https://www.youtube.com/watch?v=dvjJc7pjnBs
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われわれは「主観」から絶対に抜け出すことができない。
しかしわれわれはそのことをしばしば忘れ、あるいは常時忘れている。
主観Aと主観Bとはそれぞれ乗り越え不可能な隔絶した固有の経験のなかにあり、相互の実存を離脱して入れ替わることはできない。それぞれの経験の入れ替え不可能性、固有の生の一回性、状況性、個のかけがえのなさを生きるほかない。
にもかかわらず、主観内には主観ならぬ「客観」という概念が生成する。
「客観的に言えば~」──と主観は語る。関係場面において頻出するクリシェ。
みずからのコトバの妥当性や正当性を修飾するクリシェとしての「客観」。主観と主観の関係場面において、相互のちがいや矛盾や対抗を乗り超えることが可能であるかのように、関係しあう主観すべての納得と了解をめがけるように生成する「客観」という〝関係項〟。
われわれはなぜ「客観的~」と平然と言い立てることができるのか──
ニーチェの本質洞察──主観が主観にはたらきかける「主観の一様態」としての「客観」。
すなわち、「関係のゲーム」における〝ゲーム仕様の主観〟、としての「客観」。
「主観」をこえた正当性をもつ位相にあるコトバ、記述命題、という自己規定。そのことをめがける「主観」の意思と結びついた「客観」という言葉。その生成はつねに関係場面において発動している。自己中心的でないこと、独断論ではないこと。そのことの自己申告としての「客観的に言えば~」という言明。
「客観」という実体(世界)は存在しない。しかし、関係のゲームを営む関係存在として、「客観」という信憑、確信は必然的に「主観」内に生まれる。「主観」と「主観」を結びあわせる「関係子」(関係項)としての「客観」(という観念)をもとめる根本ニーズ(欲望)。
結び合わせるパターンの多様な形式。ゲーム関係者の総意の承認調達をめがける〝客観的確定記述〟としての関係項。関係世界の関係存在として生きるかぎり、原理的に「客観(関係項)」の生成を滅ぼすことはできない。
客観の適切な用法は、その生成的本質をとらえることから導かれる。
関係項(客観記述)の適切な構成と用法の決定的な重要性──生成的本質、すなわち人為性、主観の変容形態であることの自覚、そしてそのことについての共通の了解。なぜか。
「客観」は暴走する──個(他の主観)の制圧、蹂躙を正当化する〝超越項化〟という機制。「客観」の用法において適切なありかたを身につける必要がある。「客観」という概念の適切な書き換え──主観同士の「共通了解」(それ自体も関係項である)としての「客観」。そしてその人為性、生成性、さらに刷新可能性についての自覚の必須性。
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主観の主観であることの乗りこえの試行、その動機(欲望)から生成する「客観」という項。主観内に生成するこの「客観」の正当性、妥当性は、ただ主観と主観の間で展開される「関係的ゲーム(言語ゲーム)」において試され、合意あるいは否認という判定を受け、鍛えられることになる。
主観の日々のいとなみは、つねにこの合意と承認を広く手に入れる願いを潜在させながら動いている。しばしば、あるいは常時、その逸脱した用法において。すなわち、主観を超えた真理という「信憑」において。