頂法寺(ちょうぼうじ)の本堂である六角堂は、寺の本坊にあたる池坊氏が代々経営・管理に当たってきている。
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池坊の名は、聖徳太子が水浴したという「池のある坊」にちなんで付けられたもので、今も六角堂の北側に白鳥が泳ぐ池がある。
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池坊の僧は、頂法寺(六角堂)の住持として本尊の如意輪観音に花を供える伝統があり、1470~80年頃には池坊の12世住職である専慶が生け花の名手として評判となっていたと記録されている。
いけ花の理論と技術を体系化した13世池坊専応の口伝石碑
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池坊流の生け花は、記録にあるだけで約500年、さらにその専慶から12世も遡る古い伝統を持っているようである。
現在の頂法寺住職は、20歳の若さで住職に就任した45代池坊専永氏(1933年~)、夫人は、公明党所属の衆議院議員、池坊保子氏である。
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さて、この六角堂にちなむ名家には、頼朝の旗揚げに参加した近江源氏佐々木氏の宗家となる佐々木泰綱(1213~1276年)から始まる六角氏がいる。
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佐々木泰綱は、佐々木氏の棟梁であった佐々木信綱の子として生まれ、1234年、父の隠居により六角東洞院(六角堂のすぐ東)にあった京都屋敷を譲られ、家督を相続している。
六角通
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一方弟の氏信は、1キロ南東にある京極高辻(高島屋の南側)の館を引き継いだので、泰綱と氏信の佐々木兄弟は、六角氏、京極氏と呼ばれたようである。
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鎌倉幕府が滅亡する際に、名門宗家の六角氏は鎌倉幕府に最後まで味方したために一時衰退、京極氏は京極高氏が足利尊氏に味方したために足利幕府の有力大名となっている。
京極高氏と足利尊氏の関係は、吉川英治の小説「私本太平記」に詳しく描かれていて面白い。
六角堂西側
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その後応仁の乱から戦国時代に至り、近江の覇権をめぐって宗家六角氏と分家京極氏の争いは続いているが、六角氏は1568年、織田信長率いる上洛軍に敗れ、300年以上続いた領国を失っている。
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一方京極氏は、戦国期の動乱をうまく泳ぎ織田、明智、豊臣、徳川と次々と主君を取替え、四国の丸亀藩(6万石)の大名として明治維新まで続くのである。
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