ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「その先へ」 20220721

2022-07-21 | Weblog

 

 

 

居心地の良い場所は必要だ、何よりも
このうえなく、そう言ってもいい

そのことを知ることではじめて
この世の居心地の悪さの本質をえぐり出せる

そして、その次がある

計り知れない未記述の生の地平がある
この直観に従えば
同時にそれが、居心地の良さの本質をえぐり出す

わかりあえる水準でわかりあう
その先へ──

直観が告げる
したり顔で語りたがる分別の口を塞いで黙らせろ

黙らせたうえで
居心地の良さに満ち足りた関係の外へ出ろ

どんなに世界が確定された姿で現れても
俺たちは未決の空域を携えて生きている

世界記述を書き換えるフリーハンドがある
手つかずのまま放置されたフリースペースがある

身についた分別を解除して耕すべき生の圏域がある
この圏域とリンクすることで沸き立つ原理的作動がある

だれかに求められたモチーフ、絵ではない
世界を黙らせたうえで始められる絵がある

分別が別の分別に入れ替わっても世界は変化しない
分別なんぞはじめから問題にならない展開領域がある

野蛮さと繊細さの極みが溶け合って耕される人間の地平
アートと呼ばれるものに許された試行の方法がある

(後出しにちがいない──そういう提案だった)

 

 

 

 

コメント

「ぼく(主語)の生成」20220721

2022-07-21 | 参照

 

 

 

──竹田青嗣『欲望論』267、268、271


人間の幻想的世界の生成は、「母」の与える禁止と規範によって、
初発の身体的エロス(快-不快)の二項性が、
価値承認的エロス(よい-わるい)へとその中心性を転移してゆく途上で、
この二項性の重層的様相として現われてくる。

人間の「自己」とは、本質的に、「よい-わるい」「善悪」の価値審級を
内面化する自己意識として成立する。……
この道程における不調は、父の威力の残滓としての「超自我」ではなく、
身体的に体制化された「不安」(不安身体)や「疚しい良心」としての「超自我」を形成する。

自己の幸福が内的な中心的課題となりうるのは、
あくまで関係的競合ゲームのうちでの他者との対抗、相克を通してである。

「子」がはじめに「私」という主語の主体となるのは権威者による
規範、義務の交付に対する内的な言語化をともなう対抗的抗弁においてである。
すなわち「私」の至福、幸運、優越や特権の意識においてではなく、
むしろ「私」の不運、「私」の蒙った不当、「私」の悲しみにおいて、
はじめて「私」は、一つの主語、「私」という物語の主語となる。

 

 

コメント