愛の裏側は闇(2) | |
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東京創元社 |
政治的にも、宗教的にも混乱が続くシリア。そんな世界に生きる現代版のロミオっとジュリエットを描いた、「愛の裏側は闇」(ラフィク・シュミ:東京創元社)の第2巻。100年に渡る、憎しみの歴史を繰り広げて来た、ムシュターク家とシャヒーン家。そんな歴史に縛られながらも愛し合う、ファリードとラーナ。若い二人の前には、様々な苦難が降りかかる。
前巻では、両家の因縁が中心だったが、この巻はファリードを中心とした物語となっている。父親により、修道院に入れられたファリードだが、そこは、決して神の使途となることを目指すようなところではなかった。虐待やリンチが横行し、欺瞞と対立に満ちた、閉ざされた虚飾の空間だったのだ。ファリードが友人のアミーンに語った次の言葉は、端的にそのことを表しているだろう。作者の宗教観が垣間見えるようだ。
<修道院で実践しているのは憎しみさ。純粋な憎しみ。イエスは誰も苦しめず、みんなとパンを分かち合った。だけど修道院はみんなを苦しめ、そのせいでみんな、心が折れて、おなじような心ない人間を作りだしている。>(p306)
<修道院にいる仲間がいっていたことがある。教会は神への道を短くするのではなく、長く引き伸ばしているってね。>(同)
また、この巻でも、前巻に引き続き、性的な描写が目立つ。例えば、ファリードは、ハンマーム(公衆浴場)で、あかすり師に尻を狙われているし、修道院で行われた劇では、ジャンヌダルク役の人妻が、拷問されているはずの場面で、敏感な部分を刺激されてイカされてしまうといった具合だ。そしてどの性的な場面も背徳にまみれている。
しかし、その一方で、ファリードとラーナの逢瀬は、なぜか綺麗に描かれている。若い二人の愛の語らいは、まるで二匹の子猫がじゃやれあっているようだ。以前、男女の間でやることには、A,B,Cの区分があったが、二人の関係はBまでしか描かれていないのである。修道院では、ラーナのことを夢見て、何度もパンツを汚してしまったファリードのこと。単にそれだけで済んだとは思えないのだが。どろどろとした、性の背徳にまみれた世界で、二人の関係は、まるで泥沼に咲いた蓮の花だ。まわりが汚れているほど、二人の愛の関係はいっそう美しく見える。そういった効果を狙っているのだろうか。
ロミオとジュリエットの話は、悲劇で終わった。この物語も二人の悲劇で終わりそうな、そんな予感を残して、物語は、最終巻に続いている。
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