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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



6月28日の記事で山崎の合戦を紹介しましたので、その直前まで秀吉が戦っていた備中高松を訪ねてみました。さて、信長から中国攻撃を命令された秀吉は、天正6年(1578年)から播磨、摂津伊丹、但馬、因幡などを転戦、天正10年(1582年)3月15日には、約2万の軍勢をひきつれて姫路城から毛利家の勢力範囲であった備中へと出陣しています。備中高松駅

大将は、羽柴秀吉(当時46歳)、副将格は実弟羽柴秀長(43歳)、軍師格黒田官兵衛孝高(37歳)、譜代の蜂須賀正勝(57歳)、浅野長政(36歳)、加藤清正(25歳)など。さらに備前の宇喜多忠家(50歳)、秀家(11歳)1万が加わり3万人の軍勢だったといいます。

備中では、毛利方の諸城を外交交渉や武力で次々と落とし、天正10年4月15日(太陽歴では5月14日)宇喜多勢を先鋒に大軍で高松城を包囲しています。この水田の先が高松城跡、右の山(黒田官兵衛の陣)から左に向かって堤防が築かれた。

しかし、周囲を沼地に囲まれた高松城は容易に落ちず膠着状態が続きますが、5月1日に信長からの使者(堀秀政)が来て早期落城を厳命されています。現存する堤防跡の上から見た高松城方向は、今も水田が広がっています。

そこで黒田孝高が水攻めの策を5月3日(太陽暦では6月1日)に進言、現在、西日本の梅雨入りは、6月6日頃とされているので、水攻めの着手は、梅雨入り直前という絶好のタイミングだったのです。高松城三の丸跡

秀吉は、即座にその案を採用、周辺地域から土木資材や人足を調達した上、軍兵も動員、5月8日(太陽暦6月6日)に工事を着手して12日後の5月20日(太陽暦6月18日)に堤防が完成。毛利軍は、その翌5月21日に足守川の西側に布陣していますので、高松城は水に囲まれていたようです。資料館にある水攻めされた高松城の模型

この堤防は、JR吉備線足守駅付近から蛙ヶ鼻まで3119mにわたるもので、人海戦術の結果、12日間という猛スピードで完成、足守川上流から堤防内に水が導かれ、梅雨で増水した川の水は、あっという間に高松城の周囲を取り囲んだのです。JR吉備線足守駅付近現在の足守川から見た備中高松城方向

高松城内では、水攻めで物資の補給路を断たれ、毛利の援軍の接近も困難となったため兵の士気が一挙に低下しています。JR吉備線足守駅付近にある水取り入れ口の遺跡

毛利軍が備中高松城の西に到着してから14日後(6月2日)毛利方は、外交僧安国寺恵瓊(44歳)を和議の使者として秀吉軍に送り、5か国(備中・備後・美作・伯耆・出雲)の割譲を条件に、高松城主清水宗治と籠城兵の助命を申し入れています。備中高松城跡のハス

参考文献:備中高松城の水攻め 市川俊介著



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