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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



大阪城梅林の梅の花を見た後で、大阪市立中央図書館に展示してあった1686年に出された老中文書の宛て先を調べてみた。

梅林の白梅



初代大坂城代は、1619年に内藤信正が就任し1627年に大坂定番(玉造口門・京橋口門定番)の制が創始され、それから数年後には大坂加番(山里加番、青屋口加番、中小屋加番、雁木坂加番)の制度もスタートしている。



大阪市立中央図書館の文書は、徳川綱吉が将軍となって3年後の貞享3年(1686年)、当時の老中4名、松平日向守信之、戸田山城守忠昌、安部豊後守正武、大久保加賀守忠朝から大坂城の警備陣に出されたものである。



内容は、目付2名を派遣するので良く相談するようにというもので、恐らく派遣された2名の目付が大坂城に持参した辞令のような公文書であろう。

目付とは今の業務監査役のような存在で、大阪城の警備陣が、幕府のコンプライアンス上問題が無いかどうかを監査にきたのであろう。

大阪城梅林の内部(3分咲きくらいか)



この文書の宛先は、大坂城代内藤大和守重頼、玉造口定番保科弾正忠正景、京橋口定番松平縫殿頭乗次、大番頭田中大隅守定格、大番頭森川下野守重高、大坂西町奉行藤堂伊予守の6名である。



城代の内藤大和守重頼(1628~1690年)は、徳川秀忠付の武将として大坂の陣の後2万1千石の大名となった初代内藤清成の孫で、大坂城代に就任したたためか、重頼の養子の内藤清枚は高遠(信州)藩3万3千石の始祖となっている。(当時58歳)

玉造口定番の保科弾正忠正景(1616~1700年)は、保科正光の弟、上総飯野家(幕末には2万石)の初代正貞の長男なので、正光の養子となっていた会津藩(28万石)の初代保科正之とは従兄弟という関係であった。(当時70歳)

玉造口の坂(左)



京橋口定番の松平縫殿頭乗次(1632~1687年)は、4千石の旗本であったが、後に頭角を現して6千石、さらに大坂定番就任で1万石が加増されて三河大給(後に奥殿)藩1万6千石の大名となっている。(当時54歳)

早咲きの蝋梅



大番頭の田中定格は、豊臣時代に10万石、その後徳川に味方して筑後柳川32万石の大名となった田中吉政の3男吉興の孫で、田中本家は吉政の嫡子に男子が生まれなかったために改易されている。

玉造口の外側の外堀(砲兵工廠時代に埋められ、戦後再築造されたので新しい)



もう一人の大番頭、森川重高は、徳川秀忠時代に老中を務めた下総生実藩(1万石)初代森川重俊の孫、重信の弟である。



興味深いのは、大坂加番の名前が見当たらないことで、1年の任期しかなかった加番は監査の対象から除外されていたのかもしれない。


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