぶろうはプランターに育てている野菜類を間引きしています。勢いよく茂ってきたのでプランターをはみ出しています。これは人様にお上げします。食べて頂く人がいるので楽しく作れます。

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共存共栄をする

2014年11月29日 10時41分06秒 | Weblog

畑のキャベツを収獲しました。虫に食い荒らされているのを一個だけ。巻いた葉っぱの中からでっかい青虫が二匹現れました。11月も末になって、朝夕寒くなっても平気のよう。ぐるぐる巻いた葉っぱの内側は適度な温度が保たれているようです。羽化してもうすぐ蝶になる寸前なのかな。なるほど道理で冬でもひらひら黄蝶が飛んでいるわけですね。われわれ人間は青虫の食い散らした残り、すっかり網目状になっているのをいただくことになります。切り取った葉っぱの一枚に青虫を乗せてあげました。これで共存共栄です。

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日が翳って来た

2014年11月28日 10時30分19秒 | Weblog

とろとろとろとろ。こっくりこっくりこっくり。座椅子に座ったまま居眠りをしている。するうちに、窓の外では日が翳ってきた。この分では雨になるのかもしれない。さぶろうは、1日なんにもしていない。生産活動になんら携わっていない。サイクリングにもこの頃は行こうとしない。

おやおや。時忘れの花を一輪咲かせている姫林檎の木に、ヒヨドリが来ている。オスとメスの番のようだ。ヒーヨヒーヨと鳴いて畑のブロッコリーの大きな葉を啄んでいる。大食漢なので、ボロボロになるまで食い尽くしてしまうこともある。蜜柑を割って、食べられるようにしてあげればいいが、面倒がって実行に移していない。

それ、ざんざんばららと雨の音がし出したようだ。

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精神が錬磨されれば輝き出すだろう

2014年11月28日 09時56分40秒 | Weblog

庭先の紅葉が真っ赤に色づいている。きれいだ。木の根元には石蕗が咲いて黄金を見せている。その隣で日本水仙の純潔が白く眩しい。

身心を病む者は苦しむ。苦しみから逃げようがないので向き合っているしかない。押すか引くかのぎりぎりの押し合いをして過ごすことになる。これで精神が錬磨される。やがてそれは光沢を伴ってくる。そして時間の経過とともに輝き出すことになる。

まだ若いCさんが病んでいる。はじめ体の持病を病んでいたが病の進行が昂じてきて次々に新たな症状を併発し、受け止めきれないうちに今度は精神が病んだ。彼女は鬱を抱いてさらに苦しむ。入院生活は長期化した。我が子の病を看病しているご両親が日に夜に嘆かれる。なんとお慰めしていいかわからない。

おつらいだろう、おつらいだろう。病む者も看病をする者もつらい。ここをどうやって乗り越えるか。乗り越えていけるようにと黙って祈るしかない。

紅葉の季節がやがて過ぎる。銀杏も散り始めて樹下の小径を一面覆い尽くしている。来週からはもっと気温が低くなりそうだ。病室の病人のことが案じられるが、彼女は孤独と向き合って他者の侵入をも拒否しているようだ。

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面白いことになってきたぞ

2014年11月27日 10時15分47秒 | Weblog

「おまじない」とは「お呪い」と書く。呪文のことだ。オープンセサミひらけごまは合い言葉だろうから、お呪いにはあたらないかも知れない。呪文は言葉の霊力であるから、「言霊(ことだま)」である。霊力は神秘の力だから、人間に本来具わっている感覚神通力の一つである。本来的に具有しているのならこれを使わない手はない。

これをどこに向かって発するか。外なるものに向かってこれを発して願成就させるか、それとも内なるものに向かってこれを発して、いわばおのれの潜在能力といった摩訶不思議力を引き出させるか。内に向かってだろう。こうして神秘の己と対話して神秘の潜在能力を引き出してくるのだ。(自己を神秘化することは神秘の力を引き出す大前提だ)。こうやって自己の内なる海の海底から高熱のマグマが噴出してくると、これは自己を動かす莫大なエネルギーとなり得る。

千夜一夜物語に出て来る「アラジンと魔法のランプ」には指輪の魔神やランプの魔神が登場する。呪文を唱え指輪やランプをこするとご主人様アラジンの願いを聞いてくれることになっている。この魔神さまは自己の内に住む摩訶不思議なエネルギーのことだと解釈すると理解がしやすくなりそうだ。アラジンはもともと怠け者の貧乏人。ところが彼は神秘の自己と遭遇することになる。ありふれた自己からの変身である。呪文はこのときの道具の役割を果たす。

「おやおや、面白いことになってきたぞ」「どんどん楽しくなってきたぞ」これがありふれた己に向かって語りかける呪文である。呪文はこれをたびたび発している内にほんものになって働き出すようになる。後はこんがらかった紐玉がするする解けるように活動展開をしていく。

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三日月さんが出ていた

2014年11月27日 09時55分41秒 | Weblog

ゆんべ(昨夕)は三日月さんが西の空に出て光っていた。夜更けてもう一度外へ出て行ってしばらく眺めた。ああ、美しいと思った。

この世に美しいものが存在していてそれを美しいと思うことができる。その位置に立っていることで、自分は奇しくも仏陀の目と等しくなっているのだ、いとも易く。こじ開ける労もなくおのずからに。するりと。

即身にしてそのまま仏の目となるのはわけもないことだったのだ。美しいものがそこに現れ出たときに、それを美しいと受け止めたらよかったのだ。人は、月の夜には仏陀に成っている、瞬時とはいえど。

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こんなに薄っぺらな暮らしでいいのか

2014年11月26日 13時27分22秒 | Weblog

午後から雨。ぽつりぽつり。風も金柑の木を揺らしている。寒そう。外には出ていけない。炬燵のお守りをしている。一人で居るのが気楽だから、そうなる。

雨降りの日くらいは出掛けて行って交遊したらよかろうけれど、同調するのは面倒だ。同調をしなければならんというところが束縛になる。疲れる。要するにどうしようもない我が儘者なのである。

午前中は厚手のジャンパーを着込んでしばらく畑の草取りをした。野菜に施肥をしているので、周囲に草が蔓延るのも早い。その上、冬の草は根が深い。どうせ、暇潰しだ。焦らず休み休み作業をした。

畑の隅っこに日本水仙が咲き出したのを見つけた。清楚で美しい。そこへ座り込んで、きれいだきれいだの声をかける。庭の山茶花も赤、白、ピンクと咲いている。花のない季節だから、希少価値がある。

「おまへ、そんなことをしているのか」という叱責が聞こえて来そうで困る。幸いにして今日の日を死なずに居る者は、それだけ大切に重厚に深々と生きているべきである。社会に奉仕するべきである。そうであるのに、そうであるのに、どうだ、この男は籠城して裏表葉っぱ一枚のような薄っぺらな暮らしを続けているばかりである。

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櫨もみじだってそうしているではないか

2014年11月25日 16時24分02秒 | Weblog

天と地のそうがかりでさぶろうを輝かそうとしているので、いかにうすのろとは言え、さぶろうは輝いているしかないではないか。おのれの内から輝かさなくともいいのだ。輝かせられているのだ。川土手の櫨紅葉がまっかだ。櫨紅葉だってそうしているではないか。さぶろうは日当たりに出て冬日を浴びている。

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火だるまの男が涙をぽろぽろ

2014年11月25日 16時02分26秒 | Weblog

ぽろぽろと涙が落ちてくる。夜中、経典を読み進めているとこうなる。経典はすべてさぶろうの未来成仏、はては現在成仏のことが説かれている。これを聞かないでいたら、暗愚愚鈍のさぶろうに、この方向への歩みは招来されなかったはずである。経典の文句の一々、一々がさぶろうへの語りかけになっている。もうすぐ死んでしまうさぶろうを死なせてなるか、空手のまま死なせてなるか、無明煩悩の火だるまのまま死なせてなるかという心配りに満ちている。さぶろうはこのあたたかい気持ちに触れる。するとぽろぽろと涙が膝元に落ちてくる。おれはこうまで大切にされていたのか、十方三千世界にこうまで大切にされるだけの値打ちがあったのかと思うのである。成仏とは愚鈍の人間のままにはしておかぬぞ、進歩向上の姿勢を取る仏にしてやるぞということである。輝かせて輝かせてやろうという大慈悲心の仏に、波長を合わせて同化する道筋を歩ましめてもらうことである。さぶろうよ、さぶろうよ、さぶろうよ明るい未来成仏に向かって歩めと、さぶろうを呼ぶ声が経典の奥からひっきりなしに聞こえてくる。

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おのれを臭くまでして

2014年11月25日 15時36分59秒 | Weblog

「米が異なったもの」と書く。つまり口から食べた米のご飯が消化されて変化した状態がこれだ。トイレに行くとこれがお尻から排出される。これですっきりする。便座から立ち上がって晴れ晴れとなる。

さて、ここまでの工程を誰が引き受けたか。

さぶろうは箸でこれを挟んで口にいれよく噛んで呑み込んだところまでである。それから先はさぶろうの行為にはよらない。消化過程、栄養吸収過程も、後始末の処理過程も排出過程もすべてオートマチックなのである。

オートマチックといったってこれに携わるものがいなければならない。口、歯、下、唾液、食道、胃、消化酵素、十二指腸、小腸、大腸、直腸、肛門、血液、細胞、筋肉、脳の命令系統などなど、ざっとざっと総動員法が出されて夜中中働きづめに働いているのである。ありがたいものだと思う。

これでロボットさぶろうは意識を持つことができる。手足を動かすことができる。栄養補給された五体が活動をし始める。エネルギー源が燃えて熱を出す。生命活動をすることができる。脳が考える。こころが感じる。精神が高揚する。魂が充足をする。これらの諸活動の源流になってくれるのが消化工程だ。

さぶろうは米の異なったものに向かって、オートマチック作業従事者一同に向かって、従って、深々とお辞儀をしてトイレを出て来るのだ。おのれを臭くまでして労働奉仕をしてくれたのであるから、臭いなどと文句を言ってはいられない。

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