<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

畑の片隅に早咲きの菜の花が一叢(ひとむら)

2018年01月19日 10時14分08秒 | Weblog

薄ら寒い日。光が射してこない。風もない。畑の片隅に早咲きの菜の花がひとむれ咲いて、ひとり輝きを見せている。痰が詰まって苦しい。医者からもらってきたトローチを嘗める。1月19日の山里に鶯はまだ飛んでこない。浮かれることはない。見つからない。法華経の経典から随喜功徳品を読む。読んで心弾ませたい。しかし、解説の行き届いた本がなければ凡愚の老爺は、なかなか読みこなせない。

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こんなことをしていてはいけないなあ

2018年01月19日 05時14分57秒 | Weblog

こんなことをしちゃいられないなあ。無駄に過ごしていちゃいけないなあ。そういう反省をわたしに強いるような夢だった。目覚めてからも、なるほどその通りだと思った。何はさておいても、此処に生きている間に、少しでも僅かでも、我が人格をこそ磨くべきであると思った。ところがわたしはそうではない。生来、怠け者である。加えてかたくなである。不勉強の上に横着である。実を着けていない白穂なのに、ツンとしている。お高くとまっているのが得手である。どうしようもない。修理がきかない。でもこれではいけない。そこだけは合点できる。無駄に過ごしているのである。船の舵を大きく切り換えさねばならないなあと思った。

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仏の差し向けられる功徳(=利益)だけは我が身に満ちて来る

2018年01月18日 19時36分58秒 | Weblog

横着者がふむふむふむと言って頷(うなず)いている。頷こうとしている。横着者のわたしを頷かせようとする力が起きている。力の波が大きく小さくひたひたひたとこのわたしへわたしへと打ち寄せている。横着者のわたしが思わず感涙にむせぼうとしている。

五濁(ごじょく)悪世(あくせ)の有情(うじょう)の 選択(せんじゃく)本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳(くどく)は行者の身に満てり     親鸞聖人の「和讃」より

悪世の有情のわたしが、よも、阿弥陀仏の本願を信じ得ることなどありえないのである。しかも五濁にまみれているわたしである。阿弥陀仏の一人働きによるしかないのである。その働きは不可称である。不可説である。不可思議である。すべてわたしの計らいを超えているのである。それはもっぱらで、名づけることも出来ないし、説き明かすことも出来ないし、思い量ることもできないものである。そして阿弥陀仏の差し向けられる利益だけは我が身に満ちて来るのである。

わたしは五濁を生きる者である。わたしは悪世を生きる者である。それは少しも変わってはいない。

五濁とは、1,劫濁=時代の汚れ 2,衆生濁=苦の濁り 3,煩悩濁=愛欲の濁り 4,命濁(みょうじょく)=寿命を蔑視する濁り 5,見濁(けんじょく)=思想見解の濁り とされる。五濁悪世とは末法の世のことである。仏の教えを無視する時代のことである。

有情とは梵語サットバアのことで、生存する者の謂。心の働きに左右される者=衆生に等しい。

 

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夜になるとわたしはやすんでいるというのに

2018年01月18日 19時19分42秒 | Weblog

夜になるとわたしはやすんでいるのに、心臓が起きている。起きて活動を続けている。やすまないで起きている。起きて拍動している。どっくんどっくんとしている。すまないなあ。

夜になるとわたしは眠りに就いているのに、肺は起きている。起きて呼吸をし続けている。やすむことがない。起きている。起きてふうふうはあはあと吐いて吸っている。すまないなあ。

夜になるとわたしはごろんと横になっているのに、細胞たちはみんな起きている。起きて盛んに活動をしている。わたしを元気にしようとしてやすみなく努力している。すまないなあ。

夜になるとわたしはぐったりして我を忘れているのに、地球が起きている。太陽が起きている。宇宙が起きている。起きてわたしが生きて行けるようにひたすらな活動を続けている。すまないなあ。

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これですべてです すべてが償われています

2018年01月18日 19時04分46秒 | Weblog

ぶっだんさらなんがっちゃーみー だんまんさらなんがっちゃーみー さんがんさらなんがっちゃーみー

わたしは仏陀に全面的に帰依致します。よって、仏陀の説かれた教えと教えの現実とに全面的に帰依致します。よって、仏陀の説かれた教えを信じて実践する者に全面的に帰依致します。

これですべてです。すべてが償われています。これでわたしの文句の差し挟むところがなくなりました。

そのはずである。そのはずであるが、そこをいつもはみ出している。そういう自分がいる。しかしそれでいいのである。そうしていても、しっかりと約束事が成就するからそれでいいのである。

第一条「わたしは仏陀に帰依致します」という表明で、既にすべてが完了してしまっているのである。

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この度、此処で次の生で仏と成る身となっていたい

2018年01月18日 17時45分36秒 | Weblog

無理な解釈があるかも知れない。願望に過ぎないところがあるかも知れない。でもそうまでして、此処で安心安堵を得たいのである、わたしは。

五十六億七千万 弥勒菩薩は年を経ん まことの信心得る人は このたびさとりをひらくべし      親鸞聖人の「和讃」より

「このたび」というのは、「生まれている現在の段階で」ということである。「今生で」ということである。「生きている間に」ということである。

仏陀の教えが滅びる時代がある。その間を償うのは弥勒菩薩である。しかし救世主の弥勒菩薩は、釈迦如来亡き後、五十六億七千万年を経過した後でないと、この地上に出現されない。その間は無仏である。わたしが仏に成るより他に手立てはないのである。わたしの成仏が急がれているのである。しかし、大丈夫、宇宙仏の阿弥陀如来がそこにいて親しく救済活動をされるからである。

阿弥陀如来の大悲廻向の功徳によって、我が身の信心を与えられるのである。信心を賜るという既成の状況が整ってわたしは「このたび」ここで次生(じしょう)に仏と成るべく約束されるのである。次の生とは? 阿弥陀仏の浄土の生である。

我が力によってそうなるのではない。我が才覚によってそうなるのではない。阿弥陀仏の廻向によってそうなるのである。仏と成るべき身と定められるのである。

「このたび」とはそういう「とき」ということである。その大切な時を過ごしているのである。その重要な時を過ごしているのである、わたしは此処で。そしてそれはそうなると定まっているのである。そこが大乗仏教の教えたる所以である。

安心していいのである。「このたび」を安心しきって過ごしていていいのである。

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一日で何をなし得たか この問いは重たい

2018年01月18日 17時31分38秒 | Weblog

日が暮れかけてきた。薄暗くなってきた。こうして一日を過ごせたのである。爾(なんじ)はこの一日で何をなし得たか。人様のためになるよいことを一つでもなし得たか。

何をなし得たか。この問いは重たい。大岩のように重たくて、答えきれないのだが、答えられない者にも等しく夕暮れが訪れて来てくれるのである。有り難いではないか。

重たい問いが何処からも発せられることがない、ということがまた有り難いではないか。日は自ずからにして静々と暮れていく。おだやかに暮れていく。

 

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楽しいことはすべて遊びの範疇に入るのなら

2018年01月18日 17時03分28秒 | Weblog

午後から我が家の周囲、庭の小径の草取りをして遊んだ。風が少しあったが、寒さは感じなかった。楽しかった。楽しいことはすべて遊びの範疇に入るのなら、遊ぶことばっかりということになる。この寒い冬でも草は次々に生えて来る。めげるということがない。むしろ青々として力強い。面と向かって見ているだけでこちらも元気を分けてもらえる。そういうところもある。で、もやもやが吹っ切れた。せいせいした。草さまさまあである。抜いた草は草山に積み上げた。やがてこれは土に帰っていく。そして堆肥になる。草を抜いた跡はきれいさっぱりになった。

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畢竟笑い飛ばした者が勝ち

2018年01月18日 15時44分43秒 | Weblog

仕方がないじゃん。わたしの思い通りには行かないんだから。またいいこともあるさ。高くなるのは低いときがあるから。低くなるのは高いときがあるから。すべては波になって進む。今日のところは今日のところ。明日へ繋がっている。べろべろあかんべえ~。泣いた鬼さんもう笑う。笑うが勝ち。畢竟、笑い飛ばした者が勝ち。

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次はわたしの出番なのだが・・・

2018年01月18日 13時49分32秒 | Weblog

わたしの父方の祖母は88歳で亡くなった。死ぬ直前は「お迎えが遅いなあ」「早くお迎えが来て欲しい」を連発するようになった。老耄をしていたところもあった。高齢になるとそれが願望になるのだろうか。母に背負われてお風呂に行っていた。お念仏を能く称えていた。ある夜更けに寝ているお座敷で息を引き取った。いかにも自然に。苦しまずに。お迎えがやっと来たので、よろこんで、いそいそして出発したに違いない。祖父は、わたしが生まれる前に他界していたので何も知らない。

父の死に際も立派だった。およそ恐れというものを口にしなかった。70歳丁度で、病院で亡くなった。肝臓を悪くしていて腹が膨れて何度も腹から水を抜いてもらっていた。苦しかったろうが、それを口にしなかった。苦しい表情もしなかった。見事な死に際をわたしに見せてくれた。父も仏壇に座って念仏を称えている人だった。母は姉の処で亡くなったので、詳細を知らない。誤飲をしたことが直接の死因になったらしい。90歳だった。4歳違いの弟が死んで3年が経つ。彼はお坊さんの資格を得ていた。迷いを捨てきっているようだった。成仏しているから葬式を無用とした。読経廻向も要らないと遺言していた。その通りに堂々とした安らかな死に際だった。

次はわたしの出番なのだが、いまだに覚悟が決まっていない。念仏も腹に座っていない。もう間近に迫ってきているというのに、不安だらけだ。

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