なんぱパークスの石碑にある「難波新川」とは、難波入堀川とも呼ばれ、1733年道頓堀から難波御蔵への米の輸送路として開削された運河である。
なんぱパークス
石碑の場所から約100m西側にあった難波入堀川は、道頓堀川大黒橋の西から御蔵まで全長800m、幅14,5m、江戸後期の地誌「摂陽奇観」に「此川の蜆大きにして風味よし」と書かれているので、当初は蜆が取れるほど水質の良い運河であったようである。
なんばパークスの敷地には難波球場があった
難波入堀川と道頓堀川との分岐点だけは、今も大黒橋の西に残っていて、そこだけ川が南に14、5mだけ凹んでいるのですぐにそれと判る。
しかし難波入堀川も次第に汚染が進んだため、明治に入った1878年(明治11年)に南側にあった鼬川(いたちがわ 長さ1450m、幅10m)と連結している。
1879年、鼬川との連結が完成してからの難波入堀川は、「難波新川」と呼ばれるようになったようで、明治期の地図には「新川」と書かれたものが多い。
「新川」と書かれた1908年(明治41年)に出版された地図
戦後の難波新川は、土砂が堆積して水質が悪化し、運河としての利用も減っていたため、1958年(昭和33年)までに大部分が埋め立てられている。
新川の跡は高架道路となっている
1958年(昭和33年)の地図には、埋め立てられた難波新川のルートが記載され、道頓堀川の取り付け部分には浪吉橋の名前が未だ残っているので、完全な埋め立ては終わっていないようである。
1960年頃には埋め立てが完了し、新川の跡地は千日前通りまでが1967年、大黒橋から南海難波駅の西側が大阪万博の直前の1970年に阪神高速の高架道路となっている。
1973年の地図
難波新川がまだあった1908年(明治41年)の地図と阪神高速が完成した直後の1973年の地図を見比べると、江戸時代に開削された運河が埋め立てられて高速道路となったことが良く判る。
1908年(明治41年)に出版された地図
もともと川で無かった場所に江戸時代に開削された難波新川は、1733年から1959年までの226年間だけ大阪に存在した短命の運河であった。
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