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後鳥羽上皇(1180~1239年)は、後白河法皇(1127~1192年)の皇子、高倉上皇(1161~1181年)の第4皇子で、安徳天皇(1178~1185)の異母弟にあたります。

後鳥羽上皇の祖父と父が見た厳島神社



安徳天皇は、生母が平清盛の娘の徳子(後の建礼門院1155~1213年)だった関係で、壇ノ浦で平家一門と一緒に入水して亡くなり、生き残った建礼門院が大原寂光院でその菩提を弔った話は800年後の今も有名です。

後鳥羽上皇を祀る水無瀬神社



その後継者として名前が挙がったのが高倉上皇の第2皇子と第4皇子でしたが、皇位任命権者であった祖父の後白河法皇は、物おじしない第4皇子を指名、後鳥羽天皇として即位しています。

隠岐へ配流するための船が出た美保関付近



幼い時から積極的な性格であった後鳥羽天皇は、長じて文武両道に通じ、その行動力は前例がないほどで、熊野へ23年間に28回も御幸したり、新古今和歌集の編纂、10人以上の妻妾を持ち多数の皇子、皇女をもうけています。

海から見た隠岐島前



その後鳥羽天皇は、はやくも満15歳のときに皇子(土御門天皇1196~1231年)をもうけ、早熟な側面を見せていますが、皇子が3歳になると譲位し、上皇となっています。

最初に上陸宿泊した中ノ島崎地区の三穂神社



上皇となって以降、意のままにならない幕府に敵対心を燃やし始め、1221年に「承久の変」を起こしたのは有名です。

中ノ島の行在所跡



後鳥羽上皇は、満40歳で隠岐に配流となりますが、上皇には京都から妻妾、医師、北面の武士、さらに僧まで同行したといいます。

行在所跡地にある歌碑



妻妾は、坊門信清の娘の坊門局と元白拍子の伊賀局(亀菊)の二人で、彼女たちは後鳥羽上皇が亡くなるまで19年間を隠岐中ノ島でともに過ごし、その後京都に戻ったと伝わっています。

御火葬塚



坊門局の姉妹には、源実朝の正妻となった西八条殿(1193~1274年)がいるので、実朝の死後京都(大通寺)にいた姉妹を頼ったのかもしれません。

後鳥羽上皇を祀る中ノ島の隠岐神社



当時の隠岐は、経済的にも文化的にも意外と豊かな地域で、近親者に囲まれた上皇は、ここで歌集を編纂するなど創作活動に励み、積極的な余生を送っていたようです。


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