もっちゃんの探歩三昧

歴史探訪や仏像鑑賞、友人との交友をタイムリーに投稿します

小浜 羽賀寺

2023年11月24日 | 歴史探歩

海のある奈良の小浜には、十一面観世音菩薩を祀るお寺が多い。

 

十一面観世音菩薩を祀る、数あるお寺の中からこの寺を選んだ。
元正天皇勅願の羽賀寺である。

 

鬱蒼と樹木が生い茂る参道を本堂へ向かって進む。
前回お参りしたとき親切丁寧に案内してくれた記憶があったので、このお寺を参拝すると決めた。

 

オイラの記憶に間違いはなかった。
鐘楼の脇を通り過ぎて本堂に向かおうとしたとき、本堂から案内の方が飛び出してきて、鐘を撞いてからお参りしなさいと勧めてくれた。
今時参拝前でも鐘を撞かせてくれるお寺は少ない。

 

改めて反りの深い優美な姿の本堂を観察する。
和やかな気持ちで眺めると、一層美しさが増すから不思議。

 

羽賀寺の十一面観世音菩薩は、元正天皇のお姿を写したものだとか・・・

 

羽賀寺のパンフレットのお姿。

 

帰り際、当寺の背後に瑞鳥である鳳凰が姿を現した。

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小浜 萬徳寺

2023年11月23日 | 歴史探歩

安芸の国、円明寺の僧侶が旅の途中に立ち寄り、故あって長期に滞在して、真言宗を広めたとあるので今回初めて訪れた。

 

山の中腹にへばりつく様にあるので、小さな寺院かと思ったが入山してみてびっくり。
広い白砂庭園の先に、刈り込まれた緑と石を配した立派な枯山水が展開される。
奥の山際に立つ石は、真言密教の本佛である大日如来だと説明された。

 

書院の軒には、細目の蟇股が白壁から浮き出ており、存在を強調している。
中央の社紋は「丸に剣片喰(まるにけんかたばみ)」我が家の家紋と同じである。
些細なことだが、安芸国と我が家系との繋がりも感じられて、一気に親近感が増す。

 

海のある奈良を地で行くように、遠くの山並みに見事に溶け込んでいる。
案内の老僧は活舌に多少難はあったが、名調子で案内してくれた。

 

真言密教寺院らしく金剛界曼荼羅が掲示されている。

 

こちらは胎蔵界曼荼羅で両界曼荼羅がお揃いだ。

 

書院が境内の広さに不釣り合いなほど広いのが印象的。
いずこから移築されてきたものかもしれない。

 

清風居、風水思想に合致する命名だろうか?

 

広いお庭は二段になっており、下段が枯山水で上段は池泉庭園である。
水清く、植生の手入れも行き届いている。

 

書院の前庭からさらに高い位置に本堂がある。
紅葉の名所らしいが今年は異常に秋が暖かく、11月中旬と言うのに青紅葉のまゝ。
ご本尊は国重文で、半丈六の釈迦牟尼佛である。

 

本堂から望む茅葺の書院、まさに古刹の雰囲気そのもの。
妻側の屋根がちょっと痛々しい。

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小浜 若狭彦・若狭姫神社

2023年11月22日 | 歴史探歩

若狭上社:若狭彦神社は彦火火出見尊、若狭下社:若狭姫神社は豊玉姫命を祀っており、遠敷の地にあることから上・下両社合わせて「遠敷明神」と称されている。

 

現在、社務所は下社に置かれているので、まずはこちらから参拝する。
若狭一之宮だけあって髄身門にも威厳あり。
若狭七国とは、若狭・加賀・能登・佐渡・越前・越中・越後の七国である。

往時、都に近いところから北陸の一の宮が若狭の地に置かれたのだろう。

 

遠敷神社の社紋とその意味するところの説明書きである。

 

下社髄身門から本殿を臨む。
檜皮葺きの屋根に、瓦棟が冠されている。
下社の主祭神は竜宮城のお姫様に擬せられる「豊玉姫命」。

 

上社、若狭彦神社の本殿。
千木と鰹木をいただく神明造りの社殿である。
上社の主祭神は、山幸・海幸彦の神話で有名な「彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)」である。

命・尊の使い分けは奈辺にあるのだろう?

 

境内には様々な者が配されているが、こちらは陰陽石。
リアルな形をしている。

 

下社から上社を遥拝する場所。

 

境内の樹木では圧倒的な存在感で神気を漂わせる千年杉が見もの。

 

上社と下社を併せての総称:遠敷神社(おにゅうじんじゃ)の掲額は下社にあった。

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小浜 神宮寺

2023年11月21日 | 歴史探歩

雑踏の金沢は早々に退散、北陸の古都小浜を目指す。

 

金沢⇔大阪間を結ぶ「特急サンダーバード」長らく親しまれたこの名前も、令和6年3月15日をもって消えるかな?
金沢⇔敦賀間に北陸新幹線が延伸するため、この間の在来線特急は廃止となる。

 

北陸新幹線敦賀駅もほぼ完成の域に・・・
線路の勾配を緩く保つため、新幹線敦賀駅は3階建ての立派な駅舎となっている。

敦賀⇔大阪間の在来線に、特急は新設されるのかな?

 

「海のある奈良」のキャッチコピーで売る小浜市、その名に恥じない古刹が数多く存在する。
まず訪れたのは「お水送り」で名高い神宮寺。
今回3度目の訪問で初めて、山門を潜って参拝した。

 

檜皮葺きの由緒ある山門から本堂方面を臨む。
車社会の昨今、駐車場が本堂間近にあるため、山門を経由しての参拝客はほとんど見ない。
それにしてはよく整備された参道に、天台宗古刹の威厳を感じた。

 

社務所へ向かう通用門も風情がある。

 

檜皮葺、向背付、5間社入母屋造りの本堂、背後の景色に見事に溶け込んでいる。

 

聖水を汲み出す閼伽井も清潔感いっぱい。

 

真言密教の聖地なので、立派な護摩壇も設えてある。

 

絵馬など多くが寄進されているが、さすが北前船の優良な寄港地だけあって、こんな櫂がが奉納されていた。
どこかから「江差追分」が聞こえてくるようだ。

 

本堂内部を観察すると天井は葺かれておらず、空間が広々としている。
桁、貫、柱を極力少なくする「大仏様」の建物かな?

 

境内背後の森では、建物修復用の木材が保存されていた。
これから先も神宮寺は安泰ですね。

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兼六園

2023年11月17日 | Weblog

金沢城に登ったのなら日本三名園に名を残す、兼六園にも足を延ばすのが定石かな。

 

何度か入園したことがあるが、これと言って印象に残っているものがない日本三名園の名園の一つ。
季節柄紅葉を期待したが残念、今年はやはり無理でした。
ハゼノキらしき木もあるが、紅葉の気配はなかった。

 

人気ことじ灯篭の背景も緑一色でした。

 

季節の風物詩、雪吊りは見事に完成しています。
この辺り、撮影待ちの外国人が群れを成しています。
人を入れずに写すのには、相当な根気が必要です。

 

鶴島OR亀島どちらかな? 僅かに色づいている樹木が1本ありました。

 

金沢市内を流れる辰巳用水は、公園内でも驚くほどの清流です。

 

どの石を数えるのか判然としませんが、向かって左から、恵比須様、大黒様、寿老人、福禄寿、布袋様、毘沙門天、弁財天と比定して、福寿山と称しています。

 

園内には数本、目を見張るような松の大木が存在を誇示しています。
さすがに見事な剪定で、日本庭園美躍如です。

 

何故北陸は金沢の地に、ヤマトタケルの像があるのでしょうか?
何時か耳にしましたが、この像には不思議な力が秘められていて、鳥が止まらずフン害がないのだとか・・・

 

関守石(立ち入り禁止標識)がポツンと置かれています。
押し寄せる外国の方々は、子の石が意味するところが分かっているのでしょうか?

 

帰りも兼六園⇒金沢駅まで歩いて帰りました。ヤレヤレ
金沢駅前は依然として人だかり、このモニュメントもこれが見納めかな。

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金沢城23 Ⅱ

2023年11月15日 | 歴史探歩

金沢前田家100万石のお城は、広大な規模の敷地を今に残しています。

 

三の丸と二の丸を隔てる橋爪門、鉄板で木材を補強する頑丈な造りの門はさすが頑強です。
やはりこちらも漆喰塗り込めの櫓門、脇を固める石垣は完璧な切り込み接ぎ、取り囲む塀は海鼠塀と各門共デザインは一貫しています。

 

橋爪門脇の櫓には唐破風を装う大きな石落としも備えています。

 

二の丸と本丸の間には空堀が存在します。
と言うよりは、自然の高低差を生かして防御性を高めているのかな。

 

二の丸から玉泉院丸へ向かう場所に、一風変わった石垣がありました。
説明版には「色紙短冊積」と聞きなれない名称が書かれていました。
石垣造りを風流に楽しんだのでしょうか?

 

長短の切り石を複雑に積むだけではなく、V字型の排水溝?も埋め込まれています。

 

二の丸方面から眺める玉泉院丸庭園。
本格的な日本庭園と見えたので、足を延ばしてみました。

 

州浜在り、臥龍松も見られて結構な眺めが展開されます。

 

定石通り鶴と亀の島も配されています。

玉泉院はまえだ利家の嫡男:前田利長の正室で、織田信長の4女:永姫(えいひめ)のことです。
戒名は「玉泉院殿松厳永寿大師」です。

 

玉泉院丸方向から望む本丸跡。
ここに本丸があったとは到底想像が出来ません。
現在は自然林が鬱蒼と茂り、野鳥の声も聞かれる自然庭園の様相でした。

 

本丸から二の丸を臨むとこの景色となります。
相当の高低差があることが確認できますね。

 

本丸下、二の丸側の石垣と犬走。
算木積、打ち込み接ぎなど多様な石垣が見られました。

 

そして兼六園側に設えられた石川門。
金沢城⇔兼六園を行きかう人で混雑しています。

 

金沢城と兼六園を隔てる百閒堀、現在は堀底を自動車道が走っていますが、前田公統治下ではどのような姿だったのでしょうか?

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金沢城23

2023年11月13日 | 歴史探歩

北陸新幹線かがやき号は全席指定席、行き当たりばったりの旅人にはとても利用し難いがやむを得ない。
乗車した東京発⇒金沢行は満席、前日ニンニクスパイス一杯の料理を食らったオイラの隣のお客様は、さぞかし大変だっただろう。
ゴメンナサイ

 

降り立った金沢駅はホームから構内、バス乗り場まで人・人・人で埋め尽くされていた。
バス停もタクシー乗り場も長~い行列が出来ている。

 

駅前のベンチの片隅に腰掛を見つけ思案六方、良い知恵が出るわけもなく、徒歩で金沢城を目指すこととした。

 

金沢駅前に整然と飾られたお花に心を癒され、気合を入れて第一歩を踏み出す。

 

金沢駅よりも更に観光客でごった返す近江町市場を素通り、だって海産物店も、食堂も、鮮魚店もすべて行列が出来ているのだから・・・
30分ほどで金沢城の新丸近くにたどり着く。

 

壮大なスケールの縄張り図があった。
さすが加賀百万石の名城だけのことはある。

 

新丸一帯は武家屋敷があった場所だと思うが、今はよく整備された芝生広場が広がっている。
ここも綺麗に整備されており、とても気持ちが良い。

 

残された大手堀の一角には水草が繁茂している。
二の丸との境は緩やかな傾斜の土手、堀の幅が広ければこれでも防御の目的は果たしている?

 

大手門脇の石垣に穿たれた縦長の排水口。
これほど縦長に開口する意味とは何か理解できなかった。

 

堂々たる構えの大手櫓門。
支える石垣は完璧な切り込み接ぎだ。

 

櫓を支える桁もすべて、巨大な一本物が使われている。

 

二の丸を固める菱櫓、菱形の平面を持つというが、その意図するところは何?
一層のなまこ塀が、お城の施されるのは珍しい。

横矢掛けを構成する五十間長屋、総二階建ての多門櫓と言うべきかな。
要所に唐破風を持つ石落としが設えてある。
ここまで美しさに拘るとは、さすが「かぶき者」のお城だけある。

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谷中でもんじゃ

2023年11月12日 | Weblog

今回東京を訪れた本命は、谷中の隠れた有名店でもんじゃを頂くことでした。

 

日暮里散策も最終盤、「秋の日は釣瓶落とし」とはよく言ったもの、あっという間に日暮れてしまいました。
もっとも、オイラの本拠地広島とは、相当時差があるのでその影響もありますね。
気づき難いけれど洒落た案内表示も見付けました。

 

地方都市でもよく見かける○○ぎんざ。
お目当てのお店はこの近くらしいのです。
オイラは首都圏の皆さんに、路銀負担で熱心にお誘い頂き、ようやく此処に来ることが出来ました。

 

谷中ぎんざには、こんなネオンも輝いていました。
若かりし頃、同業者に何度かお世話になったことがあります。
未だに商売になるのですかね?

 

看板も暖簾もない、一般民家風のお店に入りました。
相当な一徹物の店主と、事前に吹き込まれていましたので、恐る恐る「こんばんわ」です。

最初にお刺身(カルパッチョ)かな?で、軽くジャブが入りました。
続いては、まるで煉瓦のようなお肉の塊が出てきました。

 

表裏と適度な焦げ目が入ったところで、店主の鋭いナイフが入りました。
ニンニクの小片は、我々お客が丹念に鉄板で焦がしました。
煉瓦のような塊が、食べごろの大きさに切り分けられ、さぁ~どうぞ!の状態になりました。

 

続いては、ぷりっぷりっ ホタテの貝柱です。
これは情に厚い店主の心意気で、中国の輸入禁止で苦しむ東北・北海道のホタテ業者に、エールを送っているのでしょう。
白ネギとともにいただきます。

 

もんじゃ焼きの店と言うのに、一向に「もんじゃ」は姿を見せずです。
続いては鏡餅のようなメンチカツと、うずたかく積まれたキャベツが出されました。

メンチカツ=ミンチカツ、関東ではメンチで名古屋以西ではミンチと呼ぶようです。

 

これが「もんじゃ」、鉄板いっぱいに広がりました。
お昼も、3時のおやつもセーブして、やっとこのフルコースにお付き合いできました。

もんじゃの○○屋の看板を超える、充実した裏メニューにビックリでした。

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谷中散策

2023年11月11日 | 歴史探歩

小春日和の長閑な半日、谷中を散策しました。

 

谷中霊園内には有名人のお墓が数多くあるようですが、我々世代には有名人である澤田正二郎の墓石もありました。
新国劇の創設者?で、島田正吾や辰巳柳太郎、さらには緒形拳などの名優を育てました。

 

そして人情時代劇、鬼平犯科帳所縁の地でもあるようです。

 

季節外れの暖かな一日とはいえ、墓地に多くの人々が散策しているとは、さすがお江戸ですね。
「ひねもすのたり」の合間に、霊園に隣接するカフェで一服です。

 

幕末三舟の一人に数えられる、山岡鉄舟が建立した全生庵の本堂です。
徳川慶喜の護衛だった高橋泥舟、泥舟の指示により駿府で西郷隆盛と停戦談判をした山岡鉄舟、西郷と停戦条件を詰め江戸無血開城を果たした勝海舟、それぞれに立派に役目を果たしました。

 

剣豪でも知られる山岡鉄舟の墓です。

 

全生庵境内にある黄金の観音立像、スタイル抜群で妙になまめかしいですね。
不謹慎かな?

 

散策中あるお寺の前で変わった立札を発見しました。
当山(このお寺)で不幸があったということのようです。
忌中と同義語ですね。

 

谷中の冨士見坂に差し掛かりました。
つい最近までは左右二つのマンション挟まれて、富士山が拝めたようですが、遠方中央にさらにマンションが出来たため、ほぼ富士山を見ることは不可能になりましたとさ。
トホホ・・・

 

未練たっぷりに夕焼け富士を期待しましたが、この景色が精いっぱい。
でも見事な富士山が、365日拝めるのがここ冨士見坂です。

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谷中天王寺

2023年11月10日 | 歴史探歩

開祖された時は日蓮宗感応寺でしたのですが、元禄年間当寺の僧が遠島の罪に問われ、取り壊しを逃れるため天台宗に宗旨替えして、寺名も天王寺と改められました。

 

お寺の塀越しにこの看板?は少し奇異に感じます。
寺名の掲げ方は別にして、ご本尊を差し置いて「毘沙門天」はないでしょう。

 

道路に対面して開かれているのがこの門です。
ハイカラ、近代的で、一風変わったデザインです。
傍らには「まちかど賞」を受賞したことが示されていました。

 

ハイカラ門を潜った目前に「釈迦牟尼仏」の像が置かれています。
それにしても、合掌印を結ぶ釈迦如来は珍しいのではないでしょうか?

 

入り口門脇には「庚申塔」も残されています。
60日一度訪れる庚申(かのえさる)の日には、自身の体内に潜む「三尸虫(さんしちゅう)」という虫が、本人が寝ている間に天の帝に、悪行を告げ口をする日です。
悪事を告げ口されて困る人は、三尸虫に逃げられないよう、庚申塔の前で寝ずに一夜を明かす日です。(お酒を飲みながら・・・?)

 

芝生の敷かれた境内はしっとりと落ち着いており、寄棟造りの本堂は奈良の寺々を連想させます。
とても良い感じですね。

 

外部から毘沙門天が祀られていることをアピールしていたのは、七福神参りの方を招くためだったのでしょう。
毘沙門天を祀ったお堂が脇に建てられていました。
掲額は、右から読んで毘沙門天だそうです。

 

お参りを済ませて帰りはこちらの門を潜りました。
唐破風様の立派な藥居門で、やはり参拝にはこの門を利用しなくてはいけませんね。

 

建立時は壮大な境内を誇っていた天王寺、境内の一角には釈迦牟尼仏の台座がありました。

 

現在の寺院から少し離れた谷中霊園内に、五重塔の基壇が残されています。
正保元年(1644)に建てられた五重塔は、安永元年(1772)の火事で焼失しました。

19年後の寛永3年(1791)に再建された塔は、総欅造りで34メートルの立派なものでしたが、修行僧の自殺とともに焼失しました。
火災で炎上する五重塔の写真が、跡地に掲示されています。

このことを題材にしたのが、幸田露伴の「五重塔」。
三島由紀夫の「金閣寺」が思い起こされます。

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日暮里

2023年11月09日 | Weblog

日暮里(にっぽり)と読むらしいですが、この読み方少し日本語離れしている感があります。

会社勤めの現役時代も、定年退職後隠居してからも、数多く東京を訪れましたがこの駅に降り立ったのは初めてです。

 

古風然としたホームは幅も狭く、昭和の香りが色濃く残っています。
谷間にひっそり佇む感じの場所ですが、駅舎は一生懸命背伸びしているようです。

 

歩道と車道の境には、馬を象ったようなポールが立っています。
昔、馬頭観音でも祀られていたのでしょうか?

 

この場所から案内の方の説明が始まりました。
下御隠殿橋(しもごいんでんばし)、昔皇族方の別邸が付近にあったそうで、そこから命名されたそうです。

勝手に想像したのですが、日暮里=にっぽり=ひぐらしのさと=隠居さん 皇族方の隠居場所だったのかと…

 

戴いた、日暮里散策マップに面白い表記がありました。
下御隠殿橋は跨線橋になっており、「トレインミュージアム」と記されています。

この下を山手線、京浜東北線、東北本線、常磐線、高崎線、東北新幹線、上越新幹線、北陸新幹線などが通過するのです。
色々な列車を見放題ということのようです。
ちょっと面白い博物館ですね。

 

欄干には在来線の通過車両を代表して山手線が描かれていました。

 

そして新幹線はこの100系車両が描かれていますが、これは少し違和感があります。
100系車両は、この場所を走っていなかったと思いますが・・・

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岡崎城

2023年11月08日 | 歴史探歩

もう10年以上前になる、100名城で訪れて以来の岡崎城。

 

名鉄線東岡崎駅から徒歩で街中をぶらり。
乙川沿いをゆったりと…
マンフォールの図柄も予想された通りです。

 

岡崎城公園で庶民を睥睨する家康像。
何故か颯爽としたエピソードがないこの武将には、最も適したポーズかもしれないです。

 

どうする家康の大河ドラマ館があったので入館しました。
案の定、出演する俳優の写真ばかりで見どころなし。
タダこの模型だけは良く出来ているなと思いました。

 

厭離穢土 欣求浄土 家康でなくてもこの言葉は好き、当たり前ですよね。

 

皺くちゃで使い古し、この幟旗も気に入りました。
幟旗の多くは金ぴかのものが掲げられていますが、小大名の実情はこんなものでしょう。

 

家康の「しかめ面像」が公園内にあったのにはビックリ。
出世大名家康に最もふさわしくない肖像なのに、これが岡崎にあったとはです。

 

本丸を囲う空堀ですが幅も狭く、本丸側が土塁となっている。

 

天守直下の石垣と堀。
「五万石でも岡崎様は お城下まで船が着く」と謡われた通り、外堀は乙川と伊賀川の二つの川がその役目を担い、内堀はお飾り程度です。

 

お城西側を流れる伊賀川、外堀の役目を果たしたかな?

 

こちらは「岡崎城下二十七曲り」市街地の「折れ」はすさまじい。
二つの川と「折れ」が守りの生命線だったのか岡崎城。

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浜松逍遥

2023年11月07日 | Weblog

ふるさと浜松へ野暮用で寸時帰省しました。

 

JR浜町駅前の地下広場で、見慣れないものを見ましたので紹介します。
これは誰が見られてもお判りでしょう。楽器です。 ホルンかな?
浜松にはヤマハ、カワイなど日本有数の楽器製造会社が在ります。

 

そしてちょっと奇怪なモニュメントがありました。
浜名湖に浮かぶヨットと、5月の黄金週間に開催される「浜松まつり=凧あげまつり」を表現しているそです。

 

続いて浜松市のシンボルマーク=市章と、元気に遊ぶ子供たちのようです。
説明版の解説に基づいて紹介しています。

 

太陽とプラタナスだそうです。
ボキャ貧のオイラにはあまり理解できません。

 

こちらはピアノですね。

 

これは織機のようです。
昭和前半の浜松は織物も有名でした。

 

そして最も浜松を代表するのが、オートバイでしょう。
ホンダ、スズキ、ヤマハ、と世界に冠たるオートバイ王国を形成しました。
現在はこれらの会社は、4輪車の世界でも頑張っていますね。

 

そして今年もまた家康ですか。
「どうする家康」あまり盛り上がっていないようですね。

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鞆の浦

2023年11月06日 | 歴史探歩

「たけはら「に続いて、翌日は福山市「鞆の浦」へ友を案内したのですが、これが全くの期待外れ、二泊三日の最終日にちょっと落ち込みました。

 

「鞆の浦の街歩き」を、地元のガイドさんに詳しく案内してもらおうと思ったのですが、この方話自慢なのか前口上がやたらと長く、おまけに鞆の浦とは直接関係のない福山城の話などをだらだらと・・・
声も良く通り、知識もそれなりにあるのですが、肝心な鞆の浦の話が一向に始まらず、一同あきれて白けていました。

 

やっと始まった対潮楼でも、前住職の名調子は無理にしても、それなりの説明はとちょっぴり期待したのですが・・・

 

それでも、「日東第一形勝=日出ずる東の国、第一の景勝」はいつ眺めても素晴らしいです。
朝鮮通信使の感慨を表した言葉で、朝鮮半島の東にあり輝く国は、すなわち日本のことです。


形勝は景勝の誤りかと思いますが、このようにも書きますかね?

 

本堂の蟇股、少しやりすぎの感もありますが、対潮楼のものらしくてよいかな?

 

前口上に時間を取られて「鞆の街歩き」は大端折りで、駆け抜けました。
ガイドの基本である時間配分に問題がありました。

耐食用の焼き板塀も随分傷んでいます。

 

竹原市でも見かけた茅の輪、鞆の浦でも多くの家庭に吊るされていました。
安芸と備後では、それなりに風習も異なるようで、広島県も結構広いですね。

 

広島から福山まで移動時間短縮も考えて、新幹線こだまを久し振りに利用しました。
こだま=がら空きのイメージでしたが全く違っていました。

日本最速の500系車両が、今ではJR西日本区間だけで、こだまに使われていました。

 

意外と乗客が多く、空席を求めて、とうとう1号車迄きてしまいました。
そこで見たのがこの光景、最前部(運転席後部)に模擬の運転席が設えてあります。

 

女性運転手がスタンバイしていました。
今にも料理が始まるような雰囲気ですが大丈夫かな?

 

運転を開始すると間もなく、列車は時速300キロに到達していました。
JR西日本もやるね! 
子供だましと言うなかれ、束の間の楽しみですが、大人も満足です。

「たけはら」の名ガイドに心を打たれ、「鞆の浦」の独りよがりのガイドに落胆し、ちょっとした新幹線のサービスにはしゃぐ、老人たちの旅も色々あって楽しいです。

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