ワシントン・ロンドン条約や、アメリカなどの列強との経済力、生産力の格差による海軍戦力の制限を補うための秘密兵器が特殊潜航艇で1934年、呉海軍工廠にて試作第一号が完成し、1937年には改良型が完成している。
海軍工廠の跡地の造船所
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海軍は、1940年からは特殊潜航艇の量産を開始しているが、最も代表的な特殊潜航艇は、甲標的と呼称され先端部に魚雷を2本装備している。
航続距離が短いため、作戦地点までは伊号潜水艦の前部甲板に載せて輸送され、作戦終了後は搭乗員を救出し、船底に装備されていた爆薬を用いて爆破処分されることになっていた。
大和ミュージアムの特殊潜航艇海龍(手前)
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甲標的の最大の欠点として、雷撃(魚雷発射)直後に反動で艇首が持ち上がる点があり、このため敵艦に発見されやすく、襲撃に失敗し未帰還となるものが多かった。
真珠湾攻撃やオーストラリアのシドニー港攻撃に使われたのは有名であるが、アフリカ大陸に近いマダガスカル島の港を攻撃したこともあったようである。
海龍の上部
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いずれも敵に発見されているが、マダガスカル島の攻撃では戦艦ラミリーズ一隻を大破、タンカー一隻を撃沈している。
海龍も特殊潜航艇の一種で1945年、横須賀海軍工廠において本土決戦用の特攻兵器として開発され、200隻が建造されている。
大和ミュージアムの海龍の図面
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通常の潜水艦と異なり、翼を有し、飛行機のように上昇と下降を行うため、構造が単純で建造を短期間に行うことができたというが、本土決戦が回避されたため実戦に投入されることはなかったという。
海中飛行機の発案は、技術的には興味深いが、少数の乗員が乗艦する潜水艇を安定して水中で操縦できる船体を作ることは当時の技術では困難で、実用化された海龍の性能は計画値よりも大幅に低いものだったと推測されている。
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従って回天よりも速力が大幅に遅い海龍は、高速の艦船を襲撃することはできず、低速の輸送船であっても戦果を上げる攻撃は難しかったと考えられている。
後ろに被弾痕のある海龍
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戦後横須賀へ進駐してきたアメリカ軍は、海龍の基地や生産工場を発見し、写真も残しているが、魚雷を装備した海龍はおろか魚雷も全く写っていないという。
実は1945年には、空襲によって魚雷の生産が極端に減ったために貴重な魚雷はすべて体当たり自爆を目的とした人間魚雷回天に転用されていたのである。
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大和ミュージアムに展示してある海龍には魚雷2本が搭載してあるが、魚雷装備の海龍は量産、配備されたことはなかったらしい。
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