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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



昨日の記事の続きです。・・・西郷が所属した薩摩第二隊の主将島津備後(22歳?)は、藩主島津忠義の弟(島津久光の第三子)なので名目的な存在、それに次ぐ小松帯刀(30歳)は家老として宮中との連絡業務に当たっていたようです。

 

従って薩摩第二隊(600名)は、軍賦役の西郷吉之助(37歳)が実質的な指揮官でした。禁門の変のときに西郷がどう活躍したか、林房雄の小説から紹介しましょう。<・・・>が小説からの引用

<(幕府側の禁裏守備隊は)長州勢の逆寄せにあって、計画が狂った(中略)蛤御門は陥落の寸前にあった>

<すぐ隣の仲立売御門を守る越前軍は、国司信濃(23歳・長州藩家老)の率いる長州軍に押しまくられて退却、長州軍は公卿屋敷の門を破り、蛤御門の会津、一橋連合軍に十字砲火をあびせかけた>

長州軍を迎え撃つ会津兵・一橋兵の数は多かったようですが、近代兵器と優秀な指揮官を欠き、戦意も不足していたようです。

<蛤御門が突破されれば、公卿門が危うくなる。長州兵が内裏の庭になだれをうって突入したら、勝利は彼らのものとなる>初戦は銃砲で武装し、戦意旺盛な長州軍が優勢だったのです。

<このとき丸に十字の旗印をひるがえした(西郷隆盛率いる)大部隊が、烏丸通りを迂回して、長州軍の背後と側面にあらわれた。(長州軍への)不意打ちであった>

この朝、薩摩第二隊は長州軍の拠点があった天龍寺を目指して出撃していましたが、蛤御門の砲声を聞いてすぐに引き返していたのです。

<長州軍としては、御所の乾御門(蛤御門の北側)を固く守っている(軍役奉行伊地知正治率いる薩摩第一隊)薩摩軍がここまで突出して来ようとは思っていなかった>

つづく



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