もっちゃんの探歩三昧

歴史探訪や仏像鑑賞、友人との交友をタイムリーに投稿します

キトラ古墳

2019年10月29日 | 歴史探歩

話には聞いていた「キトラ古墳」それほど興味があるわけではないが、近くを歩いているんだから…

 

今でこ周辺はそきれいに整備されているが、雑木が生い茂っていればそこにこれがあるとは気づかないだろう?

 

「存分に写真をどうぞ」と係の方が、満面に笑みを浮かべて迎い入れてくれた。
北の守り玄武のレプリカである。

 

東の青龍はこの通り、漏れ出た水によって図柄が判別できない状態。


 

南の朱雀はかろうじて全体像が確認できる。
それにしても極彩色が残っているのは驚異!

 

そして西の白虎はとてもきれいな状態。
お墓の中で四神に守られて眠るのは誰だろう?

 

レプリカは拡大されているが、実像は20センチに満たない小さなもの。
盗掘者はこの絵を見て何を思ったのか?

 

高松塚古墳と同じように、渡来人と思われる人物像も描かれていた。

キトラ古墳命名の由来は全くロマンを感じない以下の理由とか 
①石棺入り口の空間から見たとき北の玄武:亀と西の白虎:虎が見えたから亀虎=キトラ
②この地の小字が北浦だったことからなまって=キトラ

 

しかしながらロケーションは素晴らしい。
遠く金剛山が臨まれるこの場所は渡来人にとって望郷の念ひとしおだったろう!

 

帰り道で臨まれた高松塚古墳、両古墳はナント指呼の位置にある。

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飛鳥寺

2019年10月28日 | 歴史探歩

推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子らによって建立されたと伝わる飛鳥寺を訪ねる。

 

此処も往時の礎石がそこかしこに残されるが、建屋は跡形もなし。
特に説明版もなく、金堂や西門などの礎石と思われるものが置かれているのみ。

 

再建された講堂は方3間の質素なもの、脇にある庫裏から堂内に入る構造。

 

彫り物などは何もなく、わずかにこの蟇股?とおぼしきものが正面に施されている。

 

寺の脇からまっすぐ西へ延びる参道の先端に、蘇我馬子の首塚と言われる五輪塔がある。
両脇が野菜畑と言うのがわびしさを際立たせる。

 

首塚に正対するようにあるのが「甘樫の丘」、馬子の無念さが伝わるようだ。

 

止利仏師の手になる日本最古の飛鳥大仏、像高3m・銅15トン・黄金30キロで造られた。

 

そして脇には聖徳太子立像、案内してくださった御住職はとても分かりやすく解説してくれた。

さらに「お写真は存分にお取りください」と言われたのにはびっくり!でした。

 

飛鳥寺の伽藍配置、もちろん再建の話などこれぽっちもなし。

 

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なら かしはら 今井町

2019年10月27日 | 歴史探歩

今井町とは、今井宗久や千利休などの茶人が活躍した時代、一向宗の僧侶「今井豊寿」が建設した寺内町。

 

この場所に、奈良県の「里程元票」があったことを示している。
奈良の中心がこの地であったことを示しているか?

 

「重伝建保存地区」に指定されているこの街の概要を知るべく、街並み交流センターでにわか予習。
母屋の両脇に廊下続きで部屋が対照的に配されている。
明治時代の建物で、教育博物館⇒今井町役場⇒今井まち交流センターへと歴史を刻んでいる。

 

江戸時代の高札場を模した今井町の案内板、ここでもシンメトリーが保たれている。

 

 今井町は織田信長に抵抗した一向宗の要塞でもあったので、各入り口には強固な門が置かれている。
これは町の北東にある北尊坊門跡を道路に描いている。

 

東西南北それぞれ直行する道路が敷かれているが、いずれも行き止まりになっており迷路を構成している 。

 

東西600m、南北300mの範囲に、1,100軒、4,000人が暮らす豊かな町。
そっくりそのまま保存され、今も住民が生活していると言うから素晴らしい。

 

農家風旧家の奥に建てられた離れ座敷、豊かさの象徴のよう。
家主は此処で「伊右衛門」のCMが撮影されたと盛んにアッピールしていた。
因みに宮沢りえと本木雅弘が出ているやつである。

 

商家の軒先には「牛馬」を繋ぐ、金具が取り付けてある

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本薬師寺

2019年10月25日 | 歴史探歩

橿原神宮前駅で見かけた珍しい黄色いポスト。

 

九州日向の地から東征した神武天皇が橿原で即位したことに因み、宮崎と橿原両市は姉妹都市となっている。
そしてこの黄色のポストは幸せを運ぶポストとして両市におかれているそうな…

 

歩くこと数分、巨大な礎石が残る荒れ寺に着いた。
ここが薬師寺の前身となる「本薬師寺(もとやくしじ)」跡、天武天皇が皇后の病気平癒を願って建立に着手するも未完成で崩御。後を継いだ持統天皇(病気だった皇后)が完成させた。皮肉だね!

 

境内に残された礎石は金堂や塔跡らしいが、庚申塚なども乱雑に残されており、創建時の様子はうかがい知れない。

 

今訪れている夥しいお客様たちのお目当ては本薬師寺跡ではなく、辺り一面に咲き誇るこの花だ。

 

薄紫で清楚な感じの花だが正体は「ホテイアオイ」、猛烈な勢いで繁殖する凶暴な外来種だ。

 

しかしながらこの場所では、赤と黄の彼岸花も引き立て役に回っている。

 

細かいことを気にすればいろいろあるけど、この高い空がすべてを払いのけてくれる。

あぁっ誠に爽快なり!

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橿原神宮

2019年10月24日 | 歴史探歩

九州高千穂の嶺に「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」が天孫降臨してから4代目、神武天皇が東征して橿原に宮を建てる。

 

朝はやく清浄な空気につつまれた表参道をゆく。

 

遠くに鳥居が見える。めずらしい黄色(黄金色)に彩色されている。

 

参道を直角に曲がった処に南神門がある。

 

近づかないと実感できないが、南神門も巨大な建造物であることがわかる。

 

神門をくぐった先、左手90度の位置に外拝殿がある。
右手奥に見えるのが大和三山の一つ畝傍山、指呼の位置にある。

 

今年は令和元年とことあるごとに強調されるが、亥年であることを時々忘れてしまう。
巨大な絵馬には平成31年と書かれている。

 

内拝殿に入り「大和は国のまほろば…」を反芻しつつお参り。

 

本殿の屋根には反り返った千木が天を衝く。
これから見ると本殿は妻入りか? 勉強不足でごめんなさい。

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飛鳥の石造物

2019年10月22日 | 歴史探歩

石造物も様々だがその命名もユニーク、しかも本当は何だったか明記しないのも飛鳥の特徴?

 

どう見ても積み方がおかしい。説明書きはなかった。
上から「空・風・火・火・火・火・火・水・地」と積んであり、単なる寄せ集めか?

 

亀石なる石造物、飛鳥の西隅を示すとも言われているようだが…

 

酒船石と称されているがこれも謎の石造物、幾何学模様が鮮明に描かれているが解明できていない。

 

そして酒船石の一段低地にあるのがこの亀形石造物、水を流す構造に見えるが…
二つ合わせて酒船石遺跡、これから謎が解明されるか否か?

 

そして「鬼のまな板」なる巨大な加工石、石棺の下面?

 

続いてこの姿から「鬼の雪隠」と名付けられているが、鬼のまな板とセットで石棺か?

 

猿石、どう見ても猿ではないようだが何だろう。

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川原寺

2019年10月16日 | 歴史探歩

再び飛鳥の中心地に戻って、歴史探訪の旅は続く。

 

黄金色に輝く稲田の端に建てられた石碑。
左奥の建物が聖徳太子誕生の橘寺。

 

橘寺の門前は、黄金と紅と翠が絶妙に彩なし一服の名画の如し。

一転北側に目を転ずれば休耕田が拡がり、その先にこじんまりとしたお寺が臨まれた。

 

7世紀、飛鳥寺、薬師寺、大安寺と共に、飛鳥四大寺に数えられた川原寺。
廻廊跡の礎石が残されている。
正式な寺名は「仏陀山 弘福寺」真言宗豊山派に属す。

 

明らかに加工跡が残されており、お寺でパワーストーンと称してアッピールしている。

 

創建時の大伽藍は建久2年(1191)焼失し、現在はこの本堂が再建された。

 

山門も質素な藥医門で、南に正対するように聖徳太子誕生の橘寺が位置する。

 

跡を継いだと思われる尼僧が、写経を中心に懸命にお寺を支えている。

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岡寺Ⅱ

2019年10月14日 | 歴史探歩

岡寺の開祖「義淵僧正」は東大寺をを開いた「良弁」や生きた菩薩と仰がれた「行基」の師と伝わる。

 

真言密教の寺に相応しく山懐に違和感なく溶け込んでいる。

 

境内には大師堂が建てられ弘法大師が祀れているが、門前にも新しい大師像が…

 

御本尊は日本最大、最古の塑像と言われる如意輪観音が祀られている。

『けさみれば 露岡寺の 庭のこけ さながら瑠璃の 光なりけり』の御詠歌が、東の瑠璃光浄土におわす薬師様を尊崇している。

 

本堂より一段高い位置にある三重塔、伽藍配置は山腹の地形に合わせているのか?

 

参詣を終えて飛鳥に目をやれば、この光景が広がている。

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岡寺

2019年10月13日 | 歴史探歩

第41代持統天皇の幼名が店名の「さらら」で腹ごしらえを済ませ、新たな気持ちで飛鳥に立ち戻った。
持統天皇は第40代天武天皇のお妃であり、天武天皇没後天皇に即位した。

まず参詣したのは岡寺である。

 

足が胸につかえるような急坂を息を弾ませて登る、腹いっぱいの体にはいささかこたえる。
楼が付いた仁王門は瓦葺のせいかどっしりとした趣。


 

骨太の金網にも守られた阿形像、仏教持護のため眼光鋭く遠方の宗敵を睥睨する。

 

吽形像も同じく参道お先をにらみつけている。
東大寺の仁王像は門の真ん中辺り衆生の足元を見ているが、それとは視線が異なり遠方を見晴るかす。

 

岡寺の本当の名は「東光山 龍蓋寺」である。
寺伝には開祖:義淵僧正が付近を荒らして農民を困らす龍を、この池に閉じ込めた伝説から命名とある。
龍の抜け道に蓋をしてしまったのだ。

こじんまりとした池であるが、奥には滝がかかり鯉魚も配されている。いわゆる登竜門だ。

 

仁王門の先の階段を上がった場所に本堂はあり、仁王門が一段下に見える。
このお寺が山懐に抱かれているのが実感できる。

 

さらに視界が開かれた西方に目を転ずれば、遥か彼方に金剛山の雄姿が臨めた

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さらら

2019年10月12日 | 歴史探歩

飛鳥の政りごとの中心地から、飛鳥川沿いを南へ辿れば吉野へ通ずる街道です。

 

古い街道の名残が随所にある飛鳥川沿いは古色蒼然として、いまにも飛鳥美人が現れそう。

 

万葉の歌人にも度々謳われた飛鳥川の渓流も風情ありです。

 

そして川沿いに隠れるように、地元の方も知らない人は知らない古民家がありました。
程よく手を入れられた、門冠ぶりの松がオイラたちをお出迎え。

 

お庭もこの様な有様で、気取っていないところが心憎い。

 

そして「地産地消」素朴な手作りの料理が供されました。
お昼とは言えど歩き旅には大ご馳走、適度にアルコールも進みます。

 

飛鳥の中心から見ればこの地は南に当たるので、南方の守り「朱雀」の飾りが…

 

愛しい料理を提供してくださったお店の名は「さらら」。
何を隠そうこの名は持統天皇の幼名でした。
庶民たちが訪ねてご馳走になるのは罰が当たりそう?

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石舞台古墳

2019年10月11日 | 歴史探歩

超有名な石舞台古墳が、今日もどのようなテーマをもって集まったかわからない集団に囲まれていた。

 

巨大な古墳の周囲に張り巡らされた環濠、綺麗に除草されていてさすが人気の場所。

 

6世紀の初め仏教の受容を巡って、受け入れ容認の蘇我氏と反対の物部氏が争い蘇我氏が勝利。
時の権力者「蘇我馬子」の墓だという。
この巨大な石を運んだという語り伝えを聞くだけでは、その強大な権力は計り知ることはできない。

 

これが一人の人間のお墓?
栄華を誇った蘇我氏も馬子⇒蝦夷⇒入鹿と代が移り変わったが、入鹿は中大兄皇子と藤原鎌足の手により滅ぼされた。
飛鳥の里は天智天皇の時代へと変わっていく。


 

外でガイドの説明を聞いた後、なぜか内部に足を踏み入れるのがためらわれた。
自ら土に返る時が近いと本能的に思っているからか?

 

石舞台古墳周辺は、6世紀当時と変わらぬ?長閑な田園風景が広がっている。

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橘寺Ⅱ

2019年10月09日 | 歴史探歩

創建当時の建物は残されていないようだが…

 

太子堂にはご本尊として聖徳太子像が祀られている。


防火用水にも橘があしらわれている。

 

聖徳太子が経典を読み上げたとき、日・月・星の光を同時に放ったと伝わる。
寺域の一角に三光石として置かれている。

 

五重塔の心礎、変わった形をしている。
当寺には玉虫厨子が置かれていたようだが、現在は法隆寺へ移されている。

 

観音堂には如意輪観音が祀られている。


 

参道が境内を一直線に横切る珍しい伽藍配置になっている。

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橘寺

2019年10月08日 | 歴史探歩

暦の上では秋とは言え、うだるような暑さの中この門をくぐる。

 

質素2乗と表現するのが相応しい? でも清潔感は半端ではない。
こういうのが本当の「おもてないし」なじゃないの!

 

太子殿の幕に染め抜かれた「橘紋」。紋所そのものずばり!此処は橘寺である。
聖徳太子(厩戸皇子)の建立と伝わる7ケ寺の一つ。

 

何の変哲もない「太子殿」の扁額、いいんだよねぇ!素朴で…

 

そして二面石なる石造物に目が行く。しかも最初が「悪面」側である。
鼻が高いのが特徴で明らかに渡来人面をしている。

 

そしてこちらが「善面」、よく言えばユーモラスだが率直に言って間抜け面。
だからと言ってこちらが日本人面とは言っていませんよ!

 

聖徳太子誕生地と伝わる橘寺の二面石。
一対で見ると絶妙の対比を見せている。

見る人の性格が卑しくて悪に肩入れしても、公平に見ればこの通り「ほんわか」とした空気が伝わってくる。

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高松塚古墳

2019年10月07日 | 歴史探歩

歴史探訪大好き人間だが、なぜか古墳は好きになれない。
それでも探訪の途中にあるのだから、ちょっと寄ってみるかな。

 

奈良歴史探訪のメッカ「近鉄飛鳥駅」に降り立つ。
駅前のモニュメントから早くもいにしえのロマンを感ずる。

 

付近一帯は文字通り奈良の穀倉地帯、収穫間近の稲穂が首を下げ始めた。
畦道にある彼岸花の朱と、稲の黄金が格好の対比となっている。

 

やがてよく手入れされた高松塚古墳跡が目の前に現れた。

 

40年以上前に大きな話題となった発見があった。
農作物の収蔵用穴を掘っていた時偶然発見されたとあるが、すでに盗掘された跡があったようだ。
渡来のご婦人像が描かれているが朝鮮人、中国人?

 

今では誰でも知っている「北の守り玄武」40年前はこんな言葉知らなかったよね。

 

そして「東の守り青龍」何とか姿が確認できる状況で発掘された。

「西の守り白虎」と「南の守り朱雀」は盗掘時の影響か、姿が判然としていない。今回はパンフレットの映像を拝借

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法起寺Ⅱ

2019年10月06日 | Weblog

元来は法相宗だったが昭和の時代に入り、法隆寺の聖徳宗開名に倣い、聖徳宗となった。

 

現在は閉ざされたままとなっている中門、本来の入り口はこちら…
参道とおぼしき処は草茫々で足を踏み入れるのも躊躇される。

 

中門をくぐると右手には国宝三重塔がある。
高さ24,5mは最大で最古とも言われる。
屋根の勾配が緩く、軒は深く、飛鳥時代建築の特徴を現わしている。

 

向かって左側に位置するのは聖天堂で歓喜天が祀られている。
宝形造だがやはり屋根の勾配は緩く飛鳥建築を踏襲している。
法隆寺式の伽藍配置では、本来この位置に金堂が配されるが、この点創建時とは異っているようだ。

 

そして講堂は寄棟造りの母屋に、錣葺きの軒を配している。
聖徳太子建立7ケ寺の一つだが訪れる人は少ない?

 

講堂に祀られていた国重文の十一面観音立像は収蔵庫に移されている。
ガラス越しに失礼いたしました。

 

三重塔の組み物は珍しい配置だがオイラには説明がが出来ない。
何方か教えてたもれ?

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