今年広島の桜開花は、高知に続いて全国2番目の3月25日でした。
開花から4日後の3月29日でしたが、雨続きの低温が影響してか開花状況は進んでいません。
それでもそこかしこにチラホラと開花して、花心を浮かせてくれます。
紺碧の青空をバックに桜花爛漫もすぐそこまで・・・
久方ぶりの春の日差しを浴びて、時の経過とともに花は開きます。
やっぱりこの薄き花ビラこそ本当の桜ですね。
今年広島の桜開花は、高知に続いて全国2番目の3月25日でした。
開花から4日後の3月29日でしたが、雨続きの低温が影響してか開花状況は進んでいません。
それでもそこかしこにチラホラと開花して、花心を浮かせてくれます。
紺碧の青空をバックに桜花爛漫もすぐそこまで・・・
久方ぶりの春の日差しを浴びて、時の経過とともに花は開きます。
やっぱりこの薄き花ビラこそ本当の桜ですね。
孝明天皇陵は、後堀河天皇陵と同じく泉涌寺に付属する形で存在する。
後堀河天皇陵からさらに奥に進むと、数分で砂利広場に到達するが、そこが孝明天皇陵墓である。
お馴染み宮内庁の表示盤があった。
板塀と板の開き戸があるが、神明鳥居は見当たらない。
この塀の奥が参道で、左手側が陵墓の正面にあたるようだが、完全に仕切られていてこちら側からは通り抜けできなかった。
陵墓の形も確認できないが円墳であると言われている。
板塀が切れて、石の玉垣が巡らされている処が陵墓であろう。
孝明天皇は在位21年、36歳で崩御された。
平安京が皇居であった最後の天皇で、在位期間は世情騒然とした幕末であった。
死因は天然痘と言われているが、回復途中の急逝であったことから他殺説も根強い。
孝明天皇の御陵印である。
第86代後堀河天皇陵も泉涌寺に隣接して存在する。
泉涌寺仏殿手前の砂利道参道を、歩くこと数分で後堀河天皇御陵前に至る。
敷かれた砂利が結構深く歩き難い。
上り坂の途中、目立ち難い場所にお馴染み、宮内庁の案内板があった。
戦国時代のお城への登城路のように、不規則な階段となっている。
階段を伸びりつめた処に、石の玉垣と神明鳥居がある。
脇には後堀河天皇御陵と示されていた。
背後は深い森の状態で、墓の形状は分からない。
勿論人の踏み入れた様子はなく、墳丘状の形状がそれとなくわかる。
説明では円墳(円丘)であるとされている。
10歳で践祚(即位)、23歳で崩御された。
僅か2歳の四条天皇へ譲位し、院政を引こうとしたが願いは果たせず、若くして崩御された。
鎌倉幕府執権:北条義時が対立する後鳥羽上皇勢力を、承久の乱で破って擁立した天皇だが、若くして崩御された。
怨霊に祟られたと言う説もある。
後堀河天皇の御陵印である。
御寺泉涌寺霊明殿の脇に四条天皇外12代の天皇陵である月輪陵への案内標識があった。
第87代四条天皇外二十四方御陵参道の案内標識。
月輪陵に12帝、後月輪陵に2帝、計14代の天皇陵が同域に存在する。
拝所手前50メートルほどで立ち入り禁止となっており、御陵内の様子は伺うことが出来なかった。
拝所から一段高い処に、金細工で装飾された唐破風門があり、その奥が御陵である。
天皇陵にある神明鳥居は見当たらなかった。
御陵の様子は確認できなかったが、御陵印を戴いた宮内庁管理事務所に月輪陵の模型があった。
陵墓の形は「石造九重塔」のようだ。
同じ場所に陵墓配置図も置かれていた。
月輪陵、後月輪陵に合葬されている四条天皇外13代の天皇の御陵印である。
四条天皇以外は江戸時代に即位された天皇である。
第87代四条天皇は後堀河天皇の譲位により、2歳で践祚(即位)したが、不慮の事故でわずか12歳で崩御された。
「君がため 春の野に出で 若菜積む …」長閑な季節の到来です。
最近は目にすることが珍しくなった蓮華草を見つけました。
人知れず名もなき流れの傍らに咲く花もあります。
某所、某河原に見捨てられたように咲いていました。
剪定用のワイヤーが巻き付けられたように見えますが、勿論そうではありません。
自然に、伸び伸びと枝を伸ばしています。
実際は相当込み入った形で枝を伸ばしています。
なんでも樹皮が紙の元になるのだそうです。
このような形に枝分かれすることから、「みつまた」と命名されたとか…
多くの枝の先端が、三つに分かれて成長していくのだそうです。
このことから「三股楮(みつまたこうぞ)」と呼ばれています。
花そのものも、それなりに美しい。
いまは紙に作り替えられることもなく、野の花としてひっそりと咲いて散ったいきます。
仙石庭園(せんせき)と読むらしい。
2009年東広島市で医業を営んでいた方が作庭した庭園。
この存在はこれまで全く知りませんでした。
庭園入り口の冠木がなんとも、おどろおどろしいです。
入り口は完全に省力化されており、入園料は自動精算システムです。
庭園に入ってすぐに枯山水の三尊石があります。
もっともこの庭の説明には、三尊石との表記はありません。
蓬莱山の石組も至る場所にあります。
松をはじめ植生の手入れは相当に行き届いています。
白砂青松、お掃除も行き届いて気持ちよく回遊できます。
ゆるやかな傾斜地に、大き目な池を配し、周囲の借景も考慮されています。
芝焼きを施して、防虫や新芽の育成に注意をはらっているのでしょう。
とにかく至る処に巨岩を配しており、圧倒される光景が展開されます。
しかしこの三角ポストはいただけません。
立ち入りを制限するにも、周囲の景色に溶け込むような配慮が必要でしょう。
大分産の赤い石を使って「赤富士」だそうです。
とにかく園内一面、何処も立ち入りOKは大変楽しいものです。
何時までも続けてほしいものです。
一面芝を張り巡らした富士山、名付けて「仙石富士」です。
大きな岩を随所にこれでもか!とばかり配するのは、ほどほどにと思いますが・・・
このモニュメントは、二つの石の模様を上手に繋いで一つの石に見せています。
勝手にこの角度から写して、妙に納得しています。
穏やかな湖面に移る「影富士」は如何でしょうか。
東広島市の長閑な山中に、地元の篤志家が私財を投じて作庭中の「銘石庭園」、今後どのように変貌していくのか、少々興味深いものがあります。
遠州湖北五山は浜名湖の北部、井伊家の勢力範囲に存在する五つの名刹ということか。
湖北五山の案内パンフレットでの位置関係はこの通り。
今回は総勢9人なので、公共交通機関を利用せざるを得ず、龍潭寺と宝林寺の二ケ寺しか訪問できなかった。
龍潭寺前の案内標識だが、地図上で至近距離にあっても、徒歩で訪ねるには結構な距離である。
1時間に1本程度しかないバス便を上手に利用する。
この急な階段が宝林寺山門への道となる。
初山宝林寺の伽藍配置、江戸幕府の旗本近藤家の篤い信仰で支えられていた。
杮葺き薬医門と白塀。
入母屋造り杮葺きの仏殿は、中国明朝風様式と説明されているが、いわゆる床下と言える部分がなく、建屋規模に対して細身の柱に目が行く。
黄檗宗寺院の特徴らしいが、国重文に指定されている重厚な構えである。
本尊は釈迦三尊で、四半敷きの床がいかにも中国風。
左右の脇陣には二十四天善神立像が控える。
聞きなれない神様だが、黄檗宗の仏教徒を護持する神様と言われている。
一部に道教思想も混じっているようだ。
一年に2体づつ、京仏師のもとへ送って修理している。
山門、仏殿、方丈と一直線に配置されているのは、禅宗寺院様式そのもの。
寄棟造り茅葺きの方丈、仏殿同様床下部分がなく、中国明朝様式と説明された。
国重文であるがお寺と地域の負担も重く、茅葺屋根の維持管理には多大な苦労があるようだ。
方丈を軒下から見ると軒の深さが良くわかる。
立ち入り禁止場所ですが、今回は特別に入室を許された。
開祖:独湛禅師(たんかんぜんじ)の木造などが祀られている
報恩堂は黄檗宗の宗祖:隠元禅師の等身大木造が安置されている。
本堂脇には日本では宝林寺にしかないと言われる金鳴石があり、叩くと「きん きん きん」と金属音が鳴り響く。
お参りした善人は、これを叩くと「金運に恵まれる」と伝えられている。
更に境内の奥まった場所に「石仏五如来」が祀られている。
黄檗宗の守り本尊で、向かって右から宝生如来、薬師如来、大日如来、釈迦如来、阿弥陀如来だ。
菜種梅雨というのか、はっきりしない天気が続いていたが、ようやく日差しが差してきたある日、思い切って出掛けてみた。
広島市郊外の長閑な農村地帯でこの神社が目印。
やはり背丈10~20センチ程度の小さな植物、車からは確認が難しいので、この目印はありがたい。
立ち入り禁止の紐が張り巡らされていることから、花はまだ残っているようだ。
細花小貝母=ほそばなこばいも=ホソバナコバイモと書くようだ。
漢方では薬草として利用されたいる。
神社の境内というと鬱蒼とした森を連想しがちだが、年輪を重ねた杉の大木こそあるものの、ここは全体的に日が差して明るい傾斜地となっている。
この花には絶好の環境が残されていた。
釣り鐘型の花は下向きに咲いており、可憐そのもの。
ほんのわずかではあるが、このように横向きの花もあった。
いずれも乙女の恥じらいの如く俯き加減。
一帯全面が立ち入り禁止地域なので、花弁の内側は見ることが出来ず。
近くにはフキノトウも・・・
何気ない場所に咲く様に見えるが、地域の人方の懸命な保存努力で辛うじて生き残っている。
広島県では絶滅危惧種Ⅱ類に分類されているそうだ。
菜の花と同時期に開花すると記憶しておこう。
夢窓疎石と並ぶ作庭の名人、小堀遠州の手になる井伊谷龍潭寺庭園を紹介する。
龍潭寺庭園の見どころ図から、小堀遠州作のお庭を紹介する。
遠州(遠江国)にある龍潭寺庭園が、小堀遠州作とは、存在する場所と庭師の名前がピッタリ合致している。
上部にお庭の配置図があるが、これを写真で順に紹介する。
守護石(本尊石)、仁王石、鶴出島、亀出島、礼拝石(座禅石)、蓬莱岩島を紹介する。
お庭の中央に配石された、中央の先が尖った大きなのが守護石(本尊石)である。
また左右両脇に低い石を配しているが、中央の守護石と併せて三尊石という。
三尊石は、場所や宗派によって、釈迦三尊、薬師三尊、阿弥陀三尊などがある。
続いて写真やや右下寄りに立てられたのが仁王石で、左右一対に据えられている。
お寺の仁王門に相当する。
中央から左側にせり出している部分が鶴出島、少しわかり難いが周囲の石が立てて積まれており、亀と対比されている。
これが亀出島、龍潭寺の場合は島ではなく半島状に突き出しているが、右下の先が尖って水中に没しかけているのが亀の頭で、亀の体を表す石は低く寝かせて配置している。
日陰になっていて暗いが、中央池の手前にある黒くて平たい石が礼拝石(座禅石)である。
更に池中に(周囲の石が湖面に移って見難いが)立てられているのが、蓬莱岩島である。
蓬莱山(蓬莱浄土)を崇めるのは中国道教の思想であるが、中国東方沖の海中に存在すると教えられている。中国本土の東方沖の島と言えば、蓬莱山はまさに日本そのものではないだろうか?
お庭全体を俯瞰してみた時、石が多く見える右側が近景を現わし、石を疎らに配した左側が遠景を描き出しているのだそうだ。
複雑な形をした池は心字池である。
名匠小堀遠州のお庭を写真で説明するのは至難の業である。
興味のある方は是非龍潭寺を訪ねて、日本庭園の醍醐味を味わっていただきたいものである。
植生も多彩なので、四季折々楽しめること請け合いである。
サッカーJリーグ、サンフレッチェ広島のホーム球技場が、広島市中心部の紙屋町地区に新装オープンした。
待ちに待ったオープン元年。
地元開幕2戦目に新球場で初めてのボランティア活動に従事する。
新設された球技場へのアプローチを、ゆっくり踏みしめながら歩く。
球技場を遠望できる地点まで来ると、疎らに人影が現れた。
まだ工事中の広場は仮柵で仕切られ、公園整備が続けられている。
3万人収容のスタンドは、近づくとその大きさにびっくりする。
建築に際して多額の寄付をした家電量販店エディオンが命名権も取得した。
エディオンはサンフレッチェ広島のビッグスポンサーでもある。
サポーター入場前のスタンド、真新しいチームカラーの紫が輝く。
プロ野球広島カープのホーム、マツダスタジアムを参考に、ここでも多彩な席を設けているようだ。
時雨模様の試合開始5時間前、球技場外部の河畔にまで、入場待ちの列があった。
誇らしげに掲げられた満員御礼の垂れ幕?
入場者共通の場内を一周できるコンコースには、グッズや飲食の店舗が並ぶ。
マツダスタジアムの良いところは、ここでもふんだんに取り入れられている。
試合開始前のメインスタンド、完全に屋根に覆われており、転向に関しての安心感は絶大である。
紫一色に染まったスタンド、これから毎試合この状況が続きますよう祈る。
レジェンド達の顕彰プレートの掲額も、広島カープに習ったか?
浜松では浜名湖の北部に、湖北五山(龍潭寺・宝林寺・摩訶耶寺・大福寺・方広寺)と称される古刹が存在する。
大河ドラマ:女城主直虎で一躍有名になった、井伊家発祥の地が「井伊谷(いいのや)」である。
遠州北部の小国人領主であった井伊直政の、出世碑なるものがあった。
山門から庫裏・本堂に通ずる場所に前庭がある。
懸魚、獅噛、蟇股、唐草など多彩な彫り物が出迎えてくれる。
現在山門は修復工事中であった。
本堂は入母屋造り杮葺き、棟に井伊家ゆかりの「井筒」と「橘」紋が輝く。
井は良い水が湧く井戸があり、その脇に橘があったことから井伊家の家紋となった。
井伊谷は良い水が湧き出る谷ということである。
やはり静岡県のお寺、玄関の衝立は富士である。
井伊の赤備えと称された鎧兜と旗指物。
井伊直政は長槍の使い手で、徳川四天王に数えられる勇猛果敢な武士である。
本堂の脇陣に、窮屈そうにおわす丈六の釈迦如来坐像。
廃仏毀釈の嵐に巻き込まれ、幾多の苦難を経て、体中傷だらけの痛ましいお姿である。
本堂の襖絵は武人の菩提寺に相応しく嵐を呼ぶ龍と・・・
たけだけしい猛虎と言いたいところだが、トラは何とも腰砕けの感じである。
本物を見ずに描いたものか?
前庭から本堂を臨む。
桁行七間の堂々たる姿である。
左甚五郎作と伝わる龍の彫り物も…
井伊家累代の墓は簡素なもの、後の時代に建てられたものか。
新仏習合、隣り合う場所にある井伊谷宮。
昭和天皇武蔵野陵を参拝を思い立ってから、にわかに天皇陵に興味がわいてきました。
立春も過ぎたと言うのに、冷たい雨が傘をたたく寒い一日、京都にある泉涌寺を訪ねました。
天皇家の菩提寺である泉涌寺、総門には「御寺泉涌寺」とあります。
想像通りの広大な境内、案内板がありました。
いずこの施設にも、このような案内板があると本当に助かります。
広い参道は緩い上り坂、まさに御寺に相応しい風情です。
徒歩数分で、伽藍の一番高い位置にある大門に着きました。
一目見た感想は質素な造りだな?でした。
肌寒い氷雨の降りしきる日ですが、参詣客は結構おられました。
大門からは緩やかに下る参道となり、正面に本瓦葺きの仏殿が配置されています。
入母屋造り本瓦葺きで、扇垂木・花頭窓・桟唐戸を持つ禅宗様式の建物で国重文です。
二重建築に見えますが、下部の屋根状の部分は裳階です。
須弥壇には運慶作と伝わる、阿弥陀・釈迦・弥勒の三尊佛が安置されています。
過去(阿弥陀)・釈迦(現在)・弥勒(未来)で、救いの手を差し出す三世佛とも言われています。
仏殿の背後には舎利殿が控えており、この日は特別拝観期間で、テント張りの受付が設えてありました。
天井いっぱいに「雲龍図」が描かれており、東の日光に対して西の鳴龍と称されています。
続いて本坊にお参りします。
玉砂利を敷き詰めた前庭も簡素な造りでした。
更に拝観料を払って、御座所のお庭を拝見します。
上がり框に置かれたのは物は「関所石」でしょう。
「この先には入らないでくださいね」です。
お庭の解説は特にありません。
ゆっくり座って拝観すればよいのでしょうが、何せ寒くて余裕がありませんでした。
ゆったりとした築山と泉を配したお庭、季節によって様々な趣を呈するのでしょう。
本坊・御座所に隣り合う場所に霊明殿があります。
白砂の前庭を持つ、入母屋造り檜皮葺きの霊明殿です。
四条天皇・明治天皇・大正天皇・昭和天皇などの、お位牌が安置されています。
旅へ出たり、転向に左右されたりして、満開時を逃し心配したが辛うじ花は残った。
何とか今年も間に合った。
天候不順で、出掛けようと思うと雨、天気の良い日は用アリで歯がゆかった。
満開期は過ぎており、案内の旗指物もすべて撤去されていたが、花はオイラを待ってくれた。
セツブンソウ、通常花弁は五枚だが、これはちょっと変わり種ですね。
昨夜来の雨で、しっとり感を取り戻しているようです。
この日は薄曇りでした。
でも贅沢は言えませんよね。
年々開花場所が拡大していくのは、地域の皆さんの懸命な手入れのおかげです。
お陰様で、オイラも欠かさず顔を見に出掛ける意欲が湧いてきます。
近くで保護されているフクジュソウも必見の価値があります。
春を告げ、福を呼ぶ、健気な奴です。
人間の足が届き難い場所の奴は、天然ものかしら?
大井川鐡道は山間部を縫うように走行するので、風光明媚な見所が満載です。
奥大井の山間地ですから勿論トンネルはあります。
大井川にかかる橋はもとより、湖上を跨ぐ橋もあり、歩道も併設されています。
てっきりメンテナンス用の橋脚を、観光客にも流用させていると思いましたが・・・
奥大井一帯のハイキング用遊歩道として整備していました。
二本の橋脚に挟まれたトリッキーな場所に湖上駅を設けて、これを売り物にしています。
勿論地域住民の利便を図った駅ではありません。
この駅周辺に民家はありませんもの。
山あり、谷ありの複雑な地形を、一枚の地図でさりげなくアピールしています。
駅のホームには、今風?に若者向けの仕掛けもそつなく設えてあります。
ベンチが中央に向かって傾斜しています。
意味は分かりますよね?
大井川鐡道はあらゆる面で、観光客に気を使ってくれています。
ウィークデーのダイヤは極めて疎なのに上手に運行して、我々に乗車しない列車の姿も見せてくれます。
エンブレムが列車名でないのも面白いアイデア。
深蒸しが売り物の川根茶のPRですね。
オイラたちが乗った復路の列車には、トロッコ列車風の車両が連結されていました。
2月末の奥大井は風が冷たいのですが、多くの観光客がやせ我慢をして乗っていました。
さて、大井川鐡道井川線、最大の売りはアプト式列車です。
90パーミル(1,000m走って90m上る)という、日本一の急勾配を列車が走ります。
駆動輪が歯車になった専用列車が繋がれます。
「アプト式」とはアプトさんという人が考案した方式で、歯車状の車輪とラックと呼ばれる鋸歯状のレールが嚙み合って、急斜面をゆっくりと昇降します。
通常のレールの真ん中に、ラックと呼ばれる鋸歯状のレールが架設されています。
よく観察してみると歯形は3列架設されています。
厳密には、三つの軌条のどれかに負荷がかかって、スムーズに走るように工夫されています。
通常走行からアプト走行に、モードチェンジする様子を下車して見るよう、乗客に案内がありました。
大井川鉄道のおもてなしは半端ではありません。
これに関して昨夏、四国の阿佐海岸鉄道のDMVに乗車した時のことを思い出しました。
阿佐海岸鉄道では、道路走行からレール走行に移るDMVが最大の売りですが、このモードチェンジをお客に公開していません。とても残念でした。
大井川鐡道を見習うべきでしょう。
「このように歯が噛み合って走行するのです」と図で示しています。
急こう配の谷渡りが実現したのは、長島ダムの機材運搬のためにレールを架設したと説明されました。
アプト式の先輩は、国鉄信越本線の軽井沢⇔横川間だったようですが、この路線は廃線となっているため、わが国では大井川鐵道が唯一貴重な存在となっています。
奥泉駅では蒸気機関車の転轍の様子も公開されています。
機関車のエンブレムは「がんばれ受験生」ですよ!
新金谷駅で大井川鐡道に最後のお別れ、ターンテーブルも見られました。
土砂崩れで途中寸断された大井川鐡道、全線復旧の目途は立っていないようですが、何時までも日本中の鉄道ファンに夢を届けていただきたいものです。
いよいよ大井川鐡道きっての秘境感漂う「奥大井湖上駅」を目指します。
不通区間を代行するバスに乗車していざ出発! すぐに大井川に架かる橋を渡ります。
渡る橋の名は「駿遠橋(すんえんはし)」、静岡県は浜松市を中心とする西部は遠州、静岡市を中心とする中部は駿河、東部は伊豆と三つの地域に大別されます。
首都圏との関わりが大きい伊豆は別として、大井川を挟む遠州と駿河は何かと競い合う、ライバル意識が強い関係にあります。
「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」と箱根馬子唄にも謡われた難所大井川も、いくつかのダムが建設された影響で水量が減り、すっかりおとなしい流れに変わってしまいました。
秘境へ向かって、いくつもの橋が架けられています。
静岡県の川勝知事が、この大井川の水量がこれ以上減らないようにとの理由から、リニア新幹線トンネル工事に反対しています。
どのように決着が計られるのでしょう。
長島ダムの建設によって陸の孤島のように見える「奥大井湖上駅」を俯瞰しています。
住民の乗降ではなく、観光客のために造られた駅のようです。
中央の見える建物は、土・日・祭日にオープンするカフェで、それ以外の日にも休憩所として開放されていました。
ありがたいことです。
バスの乗客から「視界を遮る雑木を何とかしろ!」の声も出ましたが、やっぱり自然は大切にした方が良いのでは?
好天に恵まれたこの日、おいらたちは徒歩でプチハイク、温暖が売りの静岡県では河津桜が満開でした。
巨大な長島ダム湖の沿って遊歩道が整備されています。
対岸を「アプト式」の車両が行き過ぎます。
1990年以降に運航を開始した車両は新しさを感じさせます。
歩いて眼下に線路を臨む場所に到着しました。
車両の通過を待ちたいところですが、何せ運行本数が少ない上帰りの時間もありますので、涙を呑んで先へ進みます。
秘境ウォークの案内板、おいらたちは1/3程度を楽しんだにすぎません。
まるで絵葉書を見るような絶景ポイントに着きました。
遊歩道からの視界は開かれていました。
感謝!
アップダウンを乗り越えて、線路を眼下に望むところまで来ました。
想像を超える急坂でした。
線路だけしか目に入りませんが、歩行者用の歩道が併設されたいます。
存続が危惧されるローカル鉄道とは思えない、立派な橋梁が架けられています。