もっちゃんの探歩三昧

歴史探訪や仏像鑑賞、友人との交友をタイムリーに投稿します

伊賀上野城

2023年04月13日 | 御城印

百名城探訪時、時間切れとなった高石垣が見たくて再訪したが・・・

 

JR関西本線伊賀上野駅ホームの案内板がこれ。
この案内版では何が何だかさっぱり分からない。
クネクネの矢印はどこをを指し示しているのか? おそらく「伊賀鉄道」の乗り場案内だろう。
「忍者」は一番のりばとはどうゆう意味か?

 

JR伊賀上野駅は伊賀上野市中心部から外れているので、第三セクター「伊賀鉄道」に乗り換えて「上野市駅」まで行くのがベターと言うことらしい。
チョット独りよがりの感じだね。
車両前部に描かれた、伊賀忍者くの一の眼光があやしい。

 

車内は質素な感じの木目調で統一されている。

 

車内で切符を求めたら、このような古風の券が渡された。

 

ここでも俗称の忍者市駅としか表示されていない。
一瞬、「またやっちまったか?」と思った。
この頃旅先で時々感違いをするんですよ。

どこかに上野市駅も表示してほしい。

 

上野市駅から少し登り勾配の道を辿ると、ほどなく城内に辿り着いた。
南側から攻めると、平山城となっているが、ほぼ平坦な場所に位置している。

 

少し丸みを帯びた自然石を丁寧に積み重ねている。
石垣造りの名手、藤堂高虎の手になるものかな。


三重天守と二重櫓の連格式で、天守閣と対比して石垣部分が高い。

 

天守北側は幅広の堀が囲み、自慢の高石垣が臨まれる。
なるほど北側から臨めば、平山城と称されることに納得。

 

城内に放置された巨石、どのような場所に積まれていたのか?
石垣を構成する石は、角が丸く比較的小さい石が利用されている。

 

天守北側に積まれた(放置位置された)土石。
裏込めのための物を、防備に流用したものか?

 

石垣の切れ目の勾配を下っていくと、本丸北側のお堀と高石垣を臨む場所に出る。

 

自慢の高石垣だが堀の外を灌木が囲んでおり、限られた場所でしか見ることが出来ない。
石垣の反りもほとんどなく、丸亀城の高さと流麗さには遠く及ばない感じ。

 

御城印を入手。

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松山城

2023年03月16日 | 御城印

伊予松山城を訪ねた。何回目だろう。都度新たな発見がある。

 

せり出した石垣の上に、ピッタリ隙間なく櫓が乗っかり、さらに石落としが外側に設置されている。

 

大手登城道も幅が狭く左側は崖、右側は石垣が迫り、堅い防御構造となっている。
観光客が歩きやすいよう現在は簡易舗装されているが、本来は不規則な階段道で移動を難しくしている。

 

天守間近まで到着したが、複雑な建物構造が攻撃側を惑わす。

 

ここでも門の先は行き止まり? 左は石垣、右は崖、攻撃側は進退窮まれり。

 

門は小振りで威圧感はなく、荒い加工の野物材が使われている。

 

連結・連格式とでも言うのか、建屋と建屋が連結されたり、間に廊下を配したり、塀で仕切って虎口を設けたり、複雑な縄張りとしている。

 

塀の支えも石柱が使われており、埋め込んだ部分が腐食する心配がない。
この辺りは新しく建てられただけあって、工夫されている。

 

全体的に装飾を省き質素な造りとなっているが、天守への入り口は唐破風様で前勾配が付いており、ちょっとおしゃれ。
現実問題として入り口に、雨だれが落ちるのを防いでいるのだろう。

 

櫓内の梁は、防虫効果のある楠木材が使用されている。
この部分材料は、綺麗に加工されているのが不思議。

 

勝山と言う低山に築かれた松山城の縄張り。
右上部斜めに細長い場所(白地の部分)が本丸、左下側の四角く仕切られた部分が二の丸。

 

松山城の御城印、梅鉢は久松氏、左巴は蒲生氏、蛇の目は加藤氏、葵は松平氏である。

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高松城 玉藻公園

2022年08月04日 | 御城印

讃岐の国:高松に生駒氏の居城を訪ねる。

 

JR高松駅の至近にあるのでアクセスは抜群、これ以上は望めない場所にある。
入場口付近の石垣がこれ、野面積と言うのかな。

 

とにかくこの城の特徴?は石垣の積み方にある。
場所・場所によって、まったく異なる積み方になっている。
大小に石を混交しているが、何故かおさまりが悪い感じ、不安定とも異なり妙に落ち着かない。

 

天守へ向かう、屋根付き橋の際の石垣、様々な石をただ積み重ねたよう…
加工年代が異なるのだろうが、もう少し何とかならなかったのかな。

 

天守台に続く石垣は、さすがに石の形もそろっており、扇の勾配も見られる。

 

城内には珍しい屋根付き橋。
杮葺きなのだろうが、金属の覆いが掛けてあるのは残念。

 

天守台から、水門方面を臨む。
遠景は瀬戸内の島並みで、お堀には海水が導かれている。

 

現存建物である月見櫓。
お城らしい雰囲気に出会えて、何故かホッとする。

 

潮が満ちてくると水門を通して、瀬戸内海の潮が城内へ入ってくる。

 

お堀の内では、餌を求めて「クロダイ」が群がっていた。

 

現存する月見櫓は駐車場に面しているが、本来は海に浮かんでいたのでは?

 

復元された桜御門、桁は剥き出しの丸太がそのまま使われている。

 

御城印です。

生駒氏がお家騒動で没落後は松平氏が入封し、毛利氏や島津氏と言った、西の外様大名の押さえを担った城。
瀬戸内海の海上交通を掌握していたのだろう。

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徳島城表御門庭園 泉水回遊

2022年08月02日 | 御城印

蓬莱山を越えて北側に斜面を下ると、そこからは泉水回遊庭園なる。

 

庭園内(城内)に気が湧き出る場所があった。
徳島地方では産出されない花崗岩を、四角く繰り抜いて井戸枠としている。
深部は当地特産の緑泥岩を積み重ねているらしい。

 

松や躑躅が主体だった枯山水から、泉水回遊に替わって植生が変化している。
燈籠は加工を最小限にして、さりげなく置かれている。
何処までも自然石の美しさを追求する宗箇流か。

 

心字池と思われる泉水へへ流れ込む清流。

 

巨岩が林立する中流域の峡谷を流れ下って・・・

 

やがて心字池に流れ込む。

 

下流になると立石はなくなるが、どこまでも荒々しい石組は続く。

 

筋目がはっきりした緑泥岩を、これでもかと言わんばかりに重ねていく。

 

広々とした大海は芝生広場に接している。
岸辺はさすがに石を寝かせて穏やかさを表現か。

 

島も設えてあるが、鶴島・亀島の判別ははっきりしない。
庭園案内にも、鶴・亀島の説明はなされていない。

 

これは三尊石であろう。
新人深いオイラは、常に三尊石に飢えているのかも?

 

豪快な石組、ここに極まれり。
巨岩の下は潜り抜けることが出来そうだがとても狭い。
生みの苦しみが表現されているのかもしれない。

 

何処までも続くかと思われる、スケールの大きな庭園である。

 

徳島城の御城印です。

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徳島城22

2022年07月29日 | 御城印

徳島市内中心部に城跡は残る。

 

JR徳島駅から指呼の位置にあり、市民の散歩など憩いの場となっているようだ。

 

石垣は、四国で多く見られる青みがかった石を無造作に積み上げた感じ。

 

北に助任川、南に寺島川、東に堀を配して、標高60メートルの城山に築かれた。
蜂須賀家14代、280年続いた25万石の城郭である。

 

建物は廃藩置県によって取り壊され、平成元年に再建された「鷲の門」があるのみ。
重厚な薬医門である。

 

城跡一帯は公園として整備され、親水テラスの様な場所もある。

 

都会の中心に位置するこの場所にも、この通り鴨たちが水に戯れる。

 

城郭が築かれた城山は、全山が岩で成り立っており、石垣用の石は容易に手に入ったのだろう。

 

鬱蒼とした城山と見えるが、近づくと白鷺の巣屈となっており近寄り難かった。

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岩国城Ⅱ

2021年04月29日 | 御城印

ジオラマなるものを各地で見かけるが、いかにも作り物感が強く感心しないものが多い。

 

これは岩国御城下のジオラマ?
ではなく実景! なんとジオラマ感満載ではありませんか。

これを機にジオラマを過小評価することを慎みます。

 

山麓に建てられた吉川家の御土居跡は、天守から俯瞰できる。

 

古絵図に描き残された錦帯橋。

 

御土居跡には堀と石垣が残されており、往時を偲ぶことが出来る。
現在吉香神社となっている。

 

岩国吉川氏13代の墓はご覧の通りの五輪塔。
8代、吉川経忠の五輪塔。

 

岩国城の御城印、吉川家の家紋は「九曜紋」。

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岩国城

2021年04月28日 | 御城印

花見シーズンも終わったし、多分「疎」だろうからと予測し岩国城へ…

 

錦帯橋上から岩国城天守を遠望する。

 

岩国の御城下は「吉香公園」となっており、侍屋敷を思わせる風情が漂う。

 

お屋敷の石垣に健気な一株を見つけた。
雑把な性格に似合わず、この種の一途さがなんとも気になる。
我ながら不思議な感じ。

 

吉香公園の中程に、風変わりな噴水を見掛けた。
盛夏には一服の清涼剤となるだろう。

 

歴史を感じさせる旧宅。
屋根に斑模様を描く「半丸瓦」が珍しい。

 

山上に残されている岩国城天守の石垣。
何故かここに天守は復元されなかった。

 

旧天守から百メートルほど離れた場所に復元天守が建つ。

予想通り観光客はまばらで、密状態にあらず。

 

天守から岩国城下町を俯瞰する。
大きく蛇行する錦川を挟んで町が形成されている。

錦帯橋は有力な生活道路だったのだろうか?

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毛利郡山城

2021年02月10日 | 御城印

広島県内で三蜜を避けられる場所なら出掛けても良いかな?
自問自答の末、まったく凡庸な場所を選ぶ。

 

つとに有名な「三矢の訓碑」も、この日は昨夜来の雪で薄化粧。

 

「郡山城ここでもか!」いつの間に建てられたか、どこにでもお目に掛かる武将の像。
謀が得意だった毛利元就の、勇壮なこの姿は似合わないと思うのは私だけか?

 

まずは敬意を表して清神社を参拝、この日の無事を祈る。
改めて仰ぎ見る「御神木」が神々しい。

 

凍てつく参道を踏みしめて墓所へ…
廃仏毀釈を進めた明治政府だが、墓所の入り口には鳥居が残されている。

 

毛利元就の墓、中国地方の覇者にして簡素な造り。
墓石代わりの大樹の脇に「従三位大江朝臣元就の墓」の碑。

 

残雪が残る本丸への登城は断念したので、本丸は資料映像で…

 

帰途元就の火葬場跡に立ち寄る。
一帯は公園化され憩いの広場風、当然のことだが人影は見えず。

 

歴女同様、流行りの御城印を入手して記念とする。

 

歴史民俗資料館には何故か、広島城木造復元を待望するチラシが置かれていた。

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松本城Ⅱ

2020年11月27日 | 御城印

コロナ禍で間合いを取るためか少し待たされた後、場内へ案内された。

 

5重6階の平城だが、標高はこの通り…
お侍い様達、さぞかし寒かったことでしょう。

 

低層階内部は、この通り柱が林立してとても手狭な感じ…
上層階の重量を多くの柱で支えているのだろう。
通し柱があると聞いていたが、どれかは聞き忘れた。

 

城内にこれと言った展示物はなく、目立ったのはこれくらい。
何処かの破風に付けられていた、「蕪懸魚」と「六葉紋」。

 

渡り櫓の鬼板にはなぜか五七桐紋が?

 

3重には四方に、千鳥破風と唐破風は設えてある。
内部にはそれぞれに、破風の間がある。

 

狭い階段の開口部と手摺、多くの人の手に触れたため表面はツルツルである。
竹の部分は、近年補足されたものだろう。

 

最上階は屋根までが高く明るい。
野物材の組み物が露出しており、普請の様子が良く分かる。

 

珍しいものを見付けた。
全国の国宝に数多くお目に掛かったが、この書を見るのは初めて。

 

華頭窓が設えられたこの部屋は「詰丸」か?

 

天守に連結された「月見櫓」は窓が広く、とても開放的。
幾度となく、月見の宴が開かれたことだろう。

 

月見櫓脇には、内堀へ出られる船着き場がある。

 

国宝松本城の御城印である。

 

蛇足ながら…
本丸展示場にあった「広島城の写真」、このアングルからどのようにして撮影したのだろうか?

広島城の下見板も漆塗りであったと言う説があるが、松本城の漆塀を見た後では、この状態はあまりにみすぼらしい。

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松本城

2020年11月26日 | 御城印

国宝松本城、現存天守12城の中で1~2の輝きを放つ!

 

本丸に向かう登城道に歴代城主名入りの「ぼんぼり」が並んでいる。
一つを選べと言われれば、迷うことなく「笹竜胆紋の石川数正」だ。

 

生い立ち、行動になぞの多いと言われる石川数正、妙に気になる武将の一人だ!

 

さすが国宝であり、松本市の金看板でもあるだけあって、登城道から天守がバッチリ!

 

チョット感心しない色使いで見難いが、松本城の縄張りが詳細に描かれている。

 

内堀を挟んで天守を臨み、背景を取り込んだつもりだが山が写っていない。

この角度から見ると望楼型から層塔型への、移行期に建てられた天守だとわかる。
すなわち2重目までが望楼型で、3~5重が層塔型の外観をよく現わしているようだ。

 

本丸御殿の入り口は高麗門。

 

入り口脇の城塀の支えは、漆塗りの柱をそのまま土中に埋め込み。
お濠に向かってほぼ等間隔で、狭間が穿ってある。

 

本丸御殿が残っていないのは残念であるが、場内はよく整備されていて気持ちが良い。

5重6階の天守を挟んで右が乾櫓、左が付・月見櫓である。

 

折しも紅葉の真っ盛り、紅葉の紅、銀杏の黄、下見板の黒を楽しむ。

 

この石積は「打ち込み接ぎ」かな?
石垣上部に張り出した開口部分は石落とし。

 

間近で見る下見板は、1ケ月前に塗り替えが終わったばかりで、光り輝いている。

 

背景は日本の屋根ともいえる北アルプスだ!

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備中松山城Ⅳ

2020年11月05日 | 御城印

本当に見る者を惹きつけて止まないお城です。

 

天守内に入ってみました。
予想通り天井は葺かれておらず、野物材と荒い加工の柱が剥き出しの天守でした。

 

上層へ上がる階段は本当に急勾配、年寄りは手摺に縋ってやっとの思いで登ります。
ただちょっと設計ミスか、階段上り口は柱が邪魔して幅がとても狭いです。

 

唐破風の物と思われる廃材が展示してありました。
木材を曲げて? 唐破風のカーブを作り出しているようです。
すごいですね!

 

天守からの北西部の眺望は、雑木に遮られて臨めませんでした。
せめて目下を流れる、高梁川は見たかったです。

 

本丸東側、写真中央手前の妻屋根部分が東御門、その左手は深い谷となっています。
また、左手に見える通路と本丸は、10メートル近い高低差があります。

 

破風の間に近づいて見上げればこの景色、何を落とされるか恐怖以外何物でもありません。

 

この方がサンジュウロウ殿様、貫禄十分で微動だにしませんでした。
メタボかな?
城主のサンジュウロウに別れを告げて下城しました。

 

本当に苦労して築かれた石垣にも、最後の別れを告げました。

 

現存12天守に一つっであり、日本3大山城で唯一天守を持つ、備中松山城の御城印です。

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備中松山城Ⅲ

2020年11月05日 | 御城印

鏡石と思しき巨岩(このお城にしては…)が積まれた石垣を、巻いて上がれば天守が眼前に現れる。

 

横長、縦長、角型と様々な石を無造作に積んである。
野面積と言うのかな?

 

二の丸から本丸を見る。
五の平櫓が入り口の階段上にせり出し、巨大な石落としが覆い被さる構造。
本丸南御門は此処からは、櫓で死角になっている。

 

本丸からの天守、自然の岩盤上に建てられているのがわかる。
ここでも山容に合わせて漆喰塀が築かれている。
唐破風の間にも石落としが…

 

本丸を仕切る石垣は直線的に鋭く立ち上がり、上部に塀が築かれ敵を寄せ付けない。
この上に広い本丸があるとは想像できない?

 

本丸内は意外に広く、ここでも塀に狭間が穿ってある。

 

本丸の基礎に正面から近づくと、岩盤の上に丁寧に築かれた石垣が眼前に…

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備中松山城Ⅱ

2020年11月04日 | 御城印

石垣が、大河ドラマ「真田丸」のタイトルバックに使われたことで、さらに人気は高まった?

画面中央下にあるそそり立つ岸壁の上部から、滝状に水が噴き出す画面がタイトルバックとなっていた。

 

急勾配の上、複雑な石段が敵を寄せ付けない。

 

くねる山容に併せて、複雑な石垣が築かれている。
よくぞここまで…

 

さらに道なりに登城道が続き、防御のために狭間を穿った漆喰塀もそこかしこに…

 

石垣もこの通り、登城道の曲折に併せて築かれる。
説明が下手だが、要するに道に併せて曲がった石垣が築かれてるってこと。

 

三の丸は狭い山城にしては結構広い。
二の丸方面もつづら折りに沿って、防御の石垣と漆喰塀が立ち塞がる

 

三の丸と二の丸の間に位置する「厠曲輪」
厠にしてはずいぶん広いが、馬用なども併設かな?

文字通り厠があったのか分からないが、全国のお城でこの名称は初めてではないかな。

 

二の丸入り口には鉄門の跡が残っている。
曲がって登る狭い場所に上手に配されているのは、今風に表現すれば「良い仕事してますね」か。

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備中松山城

2020年11月03日 | 御城印

何度か登城したが、日本3大山城と言われるだけあって見所は満載、何度でも行きたいお城である。

 

備中高梁市へ向かう伯備線の一駅:美袋(みなぎ)とはとても読めない。
隣には注意して読みなさいと「注意看板」があった。(そんなわけないか!)

 

鞴峠からの登城道、山城を攻める覚悟はできたか?

今回は連れの体力を慮って、城下町からの登城は諦め、最上部の駐車場から天守を目指す。

 

臥牛山の山腹を巧みに利用して、曲輪が設えられている。

よくぞ築城したと、賛辞を贈りたい。

 

息が弾んできたら振り返り、備中高梁の御城下を俯瞰する。

息抜きをしながら、城主になった気分で絶景を堪能する。

 

登山で訪れる方も多く、四季の花々の紹介版もあった。

 

武家言葉での案内板がそこかしこに…
でも、「よくぞまいられた」は登城心得ではないだろう。
誰にともなくツッコミを入れる。

 

 

頭上が明るくなり本丸近しの感じ。

 

 

この複雑な石垣こそ備中松山城の看板。

じっくりとご覧あれ!

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吉田城

2020年10月10日 | 御城印

今シリーズ、旅の終わりに尋ねたのは、豊橋市の吉田城。

 

豊橋駅前から出ている路面電車に初めて乗車。
スリムで少し座高が高い印象。

豊橋では、路面電車が信号に差し掛かると、優先的に「すすめ」に変わると聞いたことがあるが本当かな?

 

脚が長くない?オイラは乗るのがちょっと心配だったが…
ドァーが開くのに同期してステップが降りてきたので、ほっと一安心。
でも「バリアーフリー」には程遠く、早晩改善しなくてはならないだろう。

 

吉田城の縄張り、背後の豊川を天然の外堀として、大手側に3重の堀を巡らしている。

 

北の守り、豊川対岸から天守方向を臨む。
以外に豊川の水面が高く、鉄壁の防備とは思えないが…

 

城内の各所に、石垣、土盛などが残されている。

 

孕んだ石垣を修復した箇所も散見された。

 

復元された3重の天守、資料館になっていて無料で入場出来る。

 

天守から見た豊川、右上方方向に向かえば豊川稲荷がある。
やはり結構な高さがあり、こちらから攻め込むのは難しそう。

 

結構な高さに積み上げられた土森、石垣の上に土を盛って強固にしている。
関ヶ原の戦いで勇猛を馳せた池田輝政も、吉田から姫路を経て岡山城主となった。

 

吉田城の御城印です、登城は令和2年9月22日でした。

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