<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

目の前の人が観音の化身かも

2014年10月31日 15時02分47秒 | Weblog

さまざまな観音様の示現とマントラ(真言)を調べてみました。まだいろいろな名前の観音様がおられるようです。

聖観音(おん・あろりきゃ・そわか)

千手観音(おん・ばざら・たらま・きりく)

如意輪観音(おん・はんどめい・しんだ・まに・じんば・ら・うん)

十一面観音(おん・まか・きゃろにきゃ・そわか)

不空羂索観音(おん・あぼきゃ・びじゃしゃ・うん・はった)

准てい観音(おん・しゃれい・それい・そんでい・そわか)

以上が7観音とされている。

次の観音様もよく画材になっておられますね。

馬頭観音(おん・あみりと・どはんば・うん・はった)

白衣観音(おん・しべいてい・しべいてい・はんだら・ばしに・そわか)

楊柳観音(おん・ばざらだらま・べいさじゃ・らじゃや・そわか)

観音様は救世の菩薩様ですから、これでもかこれでもかというくらいに身を変えて現れて来てくださいます。マントラは仏さまの言語。仏さまは仏さまの言語でお呼びします。

目の前に居る人が、すなわちわたしを救済するために現れた観音様の、化身かもしれません。目の前の人を、わたしを救済するために出現した菩薩として、仰ぎ見るというところが、すでに観音様の救済手法のイントロなのかもしれません。

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念(今の心=思い)は交流電流である

2014年10月31日 13時01分19秒 | Weblog

念彼観音力(ネンピカンノンリキ)=「彼の観音の力を念ずれば」という句が法華経観世音菩薩品(通称、観音経)偈には何度となく出て来る。

観音様はサンスクリット語では「アバローキテイシュバラ・ボーデイサットバア」。観世音菩薩、観自在菩薩、救世菩薩などとも呼ばれている。お呼びすれば観音様はどこにでも普門示現される。お呼びしないでもそうなさるが、念じてお呼びしているとたちどころに(見ている間に)現れて、呼ぶ者を護ってくださる。ともかく強い強いお味方なのである。普門とは遍く門戸を開放されているということだ。拒否をなさらない。差別をなさらない。条件を付けられない。だから、悪人のさぶろうをも観音様の救済の対象者なのである。その人の立場に応じて、好みに応じて、その形を変化されて登場されるので、「変化(へんげ)観音」とも呼ばれる。

観音力は、いま現在で自分が賜っている力のことである。これはわたしの念じる力ではない。念じられている力である。ここに電波の受信装置をつけると、それに感知できる。これで電流が流れる。明るくなる。あたたかくなる。ほのぼのとなる。力が湧いてくる。こうやって安心立命ができることになる。観音力はわたしを生かそうとしている根本力であるから、宇宙力と呼んでもいいかもしれない。

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弁当を開く

2014年10月31日 12時51分19秒 | Weblog

そろそろ13時だ。お腹が減った。由良岬へ回る細い小径を長々と辿って小さな漁村に来た。津波が襲来したときの緊急避難場所が、急坂の丘の上にある。ここからは港が見える。養殖場のブイが見える。祠が建ててある。そこへ陣取って、お弁当を開いた。途中の道の駅ふうの店で買ってきた弁当だ。370円した。手の平サイズの海鳥がほんの近くまで来て、恐がりもしないで弁当を眺めている。さぶろうはジャガイモコロッケの一片を投げてやった。

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俗人たるゆえんか

2014年10月31日 12時35分42秒 | Weblog

さぶろうは俗人である。「おまへはそんなことを考えているのか」「まったくくだらない男だ」と唾棄されそうなことを考えている。だからそれを表には出せないので、懐深くに隠しておかねばならないが、これがひょいひょいと頭を出す尻を出す足を出す。しまった、化けの皮がはがされてしまうと思うが、隠し持っていたって一文にもならぬ化けの皮なぞは、いっそ、はがされてしまった方がいいのである。などとも思う。俗の俗たるところをおくびにも出さないでいるとストレスが溜まってしまうので、布団干しが必要になってくる。丸裸になって寝そべってみたくなる。善の所有もかりそめであるが、しかし、悪の所有もかりそめである。どちらにしろ薄衣一枚なのだ。聖俗の聖も俗も借り衣なのだ。さぶろうはそう思って己の俗の俗たるところを、剣の先に突くことを止めにした。そこがまたさぶろうの俗人たるゆえんなのだ。

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異国の人の一人お遍路

2014年10月31日 10時32分08秒 | Weblog

驚いたなあ。四国お遍路さんを外国の方がしておられる。幾人も。女性の方も見かけた。それもお一人で。足摺岬の金剛福寺から次の札所のお寺までは75kmも離れている。そこを歩いて行かれる。寂しい道だ。「天の歴程」などがキリスト教の国でもあるから、神々を訪ねて遍歴をするというのはどの宗教にもあるだろうけれど。黙々と歩くことで思索が深まるのかも知れない。お遍路は「同行二人」と菅笠に書いてあるから、弘法大師と二人の求道の旅である。西洋の方だろうと東洋の方だろうと、「自己とはなんぞや」「何のために我は生きるや」「生かさるる我は何処に向かうや」「我がよろこびとすべきものとはなんぞ」。これらの疑問が噴出してくるのはいっしょなのかもしれない。

 

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ジョン万次郎生家を訪ねる

2014年10月31日 10時20分22秒 | Weblog

高知県土佐清水市の近くの小さな漁村に中浜ジョン万次郎の生家を訪ねた。途中に車を止めて、小さな路地をしばらく歩いた。藁葺きの小さな家が保存されていた。足摺岬の突端には銅像が建っていた。16才、舟が嵐に遭って沖に流されたところをアメリカの捕鯨船に救助されてアメリカに渡った。まだ日本が鎖国政策を採っている江戸の末期頃のことだ。彼が期せずしてアメリカ留学の第1期生になった。その後日本に戻ってきて当時の不慣れな日本の外交の場に出て、そこで大いに貢献することになった。

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つないでくる手の手触り

2014年10月30日 09時22分32秒 | Weblog

「おはよ」って軽く挨拶したら、そのまま軽く「おはよ」って挨拶が戻ってくる。「おはようございます」って丁寧に言えば、そのままのトーンで「おはようございます」が戻ってくる。山の中の湖に来て朝霧谺と交わす。他愛ない。さぶろう、もっと濃密な関係が欲しいか? 欲しくない。これでいい。やがて日が昇って来る。日もやはり淡泊である。つないでくる光の手の手触りがさらさらしている。

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甲板に出て海風に吹かれようか

2014年10月28日 10時44分56秒 | Weblog

甲板に出て海風に吹かれようか。上の上天気だ。海の色と空の色が

いい。

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四国の旅を楽しんだ

2014年10月28日 10時37分14秒 | Weblog

四国三崎港からフェりーに乗る。もうすぐ佐賀関に着く。四国の旅を楽しんだ。

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本文が一文字ずつしか書けない。故障?

2014年10月25日 02時40分00秒 | Weblog

おかしいなあ。一文字ずつしか書けない。ドコモの店に行ったけど、解決しなかった。

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