文理両道

専門は電気工学。経営学、経済学、内部監査等にも詳しい。
90以上の資格試験に合格。
執筆依頼、献本等歓迎。

書評:もしも高校四年生があったら、英語を話せるようになるか

2017-09-29 07:43:25 | 書評:学術・教養(人文・社会他)
もしも高校四年生があったら、英語を話せるようになるか
クリエーター情報なし
幻冬舎

・金沢優

 「もしも高校四年生があったら、英語を話せるようになるか」というこのタイトルの問いかけに対して、あなたならどう答えるだろうか。もちろんその回答は「否」である。多くの人が中学、高校で6年間は英語を学んでいる。しかし、実際に英語を使いこなしている人がどのくらいいるだろうか。例え高校がもう1年長くなったにしても、同じような教育の延長では、英語ができるようになるとは考えられない。英語が本当にできるようになるには、学校英語の教え方を根本から変えなければならないというのが本書の主張である。

 本書は、読み書きはそれなりにできるが、リスニングやスピーキングがまるでだめな中学校英語教師・桜木真穂を主人公にして、どうしたら英語を使いこなせるようになるのかを小説仕立てで描いたものである。真穂は、英会話スクールに通ったり、オンライン英会話を試したり、教材を買いこんだりといろいろやっているのだが、いっこうに手ごたえが感じられない。ところが、踏切内に人が立ち入ったため、安全確認のために電車が停止した際に、たまたま「吉原龍子 英会話教室」の看板を見たことから、彼女の英語に対する取り組みが変わっていく。

 本書の主張する、英語と日本語とは根本的に違うものだということには賛成だ。巷ではよく直訳だの意訳だのという言葉があるが、昔から私には意味が分からなかった。元々違うものを直訳などできる訳がない。元の文章が意味するところのものを、いかに正確に伝えるかが翻訳というものだろうと思うのだが。

 もう一つ分からないのが、「語学留学」という言葉だ。単に外国語が話せるようになるために外国に行くことを通常は語学留学といっているようだが、まったくのナンセンスだ。「言語学」でも学びに行くのならともかく、どこに「学」があるのだろうか。

 本書の言うように、そもそも英語が教科扱いされているのもおかしい。言葉を身につけるというのは、コミュニケーションツールを身につけることなので、学問ではない。英語もコミュニケーションの道具なので、決して「語学」扱いするものではないだろう。

 本書で教える英語を学ぶための方法論には、賛同することも多いが、しいて言えば、もっと英語を学ぶ目的の重要性を強調して欲しかった。ネイティブといっても色々なレベルがある。日本語でもそうだが、北海道から沖縄まで、様々な訛りがあるだろう。スラングも数多くある。私なども、最近のギャル語などはさっぱりわからないし、同じ日本語なのにまったく聞き取れないような方言だって結構あるのだ。英語だって同じことだろう。

 英語を学ぶ目的は何か。将来貿易関係の仕事をしたいのか、外国に留学して科学を学びたいのか、それともイケイケギャル(外国にもいるのか?)といちゃいちゃしたいのか。それによりおのずとどのような英語をどこまで身につければいいのかも決まってくるだろう。英語が道具である以上、それの使い方ばかりに時間をかけてる暇など、普通の人にはないのだ。

 ところで、本書のストーリーは、真穂が旧態依然とした教え方を要求する英語の学年主任である阿蘇と戦っていくというものでもある。この阿蘇は従来の読み書き中心の英語以外は一切認めず、関係代名詞の説明の矢印が右向きか左向きかなんて下らないことに異常にこだわる人物として描かれる。要するに主人公の敵役なわけだが、こういう人物を登場させることにより、お話として面白さを与える効果を狙っているのだろうと思う。

 もう一人、この作品には、大変人が登場する。それが、真穂が通いだした英語塾の塾長である吉原龍子だ。この人物、とにかくエキセントリックで、さすがにこんな人はいないだろうと思うのだが、塾を実質切り盛りしている常識人の有紀となかなかいいコンビなのだ。この大変人ぶりも、ここまでいくと痛快でなかなか面白い。

 確かに、日本人は英語オンチだ。これを変えるために、文科省はまた大学入試で英語の試験を外部に丸投げなどしたりといったような事を行うようだが、お役人がやることでこれまでうまくいった試しはない。またまた世間を混乱させるだけで終わるだろう。そんなことをやるより、今日本にものすごくいる理科オンチの方をどうにかして欲しいと思う。でも、お役人が考えると、またろくでもない結果に終わるだろうというのが大きなジレンマではあるのだが。

☆☆☆☆

※初出は、「風竜胆の書評」です。

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書評:尾道茶寮 夜咄堂 猫と茶会と花吹雪(つくも神付き)

2017-09-27 10:38:21 | 書評:小説(ミステリー・ホラー)
尾道茶寮 夜咄堂 猫と茶会と花吹雪(つくも神付き) (宝島社文庫)
クリエーター情報なし
宝島社

・加藤泰幸


 近所の書店で見かけた本書。何度も行った尾道が舞台ということで買ってみた。どうもこの前作があって、これが2巻目になるようだ。

 内容は、亡き父から尾道の古民家カフェを受け継いだ大学1年生の若月千尋がそこに住んでいるつくも神たちと織りなす物語といったところだ。

 このつくも神たちは、黒髪美少女とナンパ好きなおっさん、そして犬という取り合わせ。しかし、つくも神といっても、特にそれらしい力があるわけでもないし、そういった存在がいる割には怪奇な事件が起こるわけでもない。つくも神たちが何らかの事件を解決するような話でもないので、そういったことを期待すると少しがっかりしてしまうだろう。

 描かれているのは、千尋がお茶の道に関して成長していく物語だろうか。 いくつかの問題解決はしているが、決してそれが本筋というわけではないのだ。

 ところで、主人公は大学1年生ということだ。確かに尾道には尾道市立大学があるが、彼はそこの学生なのだろうか。もっとも尾道なら福山が近いのでそちらの方ならいくつか大学がある。しかし、カフェの経営と大学生の両立は難しいだろう。授業のある時はつくも神たちに丸投げをしているのだろうか。

☆☆

※初出は、「風竜胆の書評」です。

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2017年度2学期の放送大学教材が来た

2017-09-25 14:20:21 | 放送大学関係


 放送大学から、先般学費を払い込んだ、「錯覚の科学」と「危機の心理学」の2科目の教材が届いた。現在所属している「心理と教育コース」で残り12単位(放送授業6科目分)を履修すれば5回目の卒業になる。予定では、2学期に面接授業を1科目取って、その次の学期にもう1科目面接授業を取り、放送授業を3科目ほど取れば、目出度く卒業となる予定だったのだが、今回面接授業の抽選に外れたことにより、予定が狂ってしまった。次の学期に4科目も取るのは面倒くさいし、何が面接授業で行われるかを見て、半年卒業を伸ばすかどうかを決めるつもりである。
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書評:弘法大師空海と出会う

2017-09-25 12:01:07 | 書評:学術・教養(人文・社会他)
弘法大師空海と出会う (岩波新書)
クリエーター情報なし
岩波書店

・川崎一洋

 「大師は弘法に奪われ・・・」という言葉がある。歴史上朝廷から大師号を受けた高僧は25人いるらしいが、一般には「大師」と言えば、弘法大師空海のことだろう。

 この空海は、一言で言えば万能の天才。真言宗を開いた宗教者であることはもちろん、書や文章などでも類まれなる才能を発揮している。また四国香川には満濃池という灌漑用のため池があるが、この改修にも空海が関わっていたのだ。

 空海は、774年(宝亀5)に、讃岐国多度郡(現在の香川県西部)で生まれた。現在の75番霊場善通寺が大師の誕生地とされている。791年(延歴10)に当時の最高学府である大学に入学するも、仏門を志し、私度僧となってしまった。804年(延歴23)には、学僧として唐に渡り、恵果和尚の弟子として密教を修める。本来の留学期間は20年だったが、空海は恵果から胎蔵法および金剛界法の両部を伝授されるとわずか2年で帰国してしまう。帰国した空海は、大宰府に3年もの間留め置かれたものの、その後真言宗の開祖として大活躍したことは周知のとおりだ。

 本書は、そんな空海の生涯や伝説、彼のもたらした様々な密教美術、空海を描いた絵画や彫像、彼の著作などを新書というコンパクトな形式で紹介したものである。

 四国八十八か所のお遍路に興味のある人も多いだろうが、実際に寺を回る前に、まず本書を読んで、弘法大師とはどのような人物だったのかを知った上での方が一層熱が入るに違いない。

☆☆☆☆

※初出は、「風竜胆の書評」です。



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書評:文系のための理系読書術

2017-09-23 09:33:45 | 書評:学術・教養(人文・社会他)
文系のための理系読書術 (集英社文庫)
クリエーター情報なし
集英社

・齋藤孝

 世の中では、理系だとか文系だとかいった二元論をよく聞く。しかし私には、このようなレッテル貼りをするのにどのような意味があるのかよく分からない。

 これを突き詰めていくと、結局二十歳前後でどのような学問を学んだかということに尽きるだろう。しかし私の場合、専業学生のころは確かに工学を学んだが、社会人になってからは放送大学で、経営学、経済学、文学を学び、今は心理学を専攻している。会社員としての仕事も、技術畑と経営企画や内部監査といったような部署が半々だ。資格なども文理の両方面で多数取得している。さて私は理系だろうか文系だろうか。

 結局のところ。理系だとか文系だとか言うのは、実際問題として、次のような区分になるのが正解だろうと私は思う。

①純粋理系:理系の学問以外は受け付けない。極めて少数と思われる。
②理系ベース系:理系をベースにしているが、小説なども読み、程度の差はあるが文系の学問や仕事も理解できる。いわゆる理系と呼ばれる人の大多数はこれに分類されると思う。
③純粋文系:理系の話題をとにかく毛嫌いして理解しようとしない。だから根拠のないデマを信じ込む。日本人の過半数がこれかも。
④隠れ文系:一応理系の学校を出ているが、その内面は極めて③に近い。いわゆる理系の皮を被った文系で、少数ながら存在しているようだ。

 なお、この他に文系ベース系もいる可能性はあるが、いたとしても極めて数が少ないので、その存在は無視できるだろう。

 おそらく本書は、上記の③の人を対象に書かれたものだろうと思う。しかし、本書に紹介された本を眺めると、やっぱり著者も③に近いなと感じてしまう。なにしろ半分くらいが人間も含めた生物系なのだから。

 世間では理系とひとくくりにしてしまうが、理学系と工学系の間にも風土の違いがあるし、生物系と物理系などはとてもひとくくりにはできるものではない。その中でも、生物系の話は③の人にとっては、比較的入りやすいのだろう。

 しかし工学系の話がまったく入っていないというのは残念である。いわゆる文系人にとっても、理系の成果を直接目にするのは、それを各種製品に応用した工学を通してだというのに。

☆☆

※初出は、「風竜胆の書評」です。

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書評:擬人化と異類合戦の文芸史

2017-09-21 21:12:49 | 書評:学術・教養(人文・社会他)
擬人化と異類合戦の文芸史
クリエーター情報なし
三弥井書店

・伊藤慎吾

 本書でいう異類とは、物語世界にキャラクターとして登場する人間以外のものである。異類は、擬人化という手法により、人間に擬えらて表現される。

 本書は、この擬人化の種類として次のような分類を与えている。

①原型:全身が元の姿をとどめて、外見上は人間化した部分はないが、物語中では人間のように扱われるもの。

②獣人型:基本的には獣だが、二足歩行をして、形態も人間に近いもの。

③頭部異類型:人間の体の頭部だけが異類なもの。

④着装型:姿は人間だが、体の一部に異類のシンボルを装着しているもの。

⑤象徴型:姿は人間だが、着物の文様などに異類を表すシンボルが描かれているもの。

⑥本体型:異類の本体に、手足や目鼻が付いているもの。

⑦人間型:キャラクター単独では、何を表しているかわからないもの。

 この擬人化の目的は、①比喩、②啓蒙、③批判、④空想・遊び、⑤親近性だという。

 このような擬人化は、古来より物語をはじめとするいろいろな媒体によって行われており、それを多くの資料と共に、ひとつの文芸史として纏めたのが本書である。

 本書の性質としては、非常にまじめな学術書といったところだろうか。多くの資料をこつこつと読み込み、それを一つの文芸史として集大成するというのは大変な労力を要するものと思われる。

 ただし、それが面白いかどうかというのは、また別の問題だ。おそらく一般的な読者は、タイトルに魅かれて読み始めたとしても、途中で投げ出してしまうのではないかと思う。しかし、この方面の研究をしている人なら、本棚に1冊置いておいても損はないだろう。

☆☆☆

※初出は「本が好き!」です。
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書評:地理 2017年 09 月号

2017-09-19 09:20:38 | 書評:その他
地理 2017年 09 月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
古今書院


 地理の今月号でまず目を引いたのは、はやしきよみさんの「楽しく地理を描く旅」だ。今回の話題は、福井県の嶺北地方で行われているという、半夏生に焼き鯖を食べるという習慣である。

 著者は同郷人のようで、<地元山口県では、半夏生を特段意識したり何かするということは、広く浸透していなかったように記憶しています。>(p8)と書いている。これはその通りで、私自身半夏生という言葉くらいは知っているものの、それが何かの習慣に結びついていたという記憶はまったくない。

 関西では半夏生にタコを食べるのが定番らしいが、個人的にはタコよりは、鯖の方が美味しそうに思う。口絵に手作り感満載の「半夏生鯖まっぷ」もあり、なかなか楽しい。

 さて、今月号の特集は、「ネパール 大地震後の地域と社会」だ。これは、2015年に発生したネパール・ゴルカ地震が、ネパール社会に与えた影響について取り纏めたものである。その内容は、地震の被害と復興の状況、復興支援や社会の変化などである。この特集の記事からだけでも、ネパールの家屋の耐震性の欠如、政府の取り組み姿勢や複雑な手続き、利権を得ようとする村の顔役の存在など、多くの問題点が存在することが分かる。同じ復興支援をするにしても、このような問題点があることを知らなければ、有効な援助には繋がらないのではないかと思う。今後同様の事態が発生した時に、支援をどう行っていけばいいのか、考える材料になるのではないだろうか。

☆☆☆☆

※初出は、「本が好き!」です。
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書評:英傑の日本史 西郷隆盛・維新編

2017-09-17 10:12:18 | 書評:学術・教養(人文・社会他)
英傑の日本史 西郷隆盛・維新編 (角川文庫)
クリエーター情報なし
KADOKAWA

・井沢元彦

 来年のNHK大河ドラマで「西郷どん」が放映されるということで、その西郷隆盛の人物像を描いたタイムリーな本書。ただし、全編西郷隆盛を描いているという訳ではなく、前半は島津氏の歴史を描いている。

 薩摩と言えば島津氏を連想するということで、島津氏は昔からずっとあの地を本拠としていたのだと思っていたが、どうもそうではないようだ。島津氏の家系には、あの源頼朝の子孫だという伝承があるという。また元々は惟宗という姓であり、京の藤原氏筆頭である近衛家の家来だったという。島津と名乗ったのは、惟宗忠久が島津荘の荘官に任命されて以来らしい。

 ところで、本書から読み取れるのは、まず江戸時代にいかに武士たちが朱子学の毒に侵されていたかということだろう。私はそもそも儒教などというものに何の価値も見出していないが、朱子学というのは、儒教のなかでもとりわけ原理主義的なもののようだ。

 徳川幕府は、忠孝を重んじる朱子学が自分たちの支配のために都合がよかったので、これを奨励した。しかし、朱子学はその副作用の方が強かったのだ。あの「士農工商」の身分制度なども朱子学の影響である。かってマルクス主義大流行のころは、すべての言論はマルクス主義に照らしてどうかという観点から判断されたというが、同じように、江戸時代は、朱子学がすべての価値の基準だったのだろう。著者は歴史学者は朱子学というものに対して無理解だと批判する。

 もうひとつ読み取れるのは、島津斉彬の英明ぶりとその異母弟久光の残念ぶり。西郷は久光のために2度も島流しの憂き目に遭った。もし西郷の敬愛する斉彬がずっと生きていたら日本の歴史はもっと違ったものになっていたかもしれない。

 今でこそ神とも祀られる斉彬だが(実際に鹿児島市の中心部には斉彬を祀った照国神社がある)、朱子学に照らすと、とんでもないバカ殿ということになるそうだ。著者は斉彬の死因は彼を嫌っていた父斉興と久光の生母であるお由良一派による毒殺ではないかと推理しているが今となっては真相は藪の中。

 著者は「逆説の日本史」シリーズなどで、歴史の定説と言われるものに一石を投じている。本書もそんな著者らしい記述が満載であり、読者の期待を裏切らないだろう。

☆☆☆☆

※初出は、「風竜胆の書評」です。
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放送大学の29年度2学期の学費振込

2017-09-15 16:20:16 | 放送大学関係
 昨日家に戻ったら、H29年度2学期の授業の振込用紙が来ていた。

 申請していたのは、放送授業が、「錯覚の科学」と「危機の心理学」の2科目で、面接授業が「心理学実験2」の1科目だったのだが、どうも面接授業は抽選に漏れたようだ。地方の学習センターでは、面接授業は申請すれば大抵は通るので、外れたのは本当に久しぶりである。そういえば以前も外れたのは心理学系の授業だったような記憶がある。

 どういうわけか、心理学系の授業は女子に人気が高いようだ。それは面接授業だけでなく放送授業でも同様で、単位認定試験を受けると、その人数の多さと女子比率の高さに驚く。その人気の半分でも理工系に向いて欲しいと思うのだが。
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書評:百二十歳の少女 古美術商・柊ニーナ

2017-09-15 10:16:26 | 書評:小説(ミステリー・ホラー)
百二十歳の少女 古美術商・柊ニーナ (角川ホラー文庫)
クリエーター情報なし
KADOKAWA

・大石圭

 物語の主人公は、青山で西洋骨董店アンヌ=フローラ・アンティークスを営む柊ニーナ。父は日本人だが、母がロマの血を引くフランス人だ。彼女は驚くほどの美人だが、ある理由によりその容姿を褒められるのは好きではない。

 ところで、タイトルの「百二十歳の少女」だが、いくらこの作品がホラー文庫の一冊だからといって、別にニーナ自身が百二十年も生きているという訳ではない。本書がホラー文庫に収められてるのは、呪いの人形を扱っているからだ。その人形は、ビスクドールの最高峰であるブリュ・ジュンの特注品であり、身長は1mを優に超え、その体はまるで幼女そのままのように精工に作られていた。この人形が百二十年前に作られたということである。

 このブリュ・ジュンを手に入れた人間が次々に自殺を遂げる。その中では、ニーナの愛する人もいた。いったいなぜ。ニーナはこの人形について調べるのだが、驚くような自分との因縁が明らかになるのである。

 大石圭の作品は、以前読んだ「甘い鞭」に続いてこれが二冊目に当たる。この作品にも、一応皆が期待しているような場面も出てくるが、あの程度なら今時珍しくはないということで、「甘い鞭」ほどのエロさはないだろう。しかし、逸脱した性癖を扱っているというところは同様だ。また、呪いの人形を扱ってはいるのだが、それほど怖くはなく、悲しみの方が強いように感じられる。

☆☆☆☆

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