1年半ぶりのグアム旅行で見たタモン湾沿いの風景とグアムの歴史についての続きです。
タモン湾
グアムと日本人(山口 誠 著)によれば、1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃から僅か5時間後、日本海軍航空機によるグアム攻撃が開始されています。
グアム出身の大司教、フローレス神父像
アメリカ領土グアムにいたアメリカ側の戦闘員500~600名に対し、日本軍6000名がタモン湾他2箇所から上陸作戦を敢行、2日後の12月10日に米領グアム占領を宣言していますので、殆ど抵抗らしい抵抗は無かったようです。
タモン湾の夜景
超大国アメリカが、敵の攻撃を受け、戦闘員と住民が捕虜となって占領された唯一の領土がグアムだったのです。
アウトリガーホテル
翌1942年1月1日に、日本軍はグアムを「大宮島」と改名、軍政を敷き島内に15の国民学校を設置して島民に日本語の教育を開始しています。
グアムが「大宮島」だった時代(約2年半)には、グアムに移民していた日本人やサイパン出身のチャモロ人(サイパンは1914年から日本の植民地)が日本の統治を支えていたので、サイパン人とグアム人の間には今もそのシコリがあるようです。
DFS前
1944年3月になると、米軍の反撃に備えて日本軍守備隊が増強(総勢2万2千人)され、補給の無い「大宮島」では深刻な食糧問題が起こったようです。
DFS前の日本人観光客
その上、現地のチャモロ人も駆り出された飛行場や陣地の建設が始まり、その際に日本軍とチャモロ人との間に凄惨な事件が多発したといいます。
DFS前の日本人観光客
1944年(昭和19年)7月21日、5万5千人による米軍上陸作戦が敢行され、僅か20日間で米領グアムの解放(8月11日)が宣言されています。
ニッコーホテルへの道
米軍の戦死者1400名に対して日本軍の戦死者は2万名を超え、日本に帰国できた将兵は僅か1200名、自国を占領された米軍の報復攻撃はすさまじかったようです。
ニッコーホテルから見えるビーチには、日本軍陣地と大砲(ガン)があったので、今もガンビーチと呼ばれています。
米軍の攻撃を避け、グアムの深いジャングルの中に潜んで生き延びた日本兵は、終戦時大勢いたようですが、27年後の1972年に発見された横井庄一さん(当時56歳)がその最後だったのかもしれません。
つづく
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