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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



1615年、大坂夏の陣が終わった時期に大坂市街地にあった墓地が整理統合され、当時農地であったこの場所に大規模な墓地と刑場、焼き場が併設されたという。



その後、1637年に山城国宇治郡にあった「法善寺」が墓地の霊を鎮めるために現在地に移り、寺で千日念仏を唱えていたことから門前の通りがこの名になったといわれている。

法善寺の不動堂



千日前から法善寺に至る参道の突き当たり左側にある水掛不動は有名で、毎日参拝者が水をかけるので緑の水苔が生えてしまっている。



環境省の「かおり風景百選」にも選ばれている法善寺水掛不動を久しぶりに訪ねてみると、ゴチャゴチャしていた南側がスッキリと整備されていた。



芝居小屋の多い道頓堀の裏手に当たる千日前は、明治になって刑場が廃止されても墓地跡ということで買い手がなく、寂れた場所であったという。

道頓堀



その上、1912年の「ミナミの大火」ではこの地にあった数少ない集客場所の遊郭が消滅し、千日前はますます寂しい場所になったらしい。



1903年に難波~和歌山市間を全通させていた南海鉄道の社長は、近代的なレジャーセンターの建設で千日前を復興することを考え、千日土地建物を設立し、大阪の興行界の実力者・山川吉太郎に声をかけている。

法善寺通りから千日前を見る



山川吉太郎は、1914年に千日前交差点の南西隅(ビックカメラの場所)に娯楽センター「楽天地」を建設したために千日前は一躍市内の名所となっている。



この「楽天地」の開業をきっかけに、付近には映画館・演芸場が瞬く間に進出しはじめ、道頓堀と肩を並べる娯楽の街へと変貌したというので、今日の千日前の繁栄は、山川の「楽天地」のお陰なのである。



楽天地は、山川吉太郎が映画に熱中して多額の借金を抱えたことで1930年に廃業したが、2年後松竹によって跡地が買収され、7階建て収容人数3千人という巨大な「大阪歌舞伎座」ビルが建設されている。

1918年の地図にある法善寺、竹林寺、楽天地



1932年に建設された「大阪歌舞伎座」ビルでの興行は1958年、村野藤吾氏設計の大阪新歌舞伎座に移転し、移転で空いたビルは千日デパートとして開業している。



2005年、大阪新歌舞伎座の新しいオーナーとなったのは、(株)リサ・パートナーズという投資ファンド会社で、この4月には大阪新歌舞伎座の上本町移転を新聞発表している。



近鉄劇場跡地に近鉄が建設する新しい複合ビルに2010年夏に移転する予定というが、老朽化した大阪新歌舞伎座を取り壊し、ミナミの中心ともいえる跡地に不動産ファンドが新しいビルを建てるのであろう。


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