さて、先日の記事からの続きであるが、木津川河口右岸にあった木津川飛行場では、1939年(昭和14年)には、供用回数がさらに増加したため、離着陸に障害の多い大正区からの移転を決定している。
木津川飛行場跡の木津川右岸
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その時点では、1933年に着工されたばかりの大阪第一空港(大和川国際飛行場)の埋立工事が未だ完成していなかったため、伊丹市に建設された予備飛行場(大阪第二空港と命名)に取り敢えず移転することが決まったようである。
昭和9年の地図にある木津川飛行場には日本航空飛行場とある
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その後、戦争に突入したことで、大和川国際飛行場計画は白紙撤回となり、つなぎのつもりで建設した予備飛行場の供用がいまだに続いているのである。
予備飛行場であった伊丹空港
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1939年まで飛行場があった場所には、木津川飛行場跡という石碑が残っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/bd/4f0b92a061dbe7235eb1467731e6c396.jpg)
説明看板によれば、「木津川河口に陸上飛行場が構想されたのは大正12年頃からです。昭和2年に着工し、昭和4年には未完成のまま東京・大阪・福岡間に一日一往復の定期旅客便が就航しました。しかし市街地からの交通の便が悪く、地盤不良で雨天時の離着陸が困難であったため(中略)昭和14年に閉鎖されました」とある。
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説明文は、概ね私の調査した結果と合致しているが、工場の煙突からの煙による障害があったことや、閉鎖の直前には、年間1万人以上の利用客があったこと等が省略されているのは残念である。
昭和11年の地図には国際飛行場とある
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それでも今から70年前、木津川河口のこの場所に伊丹空港に移転する前の大阪空港があったことを知っている大阪市民はどれほどいるのであろうか。
伊丹空港
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ところで、現在の大阪空港(伊丹空港)は、大阪第一空港が完成するまでの予備飛行場として市街地に強引に建設されたことを説明したが、今では広い大阪第一空港が完成しているのである。
関空
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/4a/045be9524a4522b2f948c7d50262f5c4.jpg)
大阪第一空港とは、関西国際空港がそれに該当するが、そろそろ予備飛行場(現在の伊丹空港)の供用を停止して、大阪第一空港に一元化し、伊丹の跡地の再利用を図ることにしてはどうであろうか。
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