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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



桜田門外の変の首謀者高橋は、切腹を思い止め迷惑顔の茶店の主人に「近所に武士の家は無いか」と問うと、大黒堂の東に寺侍の小川欣司兵衛の住居があるという。

大黒堂



現在の大黒堂は、1849年に再建された記録があるので、高橋が走りこんだ当時にはまだ再建から11年しか経っていない新しい堂であった。

四天王寺西門内側の高橋父子原瘞処の碑



切腹のために一度短刀を腹に刺した高橋多一郎は、やっとの思いで小川欣司兵衛宅にたどり着くが、在宅していた小川も、突然やってきて切腹させろという高橋を、なんとか思い止まるよう説得している。

小川欣司兵衛宅の跡地?英霊堂



しかし、高橋父子の必死の頼みに負け、最後は二人を座敷に案内しているが、高橋が後始末料として62両(1両が3万円とすれば180万円くらいか)を差し出したことと、座敷を貸したことに関連はあったのであろうか。

四天王寺の地図



高橋は、小川の座敷で短刀を再び刺してようやく切腹を遂げ、息子の荘左衛門もその後から切腹、父は47歳、息子は19歳であった。

高橋父子の墓は、直後に小川によって元三大師堂(重要文化財)の南に建立され、高橋の霊に恨まれる覚えでもあったのか「怨霊消滅」と書かれていた。

怨霊消滅



高橋父子の墓石は石が粗悪であったのか、1987年に水戸市の有志によって建て直されていた。

建て直された墓の裏



墓の左には、中川宮(1824~1891年)の筆による「闔門殉難」(鎮魂という意味か)元治元年(1864年)建立の石碑、右には明治12年(1880年)建立の「高橋君原瘞地の碑」(最初の埋葬地)の石碑が建っている。

闔門殉難の碑(高橋墓石と同時代のものであるが、石の材質が良いのか、しっかりしている)



1862年5月、将軍後見職に就任した一橋慶喜(徳川斉昭の息子)は、井伊直弼が行なった大獄は専断であったとして井伊家の石高10万石の削減を申し渡している。

高橋君原瘞地の碑



また弾圧の取り調べをした幕吏は処罰、大獄で幽閉されていた者達は釈放され、桜田門外の変・坂下門外の変における遭難者を一斉に大赦したのである。

墓の全景



高橋多一郎の逮捕を躊躇していた元大坂東町奉行、一色直温が恐れていたことが現実となったのであるが、一色直温は、幕政の崩壊まで処罰もなく要職を歴任している。

参考文献「幕末・京大坂 歴史の旅」(松浦玲著)

大坂での高橋多一郎については、11月16~18日のブログに記事があります。


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