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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



下の地図、昆陽池の右、伊丹緑地と書かれた辺りには、かつて白洲次郎(1902~1985年)が住んでいた広大な白洲屋敷があったというので、見てきました。

白洲次郎の祖父退蔵は、明治維新前に三田藩(3万6千石の九鬼氏)の家老、明治に入ってからは藩主が就任した県令に次ぐ県大参事を務めていて、幕末までの白洲家は、妻正子の実家(薩摩藩士の樺山家)よりも格上の武家だったようです。猪名野神社の西側の道を進み、その先を東に曲がります。

 

 

 

1871年(明治4年)白洲退蔵は、貿易会社志摩三商店の社長に就任、友人だった福沢諭吉の推薦で1883年(明治16年)には横浜正金銀行頭取、後に官吏となり1891年(明治24年)に没しています。猪名野神社北側の伊丹緑地の遊歩道を伊丹阪方向へ進みます。

白洲次郎の父、白洲文平(ふみひら、18691935年)は、退蔵の長男で、名門の御曹司らしく1887年(明治20年)ハーバード大学に留学、続いてドイツのボン大学にも留学、そこで新渡戸稲造、近衛篤麿(文麿の父)、樺山愛輔(次郎の妻正子の父)、池田成彬などと出会い交流していますので、単なる商人ではなかったのです。道路の高架を潜る遊歩道をさらに先に進みます。

帰国した白洲文平は、三井銀行、大阪紡績(今の東洋紡)に勤務した後、神戸市に白洲商店を設立し綿花貿易で成功、その収益で大名家から放出された美術品を大量に収集し、米国ボストン美術館で白洲文平コレクション展を開催した記録が残っています。遊歩道の西(左側)は、かなりの高台となっていますが、そこが白洲屋敷だったようです。

絶頂期の文平は、伊丹に土地4万坪(上の地図にある昆陽池3,8万坪よりやや広い)を購入、広大な住宅やコレクションを展示する美術館、給水塔などを建てて楽しんだようです。遊歩道の途中にある白洲屋敷跡の石碑(左)

文平の二男、次郎(19歳)は、1921年(大正10年)英国に留学、文平は次郎が英国貴族と対等に付き合えるよう毎月1万円(現在の価値では毎月3000万円)仕送りしていたといいます。

 

祖父が大名家の家老で父親も海外留学経験者だった上流階級としての誇りと、金銭的にイギリス貴族と対等以上に付き合った経験があったこと、白洲次郎が終戦時に堂々とGHQと交渉できた由縁でしょう。

 

 

その後、文平の白洲商店は、金融恐慌で1928年(昭和3年)倒産しますが、翌年結婚した白洲次郎と正子は、伊丹町役場に婚姻届を提出、東京に転居するまで伊丹の白洲屋敷に新居を構えています。

伊丹の白洲屋敷は、昭和14年頃に人手に渡り(伊丹市教育委員会の記事)敷地は住宅地として細分化されますが、巨大な給水塔だけは昭和50年代まで残っていたといいます。細分化され住宅地となった白洲屋敷跡

白洲次郎が伊丹市に住んでいて、正子との結婚後に伊丹町役場に婚姻届を出していたことを知る人は、少ないのではないでしょうか。

 

参考文献:白洲次郎 占領を背負った男 北 康利著



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