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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



先日の記事に続き、「幕末百話」の中からキケ者(賄賂が沢山取れる才覚の人)と呼ばれた奥祐筆(若年寄の配下の秘書役)と5月の葛城山を紹介しましょう。<・・・>が幕末百話からの引用です。(・・・)はROSSの注釈

<大阪御加番というのは四人ずつで大名が交代する。大阪御城代は(京都)所司代格で大阪御定番は二名、大阪御加番は山里、中小屋、青屋口、雁木坂で(任命される大名の)御役知行一万石(実際はもっと幅があった)、一年(毎の)代わりになります>

大阪加番となると、知行とほぼ同額の役料(現金+米)が幕府から支給され、加番としての経費を支払ってもその三分の二が残ったといわれています。「大坂加番制について」松尾美恵子著より

たとえば、慶応年間の青屋口加番だった本多氏(播磨山崎藩1万石)へは、幕府から5754両と米550石、大豆56.5石が支給されていた記録が残っています。(近世京都・大坂の幕府支配機構 菅 良樹著)

大阪加番となる大名の<交代取扱い(担当事務)は、奥御祐筆で、私の知っていたのは、湯島天神坂下、俗に犬の糞横町に中村又兵衛(高に二百俵)という仁で、恐ろしいキケ者でした>

<大名で御加番になろうというのは、袖の下が百五十両から懸ったもんです。最初(大名の公用人が)五十両を中村方の公用人に持ち込み主人の推薦を頼む、ソレから御留守居(大名の家老級)が(さらに)五十両を持参し何分宜しくと頼む>

<それでも薬の効き目が鈍いとみると、大名自身が御登城の折に、(奥祐筆に)玄関で袖の下を入れる。これがまた五十両、これで百五十両から絞られる>

<ソコで(奥祐筆の)中村又兵衛は、御老中に(大阪加番の候補大名を)進達をするんですが、その間に旨く調子を取るのが御数寄屋坊主です>

<こう袖の下を回しては置くものの、御加番を仰せ付けられるや否や、家来の心苦しさ、夜分も寝入られぬほど。御沙汰の下るのを今日か明日かと待っていたものです。多く金子を遣った方に落ちるんだから>

2万石未満1万石までの大名の数は、80家以上もあります。加番となる大名は毎年4名と決まっていましたので、賄賂が無駄になることも多かったのではないでしょうか。

参考文献:「幕末百話」篠田鉱造著、「大坂加番制について」松尾美恵子著、近世京都・大坂の幕府支配機構 菅 良樹著 



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